四、冷えを感じる部分
杉岡はシンクの中にあるシェイカーを洗っていた。早い時間から神代が飲みに来ていたために、早々とカクテルが作られたからだ。
「やっぱりここが一番安心するな」
カクテル・グラスに口をつけながら神代は言った。グラスの中に注がれているホワイト・レディはジン、ホワイト・キュラソー、レモン・ジュースをシェイカーに入れて作られるカクテルだ。
「まあ、安心して飲んでもらえるならば光栄です」
「ここの味に慣れすぎたからな。それに店の雰囲気にも……」
返す神代の言葉に、碑は笑顔で答えた。そしてBGMの無くなった事を理解して、カウンターの端に置かれたレコードを差し替えた。アート・テイタムのソロアルバムがプレイヤーの上に置かれ、ゆっくりとしたチェロキーが流れはじめた。
「ここまでくると落ち着きすぎだな」
神代がBGMに注文をつけるように言った。そしてあきれた笑顔を自分に対して向けた。
「尻に根が生えないようにしないと、ですね」
「大丈夫、それほど長居はしないさ」
杉岡は二人のやり取りを耳にして、築いてきた時間がどれほどのものなのか。正確な長さは知らないまでも、店をやっているとこのような人間関係が築けることがあるのかと、羨ましく思った。そして自らが念願叶って独立した際に、そのような人との出会いがあるのかどうか……と思わず未来に希望を求めた。
「そういえば杉岡君は、カクテルは作るようになったのかい」
カウンターの中に控えている杉岡に、神代は話しかけた。杉岡は恐縮したように肩をすぼめ
「いえ、まだ水割りの練習中です。もちろんシェイカーやステアの練習もしていますが、まずは基本ができるようにしたいので……」
杉岡は神代の存在に慣れてきたのか、笑顔を出しながら答えた。
「そうか、それは良い心がけだ。
まあ急ぐ必要はないさ、基礎を固めることは大切だからな」
「はい、頑張ります」
杉岡は初心表明をするように元気よく答えた。
「神代さんは基礎にはうるさいからな」
碑はいたずらっぽく振った。神代はその言葉を誠実に受け止めた。
「まあ、基礎ができているといないでは大違いだからな。
基礎ができていない応用は、土台のない家と一緒で、もろいからな。
基礎力が高いと、その上に建てられた物は強固で、格段に変わってくる」
今まで見たことのない神代の真剣な眼差しに、杉岡は凄みというか、重みを感じた。その言葉を終わらせると神代は、残りのカクテルを一気に口の中へと放り込んだ。
「じゃあマスター、帰るよ」
「はい」
神代の飲み方はいつも綺麗でスマートである。端から見ていて杉岡はそう思った。
会計を済ませ、神代は店内から消えていった。そして客がいなくなった店内では、ミキシング・グラスにバースプーンを入れ、クルクルと回している杉岡と、相も変わらずカウンターの端に座り、読書をしている碑だけとなった。
ミキシング・グラスの内面をバースプーンの側面が擦る音が聞こえる。たまに力が外に向かずに、両者が離れた時に「カチッ」と音がたつ。
「もっとしっかりと外へ力を向けないと、今のようになるから気をつけろよ」
「はい」
読書をしながらも、音だけは気にしている。見られていないのに見られているというプレッシャーを感じながら、杉岡はステアの練習を続けた。碑から以前、
「バースプーンを回すなんていうのは、三時間も回し続ければできるようになる」
などと言われたが、そんなに長く回すことは杉岡には無理であった。家で練習をした際に、バースプーンに触れている指の背から出血をしてしまったのだ。ただそれくらいの気持ちでやれという事なのだろうと、杉岡はできる限りの練習を続けた。
しばらく来客がない中で、杉岡はミキシング・グラスを洗い、練習を終えていた。やはりバースプーンに接している指が擦れて血が出てしまっていたのだ。血が付いたまま練習をすることを憚って、終わらせてしまったのだ。そして出血箇所には絆創膏がつけられていた。
「まあ、そこまでやれたのならば結構なものだ」
碑は本を閉じ、固まった筋肉を弛緩させるために軽く身体を動かしながら杉岡に言った。その言葉を当の杉岡は誉め言葉として取ろうとしていた。ステアの練習ができなくなった杉岡に対して
「とりあえず、手首でも柔らかくしておくのだな」
碑はそう言うと、胸の前で両手を合わせ、シェイカーを振るように手首を前後に回した。グルグルと行き来する手は、固定された手首を中心に柔らかく回った。杉岡も真似るように手首を回した。だがそれは碑と比べると一目瞭然で可動範囲が狭く感じられた。
