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三七、七夕の夜に

 どしゃぶりの雨が降っている日であった。それは店内にも聞こえてくるほどで、杉岡は来るときに濡れたズボンが帰る頃まで乾くのか疑問に思ったほどであった。

 誰も来ない店内で本を読んでいた碑がカウンターの中に入ったのは、二一時を過ぎた頃であった。

「マスター、こんな雨の日はやはり客足は遠のくのですかね」

 杉岡は何となく碑に話しかけた。

碑はヒュミドールからキャンドルライトを取り出し、着火してそれを咥えてから

「雨とか関係なく、うちは暇な店だからな」

 と軽く答えた。

そのままレコードを取り出し、ターンテーブルへと乗せた。マイルス・デイヴィスの死刑台のエレベーターが、重い湿度のある空気を更に重くさせるようであった。

 そんな中、一人の客が白い扉を開けた。

「いらっしゃいませ」

 碑は軽く会釈をした。

 傘が一部役に立たないくらいの雨だったのか、男の袖などには雨粒のあとが見られた。

「マスター、久しぶりです」

 男ははつらつとした声で言うと軽く会釈をし、カウンターの一番奥へと座った。

「いらっしゃいませ」

 杉岡はおしぼりを男の前へと出した。

「なんだ、マスター、弟子を取ったのですか」

 杉岡の顔を見てから男は碑に疑問を投げかけた。

「はい、押しかけでこられたので」

 碑は冗談のように答えた。

「杉岡です、よろしくお願いいたします」

 二人のやり取りを聞いて、杉岡は昔から知った客なのであろうと挨拶をした。

「市川です。こちらこそよろしく」 

 市川は軽く返した。

「市川さん、一杯目はいつものですか」

「ええ、二杯お願いします」

「かしこまりました」

 碑はそう答えると、コースターを市川の分の他に、隣の椅子の前へと準備し、カクテル・グラスを二脚、氷を入れて冷やし始めた。

 杉岡は何を作るかわからないので、カウンターの端へと邪魔にならないように移動した。

 冷蔵庫からサンチェス・ロマテのフィノが出され、バックバーからドランのスィート・ベルモットが作業台の前に置かれた。杉岡は材料で、これから碑が作る、であろうカクテルを予想できた。

