三六、言語
湿度が高い事が、店の中にいてもわかるくらいの梅雨の雨であった。
杉岡はバックバーのリキュールを拭きながら思わず碑に尋ねた。
「マスター、ドーバーの和酒があるじゃないですか、ここの種類は日本の物でできているのですよね。それでも使いこなすことはできるのですか」
碑は吸っていたホセ・L・ピエドラのコロナを灰皿のたばこ休めに置いて、顔を上げた。
「使いこなすことはできるだろう。海外の物じゃなきゃ使えないなんてことはないのだから。
その商品の個性を知って、何と混ぜればよいのかを考えれば、自ずと答えは見つかってくるはずだ」
「個性ですか」
「そう、バーテンダーがそれを考えるのは当たり前だし、もっと複雑なことをやっているのは、シェフの世界だろう。
数多あるスパイスなどを幾つにも渡って混ぜ合わせ、その上で、メインになる食材と合わせる。そう考えれば、バーテンダーの世界はもっともっとできることがあるだろう」
「確かに、料理の世界は全く違いますね」
杉岡は自分が勤めるカフェレストランを考えればわかることだと思った。
「そう、ただ国などによっては貧弱な食べ物しかないところもある。
塩、ごま油、唐辛子程度しか使わない国もあるから、そういうところは料理に幅がない。
バーテンダーもそうならないようにと思いうが、俺も古典から離れることができないでいるからな。
そういう意味では山上なんかは、サイエンス・カクテルなんかも作るから、先進的と言えば先進的だ。一度勉強しに行ってくるといい」
そう答えると、碑は再びホセ・L・ピエドラを咥えた。
杉岡は確かに、山上の店に伺ったときに、そのようなカクテルを作っているところを見たことがあることを思い出した。確かハイボールに、煙をつけ燻製にしているような物であったことを思い出した。
そんな時、若い男女が店の扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
杉岡の言葉の後に、碑は立ち上がり同じ言葉を発してからカウンターの中へと入った。
「へぇ、一樹がいたバーとは全然違う感じだね」
席に着くなり女はあたりを見渡すようにして言った。
「そうだね。あそこはもっとカジュアルだし、有名な酒が多かったからな」
一樹はバックバーを見比べるように返した。杉岡がおしぼりを出そうとすると、二人とも手を出したので、杉岡はおしぼりを広げて手の上へと渡した。
「ディダ・グレを、未奈はどうする」
一樹は間髪入れずに注文をしてきた。即された未奈は続くように注文をした。
「私はスクリュードライバーを」
「かしこまりました」
と未奈の言葉に応えた後、杉岡は一呼吸置いた。そして
「すみません、うちはディダを置いていないので、別のライチ・リキュールになりますがよろしいですか」
と伺いを立てた。
「ああ、それでいいですよ」
わかっているのか、わかっていないのか、一樹が軽く答えると、杉岡は会釈をして二人の前を離れた。
碑はコリンズ・グラスを棚から二脚出し、氷を準備していた。
杉岡はジファールのライチ・リキュールを棚から、冷凍庫からアブソルベント・ウオツカを取り出した。碑は冷蔵庫からグレープフルーツ・ジュースとオレンジ・ジュースを取り出し、カウンターの端へと移動した。
一樹は作業台の前に置かれたライチを珍しそうに見ていた。
二つのグラスにそれぞれ材料が入れられ、二人の前へと差し出された。
未奈はグラスを持つと
「乾杯」
と言って一樹を即した。一樹もグラスを持つと、二人はグラスを合わせて、酒を飲み始めた。
「一樹もお酒作っていたんでしょう」
「そう、俺もバーテンだったから、シェイカーも振っていたよ」
一樹は自慢気に言った。
「大学生の時って言っていたよね」
「そう、アルバイトだったけれど、結構作ったからな」
そんな話を耳にして、杉岡は自分もアルバイトではないが、今務めているカフェバーでシェイカーを振っている。しかし碑の元に来てから、それまでの自分をバーテンダーとして考えてよいのかと迷うところはあった。
「シェイカーなんて簡単だよ。あとはレシピを覚えていればできちゃうからな」
知らない人間は恐い。杉岡は一樹の言葉を考えると本当に恥ずかしかった自分を思い出すようであった。
そんな二人が二杯目のカクテルを注文した頃に、雪乃が店内へと入ってきた。
「マスター、まだ降っていますよ」
そんな愚痴交じりの言葉を吐きながら、雪乃はカウンターへと座った。
「今日はずっと降る予定じゃなかったかな」
碑はそう言うとおしぼりを雪乃へと差し出した。
「グレンキンチーの一二年をください」
碑は頷いてバックバーからボトルを取ると、ショット・グラスへと注ぎ、雪乃へと差し出した。
「マスター、昨日来たお客さんで、グレンくださいっていう人がいて、どうしようって思っちゃいましたよ」
雪乃はウイスキーで舌を湿らすと話し始めた。
「グレンくださいか、確かにどうしようって感じだな。それでどう対応したのだ」
「とりあえず、グレン何がよろしいですかって聞いたら、いつもいっている店ではグレンとしか言わないからわからないって言われて」
雪乃の呆れた表情に釣られて、碑は思わず苦笑した。
「そっか、じゃあやりようがないな」
「はい、それでグレンリヴェットとグレンフィディックのボトルを出したら、フィディックだったんで、まあ良かったんですけれど」