「まずは手首を回せるようにして、そのあとにストロークを長くできるようにする」
碑は手首の回転に合わせるように、手を前後へと行き来させた。
「マスター、手首はわかりますが、あまり手を伸ばさないで振るバーテンダーの方もいますよね」
杉岡はそれほど前に出さずに、手首を回しながら聞いた。
「確かにいるなぁ。ただストロークを使うことによって、氷の間を液体が行き来する。
ストロークを使わないと、氷の行き来のスピードのほうが速くなって、液体は弾かれるだけになってしまう。
氷との接地面積も少なくなって、最終的には冷えない、混ざらないという状態になることが多いかな。それでもそれなりのカクテルを作るバーテンダーはいるのかもしれないけれどな……」
杉岡は、何度か目にしたことのある碑のシェイカーを振る姿を想像した。
「マスターがゆっくりシェイクをするのは、氷と液体の接地面積を考えてなのですか」
「そうだ。早く振ると液体と氷の接地面積は少なくなる。ゆっくり振って液面を伸ばすことで接地面積が増え、冷えるようになる」
碑はカウンターの中へと入り、二つのシェイカーに氷を入れた。そして順番に常温の水を入れ、振って見せた。はじめはゆっくりと振った物、二回目は早く振ったものだ。
カクテル・グラスに注がれた水によって、二つのグラスは霜が降り、いかにも冷たそうに感じられた。
「飲んでみるか」
言われるがまま杉岡は二つのグラスへ口をつけた。確かに温度が異なる。碑がシェイカーを振った回数はほぼ同じであったと記憶している。それでも温度の差は理解できた。
碑はカクテル・グラスの側面へと、指の背を当てた。それによって冷えを確認しているのだ。杉岡も習うように同じく側面に指を当てて温度を確認した。確かにグラスの表面温度は異なっているように感じられた。
「こんなに変わるのですね」
驚く杉岡の表情を確認してから、碑は口を開いた。
「そう、何も考えずに作ると、水割りの時と同じように、あからさまに違いが出る。
バーテンダーによっては、シェイカーを振ればカクテルができると思っている人間がいるようだが、ちゃんとしたカクテルを作ろうとしたら、物理学を考えない限りできない」
碑はそれだけを言うと、再び本を読むためにカウンターを出ようとした。しかし、白い扉が開いたためにカウンターの中へと留まった。
「いらっしゃいませ」
白い扉を潜り抜けて、若い男女が店内へと入ってきた。そしてバックバーが全体的に見える位置へと座った。
「いらっしゃいませ」
声をかけながら、杉岡はおしぼりを広げ、客の手を即した。女はおしぼりを手に取り、笑顔を見せた。男はおしぼりを手にすることもせずに、バックバーをしきりに見渡した。
「おしぼりをどうぞ」
杉岡にそくされて男は広げられたおしぼりを、仕方ないという表情で受け取った。再びバックバーへと向けられた男の視線は、何かの酒を探しているというよりも、どのような酒が置かれているのか、そちらに興味があるようだ。
「もしもお決まりであれば」
碑は声をかけた。
「私はホワイト・レディをください」
女はすぐに返した。それに続くように男も注文をした。
「サイドカーを」
「かしこまりました」
碑はカクテル・グラスを二脚出し、氷を入れてグラスを軽く冷やした。その間に杉岡は、ジン、ブランデー、ホワイト・キュラソー、レモン・ジュースという材料を、カクテルを作る作業台の前に準備した。
しっかりとカクテルのレシピを覚えてきている。碑は杉岡の努力に関心を示した。
シェイカーに氷を入れ、カクテル・グラスの中の水気を払ってから、二人の客の前へ置かれたコースターの上へと置いた。
シェイカーの中に水を入れて氷を洗い、ストレーナーをつけ、水気を取ってから、材料をシェイカーの中へと入れ、ゆったりとした動作でシェイクし、カクテルを作った。
「お待たせいたしました」
二つのカクテルが並び、碑はそれをカウンターの中心辺りへと差し出した。
白と琥珀色からオレンジに近い二種類のカクテルを見て、女は嬉しさを表情に見せたが、男は真剣な眼差しのまま、グラスを手にした。そして各々が口元へカクテル・グラスを運んだ。
「おいしい」
