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三九、本質のない売上

 碑はカウンターに座り、本を読みながらブリックハウスのトロを吸っていた。

 杉岡は珍しくそれに倣うように、小説を読んでいた。それはバーが題材になっている本かと思いきや、バーのシーンが多いだけの本のようだ。しかしながらその本の中に出てくるバーテンダーは、良い味を出しているのではないかと、杉岡は頭に理想のバーテンダー像を描いていた。

 客がこない日であったがために、軽いタッチで書かれている小説は、どんどんと読み進められていった。

 目が疲れたからだろうか、碑が事務所へ行き、目薬をさして戻ってきた時に、白い扉が開いた。

「こんな場所に店があったんだ」

 そんなことを言いながら入ってきた男に続いて、女も

「そうだね。知らなかった」

 と珍しそうに店内を眺めて言った。

「いらっしゃいませ」

 杉岡は二人に対しておしぼりを出した。

 席に着いた二人は、おしぼりを手にして話を始めた。その間に碑はカウンターの中へと入るが、男女は話をしたまま、注文をする様子がなかった。

 杉岡はどうしたらよいのかわからずに、二人の前に立っているが、注文を聞く気配はなかった。

「ご注文はいかがいたしますか」

 碑は躊躇している杉岡に代わるように近寄りながら二人に声をかけた。男女は声に耳を傾けるが

「どうする」

 と未だに決まらないというよりも、話に夢中で、注文の事まで頭が回っていない様子であった。

「お前、シャンパン飲むか」

 男は思い付きで言葉を発した。

「いや、私そんなにシャンパン好きじゃないもの」

 提案に困ったという表情で女は返した。

「いつも店でシャンパン飲んでいるじゃん。俺が持っていくことも多いだろう」

 二人はどこかの店で働いている。そんなような会話が聞こえてきた。

「あれは仕事だから飲んでいるだけで、別に好きじゃないから」

 女は少しだけ語気を強めて言った。何か思い出すこともあったのだろうか、その表情は不機嫌さを表していた。

「そうなのか、じゃあどうする、あのウーロンハイはありますか」

 再び思い付きの言葉が飛んだ。

「いえ、うちは焼酎を置いていないもので……」

 男の言葉に碑は顔色を変えることなく答えた。

「そっか、じゃあハイボールを」

「ハイボールは何でお作りしましょう」

 男の言葉に碑は返した。

「何でもいいです」

 その言葉に碑は更に質問をする、杉岡の考えは当たらなかった。

「かしこまりました」

 碑はそう答えると、バックバーに置いてあるディワーズの一二年を手にした。杉岡はすぐに一〇オンス・タンブラーを出し、氷を入れ、グラスを冷やしはじめた。

「お客様は何になさいますか」

 碑は女のほうに注文を確認した。女は迷っているのか

「どうしよう」

 と言うと困った表情を見せた。

「じゃあこいつにも同じ物を」

 と男が勝手に注文をした。女は少しだけ眉間にしわを寄せた。

「と言われていますが……

もしもご自身で飲みたいものがあるのならば、言っていただければお作りいたしますが」

 碑はもう一度、女に意思があるのかどうかを確認した。しかしながら女は

「一緒でいいです」

 と言うと、すぐに二人はまた話をはじめた。 

 先ほどのシャンパンの話はまだ続いているようであった。

「だってさ、売り上げを稼ごうとしたら、高い物を、ってなるじゃん。

 ウイスキーとかは度数が高くで酔っちゃうかもしれないからさ飲みたくないし……」

「でもやっぱりシャンパン飲んでるじゃん」

「だから、仕方なく飲んでいるの、しかも炭酸がお腹にたまっちゃうからマドラーで炭酸を飛ばしているでしょう」

 女は男に対して、好きでもないものを、売り上げのためだけに浪費していることを、語気を強めて話した。それにしてもバーでそんな話をするなんて、と杉岡は気分を害した。

 碑はデュワーズのハイボールを差し出すと、丁寧にお辞儀をして、二人の話の邪魔にならないように、レコードの前あたりへと陣取った。杉岡は二人の客が何かあった際に話かけられるようにと、入り口近くで、白い扉の動きも見えるような位置へと立った。

