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三三、恰好の良い大人になる

 六月の梅雨時期に似合う、シトシトとした雨が降る夜であった。不快指数も高い感じの夜に、人が出てくる気配はなかった。

 碑は新しく入手したクルエボ・イ・ソブリノスというニカラグアの葉巻のロブストを味見と称して咥えていた。

 杉岡はそんな香りの漂う店内で、シェイカーの振る練習をしていた。碑にカクテルを提供することを許されたとはいえ、同じカクテルを二人で振り比べてみると、碑とは圧倒的な差が出てしまう。それを出来る限り埋められるように、杉岡は鍛錬を怠らないようにしていた。

 碑が宙に漂わせた煙は、ユラユラと揺れながら、いつの間にか重たい空気と同化するように消えていった。

 店内に外の雨の音が聞こえてきた。それは白い扉が開いたことを意味していた。

 傘の露を軽くはらって綺麗に巻き付けた男は、入口付近にある傘立てにそれをしまい

「碑さん、ご無沙汰しています」

 と声をかけてきた。その声の方を向いた碑は、葉巻を灰皿に置き、椅子から立ち上がった。

「何だ、和也じゃないか」

「ご無沙汰しています」 

 和也と呼ばれた男は飾り過ぎずに着飾った服装で、軽く頭を下げた。

「まあ座れよ」

 碑は自らが座っていた隣の椅子を指した。和也はそのまま指定された椅子へと座った。

 杉岡は、和也が座った席に、素早くおしぼりを置いた。

「今日は休みか」

 声をかけてから碑もカウンター席へと着いた。

「はい、父が入院したので、お見舞いでこっちへ来ました」

「何だ、お父さん入院しているのか」

 そんな時に飲みに来るなんて、碑はそれでも顔を出してくれた和也を心配する表情を見せた。

「はい、肺炎をこじらせて……でもたいしたことはなかったので」

「そうか、それは良かった。今日はこっちに」

「ええ、実家に帰ればいいので」

 その言葉を聞いて、碑は少しだけほっとする気がした。

「何年振りだ」

「こっちに来るのは五年振りくらいですかね」

 和也は振り返るように言うと、自ら納得するように、数回頷いた。

「そういえば、碑さん、人を雇ったのですね」

 和也は目の前に立つ杉岡の存在を訪ねた。

「こいつは勉強しにきているのだ」

 碑は軽く、手で杉岡を指すようにして言った。和也は何となく嬉しかったのか、笑顔を見せて口を開いた。

「へぇ、碑さんも弟子を取るようになったのですね」

 その言葉に何となく笑みを浮かべ

「いや、俺にそんな甲斐性はないよ。こいつが押しかけできたのだ」

 と答えた。碑の向けた視線に杉岡は、それを受けるように和也に向かい、頭を下げた。

「押しかけでも弟子を取る気になったのは、時代というか、年齢を感じますね」

 和也はそういうと、流れで杉岡にジントニックを注文した。

「かしこまりました」

 杉岡は、ビフィーター・ジンを使い、ジントニックを作ると、和也の前に出した。

 和也はそれを一口飲むと落ち着いたのか、頬を弛緩させた。

「こっちに来るついでに、久しぶりに銀座に行ってきたのですが、ずいぶんと変わった感じがありましたね。まあ、私が年齢を重ねたという事もあるのでしょうが……」

 和也は照れるような笑顔を見せた。

「そんなに変わっていたのか」

 碑は自分も長く足を踏み入れていない地域の話を尋ねた。

「いや、若い頃は名の通ったバーテンダーの方がいたじゃないですか……。

 今がいないという訳ではなく、私たちの大先輩の方たちも、まだカウンターに立っていましたし」

 そんな事を言う和也の表情は、少し回顧主義のようにも見えた。だがその気持ちは十分に理解ができた。

「確かにな、俺も昔、銀座に行った頃は、そんな感じはあったな。

 特に初めて行った時は緊張した記憶があるよ」