思わず女が出した言葉とは対照的に、男は気難しい表情で頷くだけであった。そして二人は個々のカクテルを取り換え、別のカクテルへ口をつけた。お互いがどのようなカクテルを飲んでいるのか、確認をしているようであった。そしてカクテルは最初の位置へと戻された。
「あんなにゆっくり振って、回数も多くないのに、こんなに冷えて、混ざるのですね」
男は真剣な表情でカクテル・グラスを見ながら、感想を述べた。碑はそれに応える。
「そうですね。しっかりと振れば冷えて混ざりますよ」
「それにしても、こんなにアルコール感を感じないカクテルは、あまり飲んだ記憶がないです。
ベースの味はしっかり感じられますが、それでもバラバラではなく一つの味になっているっていう感じで……」
弾むような女は、笑顔で声を上げた。
「ちゃんと混ぜてあげれば、嫌なアルコール感はでないですよ。ベースだけが活きているカクテルは、混ざりきらないからベースが強調されるだけで、ベースはわかるけれども別の物になる。そんな感じのカクテルだとは思いますが」
笑顔を見せて言う碑に、女は釣られるように微笑んだ。
「神代さんが、一度行ってみるといいって言っていた意味がわかります」
男は女とは対照的に、真剣で気難しい表情のままカクテル・グラスを見て言った。そして鞄の中から一枚の名刺を取り出し出し、頭を下げて碑へと差し出した。
「すみません、先に名乗るべきだったかもしれませんが、同業です」
その名刺にはバーの店名と、夏木という名前が書かれていた。
「同業の方でしたか」
碑は名刺を受け取り、確認をしたのちに、自らの名刺入れへとしまい、その替りに自らの名刺を取り、二人の客の前へと差し出した。
「まだ経験年数はそれほどではないのですが、たまたまいらっしゃった神代さんに、ここのカクテルを飲んでこいと言われまして」
恐縮するように夏木は頭を下げた。
「そうでしたか、まあうちは普通のバーですから、それなりのカクテルしか出せませんよ」
「そんな事ないです」
夏木は先ほど述べた意見の通り、自らが作るカクテルと対比しているようであった。
「それにしても、どうしてあんなにゆっくり振っているのに、こんなに混ざって、冷えるのですが」
彼女をそっちのけという感じであったが、女もそれを意に関せずという雰囲気であった。いつも二人でバーに行くとそうなのかもしれない、と碑は思った。女は二人の会話は勝手にやってと言わんばかりにカクテルへと口をつけた。
「早く振るのと、ゆっくり振るのでは、氷と液体の接地面積が変わります。しかも早く振ると液体がぶつかり合うことよりも、氷とぶつかり合って飛ばされてしまうので、混ざり方は変わってきます」
「そんな事、考えたこともなかったです」
夏木は自らの勉強不足を反省しているようであった。カウンターの端に控える杉岡はその話を、耳を大きくして聞いていた。二人が入店する前の話に類似するが、何度聞いても無駄ではないと思っていた。
「夏木さんは、シェイカーに材料を入れてカクテルを作る際に、液体が冷えてきているということをどこで感じていますか」
碑はシェイカーを手に取り、三つに分解されていた物を一つへと変えて、夏木の前へと出した。夏木は一瞬考えてから、シェイカーのボディの部分を指さした。
「冷えを感じるところですよね。それはもちろんボディで感じるのではないですか」
言葉とは異なり、少し自信がありそうな表情で夏木は答えた。碑は嫌味ではなく笑顔で答えた。
「普段そのような事を考えることはあまりないようですね」
その言葉を耳にして不正解であったと夏木は理解した。
「そうですね。何となくやっていました」
碑は微笑みながら話を続けた。夏木は考えていないと言われて、少し反省をするようであった。
「物質社会に生きているのですから、作るという事に関しても考えてあげなければいけませんね。
シェイカーに材料を入れて振りさえすればカクテルはできると考えているバーテンダーは多いようですが、しっかりとした方法を取らなければ美味しい物はできないのですよ」
碑はシェイカーを再び三分割した。
「杉岡はシェイカーのどこで、液体の冷えを感じている」
「僕もボディだと思っていました」
こちらも反省するような表情で、碑の手元にあるシェイカーを見た。
碑はその答えを聞いて、ボディの部分だけをカウンターの上に置いた。
「ここに氷を入れて、その上で液体をいれますよね」
「はい」
二人は真剣な眼差しをシェイカーに向けたまま同時に答えた。
