表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/56

三八、夏の大三角形

 梅雨が明けたような、暑い日であった。しかしながら気象庁からは、梅雨明けの宣言は未だにされていなかった。

 杉岡は事務所で着替えを終えると、カウンターの中に入り、スポーツドリンクを飲んだ。汗をかくだけで、塩分も糖分も全て抜け落ちていくような体感であった。

 碑はいつもと変わらず、葉巻を吸いながら、カウンターに止まり、落ち着いて本を読んでいた。

「マスター、今日は暑いですよ」

 未だに落ち着かないのか、杉岡は額ににじむ汗をハンカチで拭きながら言った。

「そうだな、確かに暑そうだ」

 変わって涼しい顔で碑は返した。

「暑そうだって、マスターは暑くないのですか」

「暑いことは暑いけれど、店の中で涼んでいるから、今は平気だけれどな」

「そうですか、私はまだ汗がひかないですよ」

「それは若いからだろう。代謝が良いってことだ」

「そうなのですかね」

 杉岡は未だに暑さがひかず感じているのか、再び浮かびあがった額の汗をハンカチで拭った。

「こんな時はビールを一気飲みしたいですね」

 喉の渇きを訴えて、杉岡は飲むことができない今の状況を恨めしく思った。

「まあ、そんな気になるかもしれないが、ちゃんと水分を取らないと酔うだけじゃなく脱水を起こすぞ」

「脱水症状ですか」

 杉岡は不思議そうに聞き返した。

「ああ、ビールは利尿作用があるからな。結構水分を取られるのだ。

その分、血中アルコール濃度は上がるからな」

「そうなのですね」

 杉岡は感心して、頷いた。

 

 碑が言っていたように、しばらく店の中にいれば暑さは感じなくなってくるが、外からきたばかりの客は別なのであろう。現に今、白い扉を開けた男は、Tシャツを汗で濡らしながら入ってきた。