「そっか、まあグレンという名がつく酒はいっぱいあるからな」
「確かにグレン何とかはいっぱいありますけれど、それで通じる店っていうのも驚きますね」
思わず杉岡が参戦してきた。
「そうでしょう。バーでよく飲むって言っていたけれど、どんなバーなのかって思っちゃったよ。多分銘柄が少ないからできるんだろうね」
雪乃はあきれるような表情で杉岡に答えると、ウイスキーを口腔へと流し込んだ。
「巷にはなんちゃってバーみたいなところも多いからな」
碑は表情を崩したまま言った。
「そういう人にどうせっしたらいいのかって思いますけれど、仕方ないですよね」
「まあな、人それぞれだからな。けれども慣れてきてからでもいいから、ちゃんとしたことを教えてあげないと、その人が損をするからな」
碑もそんな経験があるのか、自分で納得するように頷きながら答えた。
「私も、昔はバーテンダーなんて言っていた自分が、今からしたら恥ずかしい時がありますよ。ここで勉強をして更にそう思いました」
その言葉に反応するように一樹は視線を杉岡に移して、口を開いた。
「あの、バーテンダーって、誰でもできるんじゃないですか」
「まあバーテンダーと名乗ることは幾らでもできるでしょうが、ちゃんとしたバーテンダーは少ないと思いますよ」
碑は柔らかい口調で答えた。未奈はその答えに疑問を持ったのか、口を開いた。
「バーテンダーでも違うっていう事ですか」
「そうですね。何となくやっている人と、しっかり勉強をしている人では違いはありますからね。
シェイカーに材料を入れても、ただ振ればカクテルができるというものではありませんから」
その言葉を聞いて、一樹は自分の思っていたバーテンダーと、碑たちが考えるバーテンダーとは異なるものなのだろうと悟った。
「リキュール一つをとっても、勉強をしているバーテンダーとそうでないバーテンダーでは知識も違います。たとえば……」
碑はそう言うと、ドメーヌ・サトネイのカシスを一樹の前に置いた。
「このリキュールはわかりますか」
「いえ」
一樹は見たこともないボトルであったので、あっさりと答えたが、ボトルをよく見ているうちに知っているアルファベットを見つけて
「あっ、カシスのリキュールですか」
と発した。碑は頷き
「そうです、カシスのリキュールです。それでは日本名でカシスが何だかわかりますか」
と質問をした。
「えっ」
一樹はただカシスという物でしかわからないので、それ以上の言葉が出てこなかった。その表情を見て碑は話題を振った。
「杉岡、カシスの日本名は」
「黒スグリです」
杉岡はすぐに答えた。碑は頷いて正解という素振りを見せた。
「雪乃、英語では」
今度は雪乃に質問が飛んだ。
「カシスって英語じゃないのですか」
思わず一樹が驚くような言葉を出した。
「はい、カシスはフランス語です。リキュールはヨーロッパの修道院で作られたエルクシルなどが元になっている物が多いので、有名なリキュールは結構フランス語などが多いのですよ」
「カシスの英語名はブラック・カラントですよね」
続くように雪乃が答えた。
「正解」
碑は笑顔を見せてから
「確かに、リキュールの語源が何か、フランス語、英語、日本語で何を言っても同じ物だから関係がないと思われるかもしれませんが、ちょっとした知識の積み重ねが、作る物にも影響を及ぼしてくるのです。
作り手の気持ちや、物に対する接する態度が変われば、作るということもより丁寧にやらなければと思いますからね」
「精神的なことって大切だと思います」
杉岡が反応するように口を開いた。
「語源を学び、技術を学び、様々なことを学んで、酒を作ることを考えていく。
それがないバーテンダーは、作る物に対して思いがない。だからおいしい物を作れる確率はかなり下がっていきます。
それでお金を取ることは、本当にプロの仕事なのか……と考えてしまう時もあります」
碑はそう言うと、水割りを二つ作り、一樹と未奈の前に出した。
「飲み比べてみてください」
即されて一樹は二つの水割りを飲み比べた。
「全然味が違います」
杉岡は自分が白い扉を開いた時の事を思い出した。
「作業工程が少ない水割り一つ取ってみてもこれだけの差が出てしまいます。
シェークのように作業工程が多ければ、それに対する知識があるのとないのでは違いが出るのは当たり前だと思いませんか」
そんな言葉を聞いて、一樹は自分がしょせんアルバイトのバーテンダーでしかなかったことを思い、知らせれた気がしていた。
二人が帰った後、碑はターンテーブルにキング・オリバーのパパ・ジョーをセットしてから、雪乃の隣へと座り
「杉岡、グレンをくれ」
と真顔で言った。
「えっ」
杉岡は雪乃が来た時の話を思い出した。数多くある谷を意味するグレンの、何を選んだらよいのだろか……。思わず試案顔になった。
「杉岡が考えるグレンでいいよ」
碑はいたずらな笑顔を見せた。雪乃は釣られるようにして笑いを浮かべた。
杉岡はバックバーに対峙して、何を出したらいいのか考えはじめた。
そして一本のボトルを手にし、ショット・グラスへと注ぎ、碑の前に差し出した。
「グレンマレイの一二年です」
碑は笑顔でグラスを手にすると、雪乃を見て、軽く杯を上げた。
雪乃もそれに従うように杯を上げて答えた。
「グラスを合わせる仕草は、バーでは無粋ですよね」
思わず杉岡が口を開いた。
碑は頷くと、杉岡に向けて杯を掲げてグラスへと口をつけた。