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三四、気体と個体

 神代は珍しく早い時間から、秘密の井戸のカウンターへと着いていた。

 カクテル・グラスを目の前にして、ゆっくりと液体を口腔へと流し込んだ。そして中身の消えたグラスを、カウンターの奥へと押し出した。

「さて、次はどうしようか」

 杉岡は次に出てくる言葉をすぐに受け止められるように緊張をした。

「カミカゼでももらうか」

 神代はだいぶ杉岡のカクテルも飲めるようになってきたと言わんばかりに、碑にではなく注文をした。

「かしこまりました」

 杉岡は、素早く動き始めた。

 オールド・ファッション・グラスとシェイカーを作業台へ出し、アブソルベント・ウオツカ、エギュベル・ホワイト・キュラソー、モナン・ライムジュースを取り出し、カクテルを作った。

「お待たせいたしました」

 杉岡はグラスをコースターへと乗せ、神代の前へと出した。

 そのグラスを手にした神代は、ゆっくりと口元へ運んだ。

「杉岡のカクテルもだいぶ良くなってきたな。

まあ欲を言えば、もう2段階くらい上にいったら一人前という感じかな」

 神代は目の前で感想を待っている杉岡へと言った。

「もう二段階ですか」

 杉岡は厳しいと思いながらも、その言葉を素直に受け取った。

「そう、ただ覚えておけよ、一人前というのは職人としてみたら駆け出しだからな」

「一人前が、ですか」

 杉岡は一人前は認められた存在だから、駆け出しなどと思うことがなかったのか、驚くように返した。

「そうだ、やっと一人で何とかできるようになったという程度だ。

 職人にはまだまだ上がある。

そういう事を認識していないと、そこから先の伸びしろはないぞ」

 神代にそう言われ、確かに上がまだまだあると、思わず杉岡は碑を見た。碑はそんな視線を気にすることなく、ホヤ・デ・ニカラグアのプチ・コロナに火を点けた。

「一人前は、学校を卒業したばかりと同じだからな。

資格を有しても、その後に何をするかによって変わってくるものさ」

 碑は煙を宙へ浮かべると、思わず口を開いた。杉岡は前にも聞いたことがあるかもしれないと、記憶をたどった。

 そんな中、夕凪と佐藤が扉を開けた。

「いらっしゃいませ」

 碑と杉岡の言葉が同時に店内へと響いた。それに招かれるように二人はカウンターへと座った。

 杉岡がおしぼりを出すと、夕凪はすぐに、楽しそうな表情で話しかけてきた。

「杉岡さん、この間、上司と行った店でラフロイグを飲んだんですよ。

 あの香り、衝撃でした」

「確かに独特な香りがしますからね。好き嫌いは分かれますが、どうでしたか」

「いや、めちゃくちゃ気に入りました。それなので、ラフロイグをロックでください」

 夕凪は珍しく興奮したように注文をした。

 佐藤はそんな夕凪の勢いに押されたように、口を開くのを躊躇しているようであった。

「佐藤さんはどうなさいますか」

 そんな佐藤に碑が問いかけた。その間に杉岡はオールド・ファッション・グラスとラフロイグの瓶をバックバーから取り出した。

「私は、ポートワインのカクテルがあれば飲みたいと思うのですが」

 佐藤はそんなカクテルがあるのかわからず、自信なさげに注文をした。

「ポートワインですか、ディアブロというカクテルがありますがいかがですか」

「じゃあそれをお願いします」

 佐藤の言葉に碑が頷くと、杉岡はすぐさま、カクテル・グラスを取り出した。

「夕凪さんは、本当にロックで良いのですか」

 碑は杉岡がカクテルの準備をする間に、夕凪に問いかけた。

「えっ、ロックって駄目なのですか」

 夕凪は驚いた表情を見せた。

「いえ、ロックが駄目なのではなく、ロックでいいのかと問いかけたのです。

 できればストレートのほうが良いというのが私の意見です」

 夕凪はなぜロックという飲み方があるのに、それを勧めないのかと、不思議そうな表情を見せた。

「前回ロックだったんですよ。でもマスターがそう言うのならば、ストレートにしてみます」

 夕凪は何か違いがあるのかと思い、碑の勧めた飲み方に従うことにした。

 碑は夕凪の言葉を聞くと、ストレート・グラスを二つ出し、一つのグラスに小さな氷を入れた。

 杉岡は碑が何かをやろうと思っていると考え、カクテルは自分が作ったほうが良いと思い、ミキシング・グラスにテイラー・ルビー・ポートと、ドランのドライ・ベルモット、レモン・ジュースを入れて、カクテルを作り、佐藤へ提供した。