「いらっしゃいませ」

 杉岡の言葉に、碑は開いた扉を見た。

「原さん、いらっしゃい」

「いやぁマスター、夏本番になってきたね」

 そう言うと原はカウンターの中ほどへと座った。

 杉岡はおしぼりを置いた。原はそれを取り、手を拭いた。

「冷たいおしぼりもいいけれど、暑い時に熱いおしぼりもまたいいよね」

「うちは一年中、熱いおしぼりですからね」

 カウンターへ入りながら碑は応えた。

「やっぱり、一杯目はマティーニかな」

「かしこまりました」

 碑は応えると、冷凍庫の中からヴィクトリアン・ヴァット・ジンを取り出した。杉岡は棚からカクテル・グラスを取り出し、冷やしはじめた。

 碑がカクテルを作りはじめると、杉岡は原に声をかけた。

「一杯目にマティーニって、強くないですか」

「まあそうなのだけれど、昔からなのでね」

 原は問題ないという表情を見せた。

「軽く食事などはされてきているのですか」

「ああ、新幹線の中で駅弁を食べてきたからね」

 原は自分の腹を見るように、軽く答えた。だからいきなりマティーニでも平気なのかと杉岡は言葉を返した。

「何も腹に入っていない状態で、マティーニはきついですからね」

「いや、原さんはどんな時でもスタートはマティーニなのだよな」

 碑はグラスに透明な液体を注ぎながら、杉岡の意見を否定するように言った。

注がれる液体に揺れるオリーブは、少しだけ油を出しているようにも見えた。

「そうなのですか、お強いのですね」

 杉岡は素直に感心した。

「まあ一杯目からマティーニを飲んで、勢いで何件か梯子すると酔っぱらうけれどね」

 原はいたずらな笑顔を見せた。

「梯子するのですか」

 原はマティーニに口をつけてから、頷いた。

「飲みだすと、バーホッパーになっちゃう時があるのだよ。

そういえばマスター、今年は東京でも天の川が良く見えたって言っていたね」

「そうですね。たまたま雨が上がったので、見ることはできたようです」

 碑は先週の事を思い出して言った。

「原さんはいつも通りですか」

「まあ、どうしてもうちの妻が、山で見たいって言うのでね」

「毎年でしたよね」

 碑は記憶を辿って返した。

「そう、今年も夏の大三角形を気持ち良く見てきたのですよ」

 原はそういうと思い出したかのように、鞄から土産のお菓子の箱を取り出した。

「マスター、これお土産です」

「ありがとう」

 碑はそれを受け取ると、カウンターの上にそれを置き、キャンドルライトを取り出し、お返しとして原へと渡した。

 原は、それを受け取ると

「いただきます」

 とライターで火をつけ、うまそうに煙を宙へと浮かべた。

「それにしても、山の中で見ると、あんなに星が多いのには驚きますよ」

 思い出すように、原は天井を見上げた。

「まあ、空気が澄んでいるし、下手な明かりがないですからね」

「そうなのですよね。それにしても、アホな後輩がいて、奥さんに、君は都会の星みたいだって言った奴がいて……」

 原は苦笑いをしながら言葉を出した。

「都会の星って、どんな意味なのですか」

 杉岡は気になって思わず質問をした。原は笑いを抑えて言葉を出した。

「ネオンとかの光りが強くって、よく見えないって」

「それって……」

 杉岡は言葉に詰まり、苦笑いで返すことしかできなかった。

「浮気じゃないけれど、結婚して長いから、他が良く見えちゃうっていう事じゃないのかな、次の日奥さんが夕飯作ってくれなかったって言っていたけれど」

 原は笑いながらマティーニの残りを飲み干した。

「本人としては面白可笑しく言ったつもりなのだろうけれど、まあ、仕方ないね」

 杉岡は原の言葉を苦笑いして聞くことしかできなかった。

 原は、キャンドルライトの煙を、宙へと飛ばした。エアコンの風が強いせいか、その煙はあっという間に店内に飛散していった。

「さて、じゃあ都会では見えない酒でも飲もうかな」

 原は碑にいたずらっぽい笑顔を見せた。

「都会で見ない酒ですか」

 碑はバックバーをしばらく眺めると、二本のボトルを取り出した。

「絶対にない、という訳ではないでしょうが、この辺りでいかがでしょう」

 原は目の前に出されたボトルをまじまじと見つめた。

「キングスバリー、ケルティックのグレンアルビンと、ゴードン&マクファイルのグレンモールかぁ。確かに見ないかもしれないですね」

 原はウイスキーに詳しいのか、あっさりと銘柄を理解した。

「残っているところもあるでしょうが、都内のほうでは飲みつくされている店は多いでしょうね」

 碑は原の言葉に乗るように返した。

「両方とも閉鎖どころか、もう建物すら存在しない物ですね」

「はい」

 杉岡は、二人がやり取りをしている間に、ショット・グラスとチェイサーを準備した。

「今日はモールにしようかな」

「かしこまりました」

 碑はボトルから、カスク・ストレングスのウイスキーを注ぎ、原の前へと差し出した。

「星は地上から見えなくても、存在はしているけれど、この酒は現存している物が終わったらなくなっちゃうのだよな」

 原は思わず、そんなことを口にして、ウイスキーを口腔へと流し込んだ。

「確かにそうですね」

 思わず杉岡が返した。

 碑は葉巻を咥えると、宙へと煙を吐き出し、思わず呟いた。

「本当に、その星が存在しているのかは、実際にはわからないけれどな」

 その言葉に杉岡は、疑問を浮かべるような表情を見せた。

「光りが地球に届いているだけで、星自体は無くなっているかも、てですね。

 マスターらしい答えですね」

 原が感心するように言い、再び琥珀色の液体へと口をつけた。

「その星がなくなっているかどうかは、何光年か先に検証すればいいでしょう」

 碑はそう言うと、ターンテーブルにあるレコードを外し、デイブ・ブルーベックのデイブ・ディグズ・ディズニーを流し始めた。

「星に願いを、ですか」

 メロディーを聞いて思わず原が呟いた。

「いつも奥様と山に夏の大三角形を見に行っている時、どのような願いをされているのですか」

「さあ、来年も一緒に見に行くことができればくらいかな」

 碑の質問に恥ずかしさを見せずに答えると、原は、グラスを手にした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