「という事は、氷の冷えで液体がどのくらいの温度になっているか、という事は理解しづらいはずです。
例えばここに一〇〇度のお湯を入れた後、七〇度のお湯を入れて七〇度を感じることができますか」
「できません」
またしても二人の返答は同じタイミングであった。碑は残された二つの部位を手に取った。そしてそれの断面を二人に見えるようにした。
「それでは、氷の影響を受けない場所が一か所だけあるのはわかりましたか」
二人は碑の手元を見た。
「トップという事ですか」
杉岡が答えた。同調するように夏木は頷いた。
「そうです、ヘッドにストレーナーがついているので、トップの部分には液体以外の物は触れることはできないです。だから冷えを感じるのはそれ以外の部分では無理ですよね」
断言される言葉の後に、二人の口から吐息が漏れた。
「そういう色々な事を考えて作っていけば、自分なりのカクテルを作ることができるようになりますよ」
碑はシェイカーを片づけながら、笑顔を二人に振りまいた。
「勉強になってよかったね」
今まで会話に入ってこなかった女は、そう言うと夏木に笑顔を見せた。その笑顔に夏木は真剣な表情で頷いた。
「神代さんがここのカクテルを飲んできてみろと言った意味がわかりました。
しかもただ飲むという事ではなく、どうやったら美味しいカクテルができるかを考えるという事もあったのですね」
反省しきりの夏木であるが、カクテルを口にして、少しだけ表情を弛緩させた。
「まあ、神代さんがどのような真意でうちを薦めたのかはわかりませんが、考えて物事を進めようとすれば良いものができるという事ではないでしょうか」
碑は二人に再び笑顔を見せた。
その後、上機嫌に対愛のない話をしながら、数杯のカクテルを飲んだ後、夏木たちは帰っていった。
洗われたグラスを拭きながら、杉岡は碑に話しかけた。
「マスターは誰にでも知っていることを教えてしまうのですね」
そんな事を言う杉岡の表情は少しだけ呆れているようにも見えた。
「それが何か問題でも」
碑はヒョウヒョウと答えた。
「自分の強みが無くなってしまうという事ではないですか」
「まあ、それでいいのではないかな。全部さらけ出してしまえばいい。
ただバーという世界に行けば、美味しい酒が飲める。そう思える店が増えることの方がいいと思うだけだけれど」
杉岡は確かに業界全体が伸びるという事を考えればそうなのだろうが、そんなに簡単で良いのかと思えてしまう。自分の強みが消されてしまいかねない。だが碑はそれだけで生きるつもりはないようであった。
「ただ今日は理屈を教えただけで、後は本人の努力が必要。知ることははじめの一歩でしかない。それを使いこなせるかどうかは、人次第……杉岡次第だよ」
知識を知ることと、実践できることは違う。ある種の自信があるからこそ、知識くらいは幾らでも教えることができるのかもしれない。杉岡はそう思うと、しっかりと修行をしなければならないと、襟を正した。
「そういえば杉岡は俺と違って、おしぼりを開いて客に渡すよな」
ふいに思い出したように碑は問いかけた。なんのことかと思い、杉岡は意表をつかれた。
「はい」
なぜそんな事を聞かれるのだろうか、というような返答しかでなかった。だが碑の意図はしっかりとしていた。
「なぜ開いておしぼりを渡すの」
再び碑は問いかけた。
「その方が親切だと思うからです」
杉岡はなぜその行為の話をされているのか、真意がわからなかった。
「そうか、手を差し伸べてきている人に対しておしぼりを開いてあげるという事は親切なのだろうが、その行動を取ろうとしていない人に開いておしぼりを渡そうとすると、取ってくれと即されているように思えなくもない」
「そうでしょうか」
杉岡はわからない程度に語気を強めた。
「先ほどの男性がそうであったと思わないか。
そして受け取らない人に対して、杉岡はおしぼりをどうぞと即した。
自分のタイミングで渡したいから、客のタイミングはどうでもいい。そうなっていなかったか」
そう言われると杉岡は、どちらが親切なのかわからなくなっていた。ただ先ほどのシェイカーの話もそうであるが、物事は考えなければ真を掴めないと、改めて思えた。
碑はグラスを片づけると、アート・テイタムのソロアルバムへ、そっと針を落とした。
ゆっくりとしたピアノの音が店内へと響いた。
その音に耳を傾けて、碑はいつものようにバーカウンターの一番奥の席へと座り、葉巻をふかしはじめた。