 その間に碑はラフロイグのストレートと、チェイサーを準備して、夕凪の前に出した。

 二人は軽く杯を上げてから液体を口元へと運んだ。

「すごい、ポートワインの味だけれども、またカクテルにするとこんなに変わるのですね」

 佐藤が声を上げた。どこかでポートワインを飲んできたことがあるからなのだろう。そんな感想を述べた。

「ラフロイグも、こんなに香りが強かったのかってビックリです。

 この間のロックと違うので驚きました」

 夕凪も口の中に広がる香りをまき散らすように言った。

 碑は笑みを返し、氷を入れたショット・グラスの溶けた水を払ってから、そこにラフロイグを少量注ぎ、バースプーンで2,3回まわした物を夕凪の前に出した。

「では、これと比べてみてください」

 ストレート・グラスの中で、ロックスタイルになっているラフロイグの香りを、夕凪は嗅いだ。そして不思議そうな表情を見せた。

「何だかストレートと比べると、香りが小さいような」

 静かに答えた夕凪の言葉に、碑は理解をしていると思い微笑みを見せた。

「飲んでも、香りが小さい気がします」

 口をつけた夕凪が、再び感想を述べた。

「液体、気体、個体。水の変化はわかりますよね」

「もちろんです」

「液体は温めると気体になり、冷やすと個体になります。

 気体になれば、揮発するので、香りは嗅ぎやすくなるが、個体になると分子の動きが鈍くなるので、香りが小さくなります。

 ラフロイグのような香りが好きなのに、ロックにするという事は、もしかしたら、本当の意味で香りは好きではないのではないか……という事になりませんか」

「考えればそうですね。

 でもそんな事、聞いたことなかったです」

 目から鱗、というような表情で夕凪は応えた。佐藤は興味を示しているのか、夕凪の手から離れたショット・グラスの臭いを嗅いだ。それを見た夕凪は、氷の入っていないショット・グラスを佐藤の方へと出した。

「こういう事を言うと、最近は嫌がる方も多いので、説明をしない店が多くなっているのでしょうね。

 おいしい飲み方を説明するよりも、言われた物を出しているほうが楽ですしね」

 碑は笑みを見せて言った。だがその裏には切実な思いがあるようにも夕凪には思えた。そして自らの思いを述べた。

「でもおいしい飲み方を教えてもらった方が、客としてはいいと思いますが……」

「客にへりくだるのは、金目当てで、その本人の有益さではない。だが客もそうするように仕向けている部分があるから、どっちもどっち、最後にはどうでも良い物ばかりが横行するようになるのだろうな」

 神代は思わず口をはさむとカミカゼを飲み干した。

「何だか寂しいかんじですね。本音と建て前とか言いますけれど、建て前でもなく、受け流しのような気がしてきます」

 神代の言葉を聞いてか、佐藤がポツリと呟いた。

「まあ、ここのマスターは思ったことを言うことが多いからな。だから客が減るのだけどな」

 神代は碑をいじるように言った。それを受け流すように

「神代さん、次は何を飲まれますか」

 と碑は問いかけた。その光景を見て、思わず夕凪と佐藤は頬を緩めた。

「そうだな、たまにはニコラシカで締めるか」

「かしこまりました」

 碑は注文に答えると、リキュール・グラスを出し、カミュVSOPを注いだ。

 そしてレモンをスライスにしたものに、粉糖を乗せ、グラスに蓋をするように乗せた。

 夕凪と佐藤は初めて見るカクテルを、どのように飲むのかわからないという不思議な表情を見せた。

「神代さんがニコラシカなんて、本当に久しぶりですね」

 グラスを差し出して碑が言った。神代は頷いて答えた。

 神代はリキュール・グラスに蓋をするように乗せられた粉糖の乗ったレモン・スライスを手に取り、口の中へと放り込み、数回租借した。程よく、酸味と甘味が混ざったところで、リキュール・グラスへと入ったブランデーを、一気に放り込んだ。

「口の中で作るカクテルなんですね」

 佐藤が驚くように言った。杉岡もニコラシカの存在を知っているが、人が飲んでいる姿をはじめて見たのか、グラスを置いた神代から目が離せなかった。

「さて、景気良く飲んだところで、帰るか」

 神代が言うと、碑は締めの酒と言われていたので、準備していた伝票をすぐさま出した。そんな連携のようなところが、いかにもバーだなと、杉岡は微笑ましく思えた。

「酒には色々な飲み方があるのですね」

「そう、ロックが決して悪いわけではなく、理由を知った上で使い分ける。

 そうすればバーはもっと楽しくなるのかもしれませんね」

 夕凪の言葉に続くように碑は答え、プレイヤーの上に、ソニー・ロリンズのアルフィーを置いた。


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