三八、夏の大三角形
梅雨が明けたような、暑い日であった。しかしながら気象庁からは、梅雨明けの宣言は未だにされていなかった。
杉岡は事務所で着替えを終えると、カウンターの中に入り、スポーツドリンクを飲んだ。汗をかくだけで、塩分も糖分も全て抜け落ちていくような体感であった。
碑はいつもと変わらず、葉巻を吸いながら、カウンターに止まり、落ち着いて本を読んでいた。
「マスター、今日は暑いですよ」
未だに落ち着かないのか、杉岡は額ににじむ汗をハンカチで拭きながら言った。
「そうだな、確かに暑そうだ」
変わって涼しい顔で碑は返した。
「暑そうだって、マスターは暑くないのですか」
「暑いことは暑いけれど、店の中で涼んでいるから、今は平気だけれどな」
「そうですか、私はまだ汗がひかないですよ」
「それは若いからだろう。代謝が良いってことだ」
「そうなのですかね」
杉岡は未だに暑さがひかず感じているのか、再び浮かびあがった額の汗をハンカチで拭った。
「こんな時はビールを一気飲みしたいですね」
喉の渇きを訴えて、杉岡は飲むことができない今の状況を恨めしく思った。
「まあ、そんな気になるかもしれないが、ちゃんと水分を取らないと酔うだけじゃなく脱水を起こすぞ」
「脱水症状ですか」
杉岡は不思議そうに聞き返した。
「ああ、ビールは利尿作用があるからな。結構水分を取られるのだ。
その分、血中アルコール濃度は上がるからな」
「そうなのですね」
杉岡は感心して、頷いた。
碑が言っていたように、しばらく店の中にいれば暑さは感じなくなってくるが、外からきたばかりの客は別なのであろう。現に今、白い扉を開けた男は、Tシャツを汗で濡らしながら入ってきた。
「いらっしゃいませ」
杉岡の言葉に、碑は開いた扉を見た。
「原さん、いらっしゃい」
「いやぁマスター、夏本番になってきたね」
そう言うと原はカウンターの中ほどへと座った。
杉岡はおしぼりを置いた。原はそれを取り、手を拭いた。
「冷たいおしぼりもいいけれど、暑い時に熱いおしぼりもまたいいよね」
「うちは一年中、熱いおしぼりですからね」
カウンターへ入りながら碑は応えた。
「やっぱり、一杯目はマティーニかな」
「かしこまりました」
碑は応えると、冷凍庫の中からヴィクトリアン・ヴァット・ジンを取り出した。杉岡は棚からカクテル・グラスを取り出し、冷やしはじめた。
碑がカクテルを作りはじめると、杉岡は原に声をかけた。
「一杯目にマティーニって、強くないですか」
「まあそうなのだけれど、昔からなのでね」
原は問題ないという表情を見せた。
「軽く食事などはされてきているのですか」
「ああ、新幹線の中で駅弁を食べてきたからね」
原は自分の腹を見るように、軽く答えた。だからいきなりマティーニでも平気なのかと杉岡は言葉を返した。
「何も腹に入っていない状態で、マティーニはきついですからね」
「いや、原さんはどんな時でもスタートはマティーニなのだよな」
碑はグラスに透明な液体を注ぎながら、杉岡の意見を否定するように言った。
注がれる液体に揺れるオリーブは、少しだけ油を出しているようにも見えた。
「そうなのですか、お強いのですね」
杉岡は素直に感心した。
「まあ一杯目からマティーニを飲んで、勢いで何件か梯子すると酔っぱらうけれどね」
原はいたずらな笑顔を見せた。
「梯子するのですか」
原はマティーニに口をつけてから、頷いた。
「飲みだすと、バーホッパーになっちゃう時があるのだよ。
そういえばマスター、今年は東京でも天の川が良く見えたって言っていたね」
「そうですね。たまたま雨が上がったので、見ることはできたようです」
碑は先週の事を思い出して言った。
「原さんはいつも通りですか」
「まあ、どうしてもうちの妻が、山で見たいって言うのでね」
「毎年でしたよね」
碑は記憶を辿って返した。
