三五、目的と手段
今日は日が変わったくらいから、ずっと雨が降っていた。いかにも梅雨というようなシトシトとした雨が、不快指数を存分に上げているようであった。
碑はグレイクリフの白帯ピッコロを咥え、煙を宙へと飛ばした。その煙は重たい空気を避けるようにして、ゆっくりと舞って行った。
杉岡は福西英三のリキュールブックをカウンターの中で読みふけっていた。何度も繰り返し読むことで記憶の定着を図っているようであった。
雨のせいなのか、それともいつもの店と言える状態だからなのか、一向に客が来ない店内で、杉岡はもう、何頁読み進んだのかと考えながら、再びページをめくった。
いつの間にか、時計は二三時を回った。それでも来客はなかった。
杉岡は流石にずっと読んでいることに疲れたのか、もう何もする気も起きないというように、レコードを取り換えようとしていた。
そんな時に、店内に重たい湿度をまとった空気が入り込んできた。
「あの、一人なんですけれど、いいですか」
若い男が扉を半分くらい開け、顔を出した。
「どうぞ」
碑は椅子から立ち上がると、カウンターを指さした。
男は傘をたたみ、傘立てにそれを置いてからカウンターへと座った。
「いらっしゃいませ」
杉岡がおしぼりを出した。男は恐縮するように軽く頭を下げて、おしぼりを手にし、バックバーを見た。そして酒の本数に驚くように、男は思わず口を開いたままになってしまった。
「口が開いたままになっていますが、どうされましたか」
碑が思わず突っ込みを入れた。男はそう言われて、自らの状態を認識したのか、口を真一文字に一度閉じてから、声を出した。
「いや、バーは初めてなので、こんなにお酒があるのかと……」
「そうでしたか、世の中にはもっともっと酒はありますよ。
私だって見たこともない酒はありますから」
「こんなに置いてあってもそうなのですね」
「はい、酒だけではなく、物事は知れば知るほど、知らないもので溢れているという事を実感します」
碑の言葉に男は何も言えずに首を二、三度縦に振った。そして再びバックバーへと目をやった。一体何を注文したらよいのかわからないという感じであった。
「ご注文はお決まりですか」
杉岡が男に聞いた。
「いや、どうしたら良いのか」
男は自分でもどうしたら良いのかわからないというように返した。
「カクテルがいいですけ、それともウイスキーなどが良いですか」
「さあ、どちらもわからないので、どうしましょう」
男は悩むばかりで、先に進む感じがなかった。
「お酒は強いほうがいいですか、それとも弱いほうが」
「多分強い酒は飲んだことがないですよ。
今まで居酒屋でビールやサワーくらいしか飲んだことがないので」
杉岡はやっと男のちょっとした情報を聞くことができ、感触を得たようであった。
「ではそれほど強くないほうが良いですかね」
「いや、強い酒に挑戦してみようと思います」
杉岡が気を使った言葉を男はあっさりと否定した。だがそんなことを言っても、男はその強い酒がわからないという感じであった。そこに杉岡は、提案をした。
「ウイスキーやブランデーが良いですか、それともジンやラムのようなスピリッツにしますか」
男は耳にしたことがある名前でありながらも、どうしたら良いのかわからないという表情をしたままであった。
「それでは飲みやすいウイスキーでも……」
杉岡はそう言うと、バックバーを見渡した。そしてボトルを2本選択し、男の前に出した。
「アンノックの一二年、もしくはグレンマレイの一二年……。
どちらも初心者の方でも飲みやすいと思いますが……」
男は二本のボトルを見てもさっぱりという感じであった。
「どうしましょう」
「わからないのであれば、ボトルの見た目で判断されてもいいかと思います」
踏ん切りがつかない男を誘導するように杉岡は笑顔を見せて案内した。
男はしばらくボトルを見て、何となく
「ではこちらを」
とアンノックを指さした。
「かしこまりました」
杉岡はショット・グラスにアンノックを注ぎ、男の前へと差し出した。そしてすぐさまチェイサーを準備した。
男は今まで飲んだことのない酒の入ったグラスを手に、何となく怯えるような表情を見せた。
「あの、一気飲みなどはせずに、少しだけ、含むように飲んでみてください」
杉岡は思いつめたような表情の男を心配するように声をかけた。その言葉に肩の力が抜けたのか、男は恐々と、グラスを口元へと運んだ。
一瞬、アルコールの強さにびっくりしたのか、表情を歪めたが、ふと頬を緩めた。