 そんな時に、扉は開いた。

「いらっしゃいませ」

 杉岡の言葉に気が付き、同じ言葉を言った碑は、カウンターの奥の方へと来客を招いた。

 恐縮しているのか、ペコペコと頭を下げながら男は奥へ進み

「いつもお世話になっております」

 と再び頭を下げてから椅子へと座った。

「松野さん、いらっしゃいませ」

 碑はおしぼりを差し出した。

「すみません、最近は営業に来る機会が減りまして」

 松野は再び頭を下げた。もうその行動は癖になっているとしか言いようがなかった。

「いえいえ、気にしないでください。どうせ営業をされても買う金がない店ですから」

「そんなことはないじゃないですか」

 本気とも冗談とも言えるような碑の言葉に、松野は困るような表情を見せた。

そして再び頭を下げてから

「ドライ・ベルモットのソーダ割りをください」

 と注文した。

 碑はドランのベルモットを出し、コリンズ・グラスにカクテルを作った。それが松野へと出された時であった。

「そんなんだったら、帰るよ」

 いきなり大きな声がした。碑が振り返ると、啖呵を切った女が椅子から立ち上がり、出ていくところであった。慌てた男は、オロオロし

「すみません、会計してもらえますか」

 と言うと、会計を済ませて、女を追いかけるように店を出て行った。

「杉岡、どうしたのだ」

 碑は事の顛末がわからず、きょとんとした表情で尋ねた。

「何だかさっきの、シャンパンどうこうという話の中で、急に喧嘩みたいになってしまったようで、私も何だかという……」

 わかりにくい説明であるが、ようは口喧嘩をして女が先に出ていってしまったという事らしい。

「ほかにお客さんがいたら迷惑だったでしょうね」

「そうですね、松野さんだけで良かったですよ」

 恐縮して言う松野に碑は笑いながら返した。

「そうでしょう。お客様がいなくなったから、営業がしやすくなりました。

 これだけ後で見ていただければ……」

 松野はそういうと、A4の用紙を差し出した。そこには酒瓶の写真があり、杉岡は、やっと松野が輸入会社の営業だと気がついた。

「わかりました。後で目を通しておきます」

 碑はそう答えると、用紙をしまった。

「それにしてもシャンパンの話だったのですか」

 松野は少しだけ耳に入れていたのか、杉岡に話を振った。

「はい、多分キャバクラか何かのコだと思うのですが、シャンパンは嫌いだけれど、売り上げのために、炭酸を飛ばしたりして飲んだりしているとかを話していました。

 そのうち男が、色恋営業しているからとかどうとか、って言っているうちに、女の人が声を荒げて」

 杉岡は何とも言えない表情で答えた。

「そうだったのですね。

 それにしても日本人は、それほどシャンパンが好きじゃなくても、なんだかんだお祝いとか何だかって言って、シャンパンを、という人は多いですね」

 松野が答えると、それに乗るように碑が言葉を続け

「莫迦の一つ覚え、というか、それしか知らないのだろうな」 

 そう言ってから、思わずダンヒルのロブストを手にし、火を灯した。

「確かに、そうすれば良いと言われて乗るだけの人は多いですからね。

 そうやって脳みそを使わない人たちは、詐取されていくのでしょうね」

 松野は頷きながら言って、カクテルへと口をつけ、舌が乾かないうちに

「そういえば、シャンパンで面白い噂話がありましたよ」

 と、いたずらな表情を浮かべた。

「もしかしたら私も聞いたことがあるやつかもしれませんね」

 碑も好奇心を駆り立てるような表情を見せた。

 杉岡は、早く内容を聞きたいと、聞き耳をたてるようであった。それに応えるように松野は話をはじめた。

「とあるフランスのシャンパン会社の偉い人が来日したというので、輸入会社のトップの営業マンが、いかに日本でシャンパンが売れているかを見てもらうためにと、その偉い人を接待したらしいのですよ」

 碑はそこまでの話を聞くと、葉巻の煙を宙に浮かべてから、カウンターの端へと下がった。碑が知っている話だったのだろうと、杉岡は思い、松野の話に耳を傾けた。

「連れて行った店は、シャンパンがかなり売れていて、営業マンは偉い人を満足させられていると思っていたみたいなのですよ。

 しかしながら一人の客の席に、シャンパン・タワーが用意された場面を見てしまったようなのですよ」

 松野の言葉に、グラスが高々と積まれた光景を、杉岡は思い浮かべ

「そんなに売れているところを見ていたら、その偉い人はさぞ嬉しかったのではないですか」

 興奮するように言った。自分であればそんなに売れているところに居合わせてみたいと思ってしまった。だがその言葉とは裏腹の話であった。

「悲しい顔をしていたみたいだよ」

 碑は呟いてから、葉巻を口に咥えた。松野は頷いてから、話を受け取るように続けた。

「自分たちが、丹精込めて作ったシャンパンが、飲むこともされないで、ただ浪費されている光景は悲しかったようです。

 テーブルで頼んだ人たちと見ていても、はしゃいでいるだけで、本当においしいと思って飲んでいるか、疑問を持ったようです。

 売上ではなく、作り手として考えた時に、物が評価されていないと思ってしまったのでしょうね」

 そこまでしゃべると、松野は乾いた舌にカクテルを流し込んだ。

 杉岡は派手なシャンパン・タワーを思い浮かべ、自分が興奮していたことに、ある種の罪悪感を覚えた。

 自分は今、何を売るためにこの場に勉強をしにきているのか……。そう考えれば考えるほど、自らの未熟さを覚えた。 

「まあ売上を取ることは悪いことではない。だが、方法は考えないと、背中が寂しくなるの、じゃないかな」

 碑はいつも以上に煙を宙へと浮かべた。その煙は、寂しそうに揺らいで消えていった。

 新しくプレイヤーに乗せられた、ナット・キングコールのトゥ・ヤングが響きはじめた。

「君はまだ若いか……」

 曲を耳にした松野が思わず呟いた。碑はその言葉に頷き、再び紫煙を暗い店内に舞わせた。

「碑さん、たまにはシャンパンでも飲みますか」

 グラスを開けた松野が思わず声を上げた。

「シャンパンですか」

「そうです。何だか悲しい話をしてしまったので、本当にシャンパンが好きな人間で飲みましょうよ」

 松野は笑顔を見せた。

「かしこまりました」

 碑はそう言うと、ペリエ・ジュエを取り出した。

 杉岡がシャンパン・グラスを三脚取り出すと、碑は音もたてずにそれを抜染し、注いだ。

 松野はグラスを手に取ると

「それでは、大好きなシャンパンを祝って」

 と音頭を取った。

 三人は杯を掲げ、浮かび上がってくる泡と共に、それに口をつけた。


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