「そう、今年も夏の大三角形を気持ち良く見てきたのですよ」
原はそういうと思い出したかのように、鞄から土産のお菓子の箱を取り出した。
「マスター、これお土産です」
「ありがとう」
碑はそれを受け取ると、カウンターの上にそれを置き、キャンドルライトを取り出し、お返しとして原へと渡した。
原は、それを受け取ると
「いただきます」
とライターで火をつけ、うまそうに煙を宙へと浮かべた。
「それにしても、山の中で見ると、あんなに星が多いのには驚きますよ」
思い出すように、原は天井を見上げた。
「まあ、空気が澄んでいるし、下手な明かりがないですからね」
「そうなのですよね。それにしても、アホな後輩がいて、奥さんに、君は都会の星みたいだって言った奴がいて……」
原は苦笑いをしながら言葉を出した。
「都会の星って、どんな意味なのですか」
杉岡は気になって思わず質問をした。原は笑いを抑えて言葉を出した。
「ネオンとかの光りが強くって、よく見えないって」
「それって……」
杉岡は言葉に詰まり、苦笑いで返すことしかできなかった。
「浮気じゃないけれど、結婚して長いから、他が良く見えちゃうっていう事じゃないのかな、次の日奥さんが夕飯作ってくれなかったって言っていたけれど」
原は笑いながらマティーニの残りを飲み干した。
「本人としては面白可笑しく言ったつもりなのだろうけれど、まあ、仕方ないね」
杉岡は原の言葉を苦笑いして聞くことしかできなかった。
原は、キャンドルライトの煙を、宙へと飛ばした。エアコンの風が強いせいか、その煙はあっという間に店内に飛散していった。
「さて、じゃあ都会では見えない酒でも飲もうかな」
原は碑にいたずらっぽい笑顔を見せた。
「都会で見ない酒ですか」
碑はバックバーをしばらく眺めると、二本のボトルを取り出した。
「絶対にない、という訳ではないでしょうが、この辺りでいかがでしょう」
原は目の前に出されたボトルをまじまじと見つめた。
「キングスバリー、ケルティックのグレンアルビンと、ゴードン&マクファイルのグレンモールかぁ。確かに見ないかもしれないですね」
原はウイスキーに詳しいのか、あっさりと銘柄を理解した。
「残っているところもあるでしょうが、都内のほうでは飲みつくされている店は多いでしょうね」
碑は原の言葉に乗るように返した。
「両方とも閉鎖どころか、もう建物すら存在しない物ですね」
「はい」
杉岡は、二人がやり取りをしている間に、ショット・グラスとチェイサーを準備した。
「今日はモールにしようかな」
「かしこまりました」
碑はボトルから、カスク・ストレングスのウイスキーを注ぎ、原の前へと差し出した。
「星は地上から見えなくても、存在はしているけれど、この酒は現存している物が終わったらなくなっちゃうのだよな」
原は思わず、そんなことを口にして、ウイスキーを口腔へと流し込んだ。
「確かにそうですね」
思わず杉岡が返した。
碑は葉巻を咥えると、宙へと煙を吐き出し、思わず呟いた。
「本当に、その星が存在しているのかは、実際にはわからないけれどな」
その言葉に杉岡は、疑問を浮かべるような表情を見せた。
「光りが地球に届いているだけで、星自体は無くなっているかも、てですね。
マスターらしい答えですね」
原が感心するように言い、再び琥珀色の液体へと口をつけた。
「その星がなくなっているかどうかは、何光年か先に検証すればいいでしょう」
碑はそう言うと、ターンテーブルにあるレコードを外し、デイブ・ブルーベックのデイブ・ディグズ・ディズニーを流し始めた。
「星に願いを、ですか」
メロディーを聞いて思わず原が呟いた。
「いつも奥様と山に夏の大三角形を見に行っている時、どのような願いをされているのですか」
「さあ、来年も一緒に見に行くことができればくらいかな」
碑の質問に恥ずかしさを見せずに答えると、原は、グラスを手にした。