 カクテル・グラスを準備した後、ミキシング・グラスに氷が入れられた。碑にしては珍しく二杯のカクテルを同時に作るのか、いつもよりも氷の量は多く見受けられた。

 材料を入れ、二杯分という事もあるのか、いつもよりもバースプーンを回す回数が、少しだけ多く感じられた。

 そして二つのグラスに同じ量のカクテルが注がれ、市川の前と、もう一つの椅子の前へと差し出された。

 出されたカクテルを市川は眺め、思わず目を閉じた。それほど長い時間ではないが、決して短い時間という訳ではなかった。

 市川はグラスを手に取ると、置かれたままのグラスを見て、優しい微笑みを見せてからグラスを口元へと運び、一口飲んだ後に、小さな吐息を出した。

「相変わらず、マスターのカクテルはおいしいね」

「ありがとうございます」

 碑は、受け止めるようにして頭を下げた。

「私がこの店に来たのは、もう二五年くらい前でしたよね」

 市川が回顧するように話はじめ、碑はそれを受け止めた。

「そうですね、お互い若かったですね」

「確かに、マスターもいつの間にか白髪交じりになったものね」

「短髪でもわかりますか」

「はい」

 市川はそういうと、再びグラスを口元に運んだ。そして満足そうに微笑んで口を開いた。

「結婚する前、妻と来た時に、妻が頼んだカクテルがこのアドニスだったのですよね」

「そうでしたね。あれから一杯目は二人ともアドニスと決まっていましたね」

「最初、私はジントニックでしたけれど、あれから変わってしまいました」

 そう言ったとき、杉岡は市川の微笑みに、なぜか少しだけ寂しさがにじんでいるよう感じられた。

 市川はゆっくりとアドニスを飲み干すと、バックバーを眺めた。

視線はウイスキーが並んでいるあたりを見ているようであった。

「このあたりでしたっけ」

 碑はボトルを三本ほど選ぶと、市川の前へと置いた。そのボトルをまじまじと見てから市川は驚くような表情を見せ、声を上げた。

「この年数だ。マスターよく覚えていたね」

「でも全部同じ年代じゃないですから、やはりウル覚えですよ」

 碑は褒められて、照れ笑いを見せた。

「いや、それでも覚えていてくれるなんて嬉しいですよ。

 じゃあこれを二杯」

 市川は再び、同じ物を二杯注文した。

 ボトラーズのグレンタレットが、ストレートで二杯。市川の前と、アドニスに並ぶように隣りに置かれた。

 市川はアドニスの時と同様に、少しだけ目を閉じて、何かを考えてから、ショット・グラスを手にした。

「そういえば、うちの娘は猫好きだったのですよ」

 そう語る市川の、一瞬緩んだ頬に寂しさが見えた。

「猫好きだったのならば、このウイスキーは当たりでしたね」

 碑は笑顔で返した。

「まあ、うちで飼っていた猫は、タウザーほど優秀ではなかったですが、愛くるしいやつでしたよ」

 そう言うと市川は、残っていたウイスキーを一気に口の中へと放り込み、喉を鳴らすようにして飲み干した。

 そして空になったショット・グラスを強く握った。先ほどの寂しさが見える表情とは異なり、一瞬、市川の目に怒りの感情が見えるように吊り上がった。次の瞬間、力が抜けたその目から、涙が一筋こぼれた。

「マスター、もう一杯」

 カウンターの奥に出されたグラスに、碑は同じグレンタレットを注いだ。

 市川はそのグラスを再び強く握り締め、目を閉じた。頭の中に、何を思い描いているのだろう。涙もあったために、杉岡はそんなことを思った。

「生きていたら二三かぁ、こうやって一緒に飲んでくれたかなぁ」

 ショット・グラスを眺めながら、感傷的な声を上げ、市川は思わず涙で鼻を鳴らした。

「どうでしょうね」

 碑は不確定なことを言えず、濁すように返した。

「お父さんと一緒は嫌だなんて言われていたかもしれないですね」

 市川はそう言うと、少しだけウイスキーを口腔に含んだ。

「今みたいに、三人で並んで飲んでいたかもしれないですよ」

 碑は優しい目線で、三つ並んだグラスを見つめて言った。

「そうですね。結婚する前に、お母さんとこの店に一緒に来ていたのだよ、なんて話をしていたかもしれないですね」

 市川はそう言うと、悲しみを含めた微笑みを見せた。

「高校に上がったばかりの娘と妻が、私の誕生日のプレゼントを買いに行ってくれていた日なのですよ。

 忘れもしない七夕の日……」

 市川は何かを思い出したのか、少しだけ肩が震えているようにも見えた。碑も杉岡もどのような感情をその肩に乗せているのかわからず、ただただ市川を見守った。

「夕方の時間に、飲酒運転をした外国人の車にはねられるなんて……思いもよらなかったですよ」

 市川の言葉に杉岡は、先ほどから感情が入れ替わるような原因がそこにあったのかと思うと、何も言える言葉が見つからなかった。

碑も同じようで、ただ頷くことしかできなかった。

「今でも殺してやりたいって思いますよ。

 でも、そいつを殺しても、妻と娘は帰ってこないのですよ。

 あの日、行ってきますって、笑顔で出て行ったまま、帰ってこないのですよ」

 市川は再び、ショット・グラスを空にした。

 先ほどまで店の中にまで聞こえていた雨音が聞こえなくなっていることに、杉岡は気がついた。

 碑もそう思ったのか、思わず扉を開け、外界を覗いた。

 そこは先ほどとは打って変わり、星が少しだけ顔を見せていた。

「市川さん、雨やみましたよ。しかも星が少しだけ出てきています」

 碑は思わず市川に外界の様子を伝えた。

「七夕で星が見えるって、何だか珍しい気がします。

 もしかすると妻と娘が会いにきてくれたのかもしれないですね」

 市川はそう言うと、涙を流しながら微笑んだ。それは何度となく変わった悲しいものではなく、温かい微笑みに、杉岡には見えた。


「マスター、あのグラスは陰膳だったのですね」

 杉岡はグラスをしまい終えると碑に声をかけた。

「ああ、市川さんは毎年、七夕の日にくるのだよ。

奥さんと娘さんが亡くなった日に……」

 碑はそういうと、深いため息をついた。そして少なからず、市川がその日に求めている店になっているのならば、と考えた。

「バーは人によって、色々な使い方があっていいと思う。

 そんな人たちが、自分の気持ちと向き合えるように、俺たちは日々精進しなきゃならいのだろうな」

 碑はそう言うと、再び死刑台のエレベーターを店内に流した。


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