 碑は懐かしむような表情を見せた。

「そうですよね。まだ若かったですから、年上のバーテンダーの方がカウンターに立っているだけで、私は緊張した記憶があります」

 その思い出した緊張を流すかのように、和也はジントニックへと口をつけた。

「恰好良く飲むために、どんな服を着て行った方がいいとか、あの頃は色々と考えましたよ」

「そうだな、俺もスーツを着てわざわざ行った記憶があるよ」

 碑も同調するように言った。

「今、うちの店にも若い子たちが来ますが、そのコたちにバーに来たのだから恰好良く飲めと言いますよ」

 和也はそう言うと、自分で納得するように頷いた。

「和也は良く立ち居振る舞いを気にする方だったからな。

でもそれって大切な事なのだけれどな」

 碑は葉巻の煙を宙へと出した。和也はそれに感化されてか、鞄からパイプを取り出し、ジャグを詰めてから、マッチで着火した。

「昔は肌を見せるなとか、色々と言われましたが、そういう事って大切ですよね」

「そうだな。TPOなんて言葉があるように、場面場面でちゃんと使い分けるっていうのは必要だけれどな」

「はい、最近、これは常識だろうなんて言葉は通用しなくなくなりましたが、そういう事が必要ですよね」

 碑が頷くと、和也はその間にグラスを口元へ運んだ。

「杉岡は、割りばしを割る正式なやりかたってわかるか」

 碑は目の前でただ立っている杉岡に、質問を投げた。

「割りばしですか、その時の作法ですよね……」

 杉岡は少し近づきながら考えるが、思い当たることはないようであった。

「箸を持ってきてごらん」

 碑は杉岡が持ってきた箸を、和也に渡した。

「私がやるのですか」

 急に飛んできたお題にびっくりするように和也は箸を受け取った。

「知っているだろう」

「まあ」

 そんな掛け合いの中、和也は箸を横にして、上下から掴み、割るしぐさをした。

「そうやって割るのですか」

 杉岡は驚くように声を上げた。

「そう、横にいる人への配慮をするのだ。

 マッチだって擦り方があるのだよ」

 和也はそう言うと、先ほど使用したマッチを杉岡へ渡した。

「マッチですか」

 杉岡は一本のマッチを取り出すと、マッチを手元から奥へと擦るようなしぐさを見せた。それを見た碑は思わず笑みを浮かべた。

「いいか」

 和也は杉岡に手を向け、マッチの返却を求めた。そのマッチを手にすると、マッチを奥の方から、自らの方へ擦るしぐさをした。

「着火した火が、人に向かないように、配慮をするのだ」

 和也の視線が杉岡を射抜くようにも思えた。

「そうか、人に向けることがないように、ですね。先ほどの箸もその要領なのですね」

 杉岡は感心するように頷いた。

「ちょっとした事なのかも知れないが、そういう事が気遣いなのだよ」

 碑が合いの手を入れた。

「人と共有する空間だからこそ、そういう事が必要なのだ。

 公の場所では、そういうことが出来ると出来ないでは、相手からの見方も変わってくる」

 和也が補足するように言って、ジントニックを飲み干した。

「接客をする人間ならばわかることなのだろうが、エスカレーターで客を案内する時、杉岡は先に乗る、それとも後に乗る」

 碑の質問に、杉岡は考え、思わず右手を顎につけた。

「やはり案内するのですから、先じゃないのですか」

 その答えは少しだけ迷っているようであった。それを突くように、碑は次いで質問をした。

「それは昇りなのか、下りなのか」

「えっ、考えてなかったです」

 和也はそれを聞いて、自分も昔、碑とそんな話をした事を思い出し、思わず笑みを浮かべ、救いの手を出した。

「エスカレーターの危険性がどこにあるか考えればいいのさ」

「危険性ですか」

 杉岡は更に考えて、答えた。

「エスカレーターは落ちる、という危険があります」

「そう、だからそう考えれば、おのずと答えが見つかるだろう」