「いかがでしょう」
男は問いかけられ、きょとんとした表情を杉岡に向けた。
「強いですけれど、酒がおいしいってはじめて感じました」
感想を述べると、男はグラスに入った琥珀色の液体を眺めた。
「今まで酒をおいしいと思ったことはないのですか」
「はい、付き合いとかばかりで、無理やり先輩に飲まされたりすることもあったので、良い印象がなかったのですよ」
「そうでしたか、良い酒はいっぱいありますから、これから色々と試してみるといいですよ」
杉岡は自分も知らない酒を楽しく飲んでいる時を、思い出すように言った。
男はしばらく口を結ぶと、たまにウイスキーを飲んだり、何かに納得するように、小さく頷いたりを繰り返した。その姿を、碑も杉岡も無言で見守った。
「生きているって、こういう酒を飲んだりできることなのかもしれませんね」
男が小さく呟いた。
「そうですね、死んでしまったら酒は飲めないですからね」
優しい口調で碑が答えた。
「営業成績が伸びなくて、先輩たちからもいじめられて、今日、会社を辞めてきたんですよ。
でも何ができる訳じゃないし、これから人生どうしようかって考えているうちに、気持ちが暗くなってきちゃって、何も考えずに歩いているうちに、この店の前に来ていたんですよ」
「そうだったのですね」
まだまだ男はしゃべるだろう。碑は一言だけ答えて、次の言葉を待った。
「今までバーなんて来たこともないし、もしこの後の人生が駄目であったとしても、どうにでもなれって、そんな感じで扉に手をかけたんですよ」
男はそう言うと、グラスに視線を落とした。そんな姿を見て、碑は声をかけた。
「どうにでもなれという感じで入った店はどうでしたか」
その言葉に男は、顔を上げ、笑顔を見せて答えた。
「はい、何だかもっと色々な酒を飲んでみてもいいのかなと思いました。
もしも一人の部屋に帰っていたら、もっと暗くなっていたと思います。
場合によっては思いつめていたかも……」
男は辛い記憶でも思い出したのか、思わず目に涙を浮かべた。碑も杉岡も、しばらく何も言わずに男の姿を見守った。
「今後も、色々な酒を飲みにいらっしゃいませんか」
碑が少し気持ちの落ち着いてきた男に声をかけた。男は碑を見て答えた。
「そうですね。就職してからおいしい物を食べたり飲んだりしてこなかったので、これから色々試してみたい気はあります」
「そうですか、では再就職して一段落したら、色々と試してみるといいのではないでしょうか」
碑は優しく提案をした。男は力強い視線を見せて口を開いた。
「はい、そういう事ができるように、仕事を頑張れたらと思います」
「そうですね、仕事の原動力は、仕事に向いていなくてもいいと思います。
あくまでも目的を達成するための手段ですから……」
碑は何かを思い出したのか、話を続けた。
「そういえば、昔来ていた方で、釣りが趣味の人がいたのですよ」
「釣りですか」
男は話が飛んだことに違和感を覚えずに言葉を返した。
「そうです。海釣りが好きだというのですが、奥さんと子供がいる手前、行くとしても土曜しか行けないという事でした。
そこで、月曜から金曜まで目一杯仕事をして、金曜日に定時で帰ってもいいくらいに成績を残して、上司にも文句は言われないようにしたみたいでした。
金曜は早く家に帰り、家族で一緒に食事をしてから、土曜の朝一で海に行き、船に乗って釣りをして、その魚を夕飯に出せるようにしたと言っていました。
家族からは喜ばれていたようです。
そして日曜日は当然のごとく家族サービスだというのです。
土曜日に釣りをしたいという目的だけで、仕事も家庭も順調に進んだという事です」
「それで仕事は目的に対する手段だというのですね」
男は何となく納得するように頷いた。そしてアンノックで舌を湿らせてから
「私はうまい酒を飲むために、仕事を手段にできるように、頑張ります」
男は来た時とは打って変わった、精気のある表情を見せた。
「マスター、目的と手段って大切なのですね」
客のいなくなった店内で、片づけを終えた杉岡は言葉を出した。
「まあ、色々な考えの人がいるってことさ、あとはいかに自分が不利益にならないために考え方を変えるか、そこが問題なのじゃないかな」
碑はカウンターの中へ入ると、リー・コニッツのウインドーズのレコードをかけはじめた。
そしてアンノックをショット・グラスへ注ぎ、ロッキー・パテルのコロナを持ち、カウンターへと座った。
紫煙が宙へと舞った後、アンノックが碑の口腔へと放り込まれた。