 碑が無邪気な笑顔を見せた。

「そうやって考えると、昇りは後、下りは先になりますね」

「そう、そういう事を排除することが、サービスをするという事になるのだよ」

 碑が二、三度自ら納得するようなしぐさを見せた。

「じゃあエレベーターは」

 今度は和也が笑顔で質問を飛ばした。

「エレベーターですか、エレベーターの危険って……」

 杉岡はしばらく考えるが答えが出ないようにであった。

「エレベーターの危険は、扉が開いた時に、その先に何があるかわからないという点だよ」

 和也がそう言うと、碑はカウンターの中へと入った。ずっと考えさせられて杉岡が注文に応えるタイミングがないと思ったからだ。

「ウイスキーでいいか」

 その碑の問いに和也は

「いやマティーニを」

 と答えた。

 碑はカクテル・グラスを準備し、ミキシング・グラスに、ヴィクトリアン・ヴァット・ジンと、マルティニ・エクストラ・ドライを注ぎ、作ったカクテルを和也の前に出した。

 杉岡は考えがまとまったのか、和也が一口、マティーニを飲んだ後に口を開いた。

「開いた扉の先に、何があるかわからない。それを確認するには、降りる時は先に降りるという事ですか、だから入る時は先に状況を確認する」

 杉岡は先ほどのエスカレーターの昇降のように、出入りの両方を答えた。

「そう、先に動いて、安全な状況であれば、ドアが閉まらないように開ボタンを押すか、扉が閉まらないように押さえて、客を案内する」

 和也はそう言うと、納得した表情でマティーニに口をつけた。

「そんな事、考えたこともなかったですよ」

 杉岡が感心するように頷いた。

「昔から危機回避能力も、サービス業の能力だ……って碑さんは言っていましたものね」

 和也はそう言うと、懐かしそうにバックバーを覗いた。碑はカウンターの席に戻り、消えてしまった葉巻へと着火し、煙を口腔内へと入れた。

「まあな、出したり引っ込めたりすることだけがバーテンダーじゃないってことだ」

 和也はそんな碑を見て、笑みを見せた。

「昔、マティーニを頼んだ時に、こんな強い物を飲むのかって、やせ我慢をして飲んだ記憶があります。

 それでも恰好の良い大人になれるのならば……と思って飲んでいた時期があったのですが、碑さんが作るマティーニを飲んで、うまいマティーニは背伸びをしなくても飲めるのだって思い知らされましたよ。

 しっかりと混ぜれば、嫌みはなくなる。それに近づけるように今も頑張っていますよ」

「そんなことはないだろう。都内でも有名な店のオーナーが……」

 碑は和也を見ることなく言い、宙に煙を浮かべた。

「杉岡、ブラッドノックをくれ」

 その言葉に反応するように、杉岡はバックバーからケイデンヘッドのブラッドノックを取り出し、ショット・グラスへと注ぎ、碑の前へと出した。

「今日は来てくれてありがとう」

 碑は和也に向かい、軽くグラスを上げると、ブラッドノックを口腔へと流し込んだ。

「とんでもない事です。

 それにしてもブラッドノックには、懐かしい思い出がありますよ。

 昔、誕生日に妻と来た時に、バースデービンデージのブラッドノックを碑さんがごちそうしてくれたことを……」

「俺がそんな事をしたのか……」

「さりげなく出してくれて、こういうバーテンダーになりたいなぁって、思いましたよ」

 和也は照れ臭そうに言った。碑もそんなことを言われて、頬を緩めた。

 碑はカウンターの中へ入ると、ソニー・クラークのダイヤル・S・フォー・ソニーをターンテーブルの上へと置いて、再びカウンターへと座った。

 重たい雰囲気の音楽がスピーカーから鳴りはじめた。

 二人は耳を傾けながら、グラスを口元へと運んだ。


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