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三二、香り

 杉岡は、土屋守著のモルトウイスキー大全を読んでいた。

 最近はカクテルだけではなく、ウイスキーも飲むことが増えてきたからである。そんな中で、秘密の井戸にあるウイスキーは、他店でも置いていない閉鎖蒸留所の物なども多く、未だにバックバーの酒瓶を拭いているので、名前はわかっているが、希少価値などはわからず、勉強をしなければならないと杉岡は考えていた。

 碑はカウンターの端に座り、帳簿をいじっていた。五月も終わりになるために、事務作業をしているといったところである。

 ふと碑は帳簿を閉じ、立ち上がった。先ほどから聞こえるようになった雨音を気にしたようである。店内に聞こえるということは、かなりの雨量なのだろうと杉岡も考えていた。

 碑が扉を開けると、案の定、ゲリラ豪雨と呼べるほどの激しい振り方であった。

 碑は帳簿を事務所へしまうと、カウンターの中に入り、ヒュミドールを開けた。その中からドン・トーマスのブラジル・ロスチャイルドを取り出した。

 いつものカウンターの奥の席へ戻ると、碑は葉巻を吸いはじめた。

 この雨で、繁華街から離れている店に客が来ないと考えているのかもしれない。杉岡はそう思い、更に本を読み進んだ。

 急に雨音が強くなった。碑が扉を見ると、そこには夕凪と一緒に来たことのあった佐藤が傘をしまいながら入ってきたところであった。

「いらっしゃいませ」

 碑は葉巻を灰皿の煙草休めに乗せ、カウンターの端へ置くと、佐藤に傘立てを案内した。

 傘を置いた佐藤は、鞄からハンカチを取り出し、濡れたズボンの裾を軽く拭いた。

「雨、凄かったんじゃないですか」

 杉岡は椅子に座った佐藤に、おしぼりを出しながら問いかけた。

「はい、ここに向かって来る途中から降り出したので、びっくりしました。

 雨だとは天気予報で知っていたのですが、こんなに降るなんて思っていなかったです」

 佐藤は落ち着いたのか、ゆっくりと話した。

「いかがいたしますか」

 碑もカウンターの中に入ってきて、佐藤に注文を聞いた。すでに決めてきていたのか、佐藤はすぐに口を開いた。

「カンパリソーダをお願いします」

「かしこまりました」

 杉岡はバックバーから赤い液体の入った瓶を手に取り、コリンズ・グラスを出した。

 氷を入れたグラスに、カンパリが注がれ、ソーダを丁寧に入れ、レモン・ピールを一片入れてから、ステアした。

「お待たせいたしました」

 佐藤は目の前に出されたカンパリソーダを一口飲んで、更に落ち着いた表情を見せた。

「まさか、一人でいらっしゃると思いませんでしたよ」

 碑は先日の酒嫌いの話もあったせいか、佐藤の来客を喜ぶように言った。

「いや、あの後、いつ来ようかと迷っていたのですが、今日は仕事でちょっといい事があったので、飲みたくなって、来ちゃいました」

 佐藤は嬉しそうにほほ笑んだ。

「カンパリソーダは癖があると思いますが、平気ですか」

 碑は佐藤が好んで飲んでいるのか気になって尋ねた。

「はい、この間の飲み会がたまたまカフェレストランだったのですよ。

そこで綺麗な色をしているなぁと思って注文したら、好みだったものですから」

「そうですか、それは良かったですね」

 あっという間に経験値をため込んでいる佐藤に、碑は脱帽した。

「でもその時は、同じ会社の人の香水の臭いが強くて、今一つ楽しめなかった、のだなぁって、今飲んでみて思いました」

 その言葉を耳にして、杉岡はその店よりも美味しく作れたのかもしれないと、胸の中で秘かに拳を握った。

「飲食店に行く場合に、香水や柔軟剤など臭いはなるべく避けた方が良いのですが、日本人はあまり気にしない人が多いですね」

 碑が相槌を打つように言った。

「確かにそうかもしれないですね」

 そう言った佐藤に失礼かもしれないと思いながら碑は口を開いた。

「佐藤さんは、ご自身の柔軟剤の臭いは感じていますか」

「えっ、まだ臭いますか」

 言われてびっくりしたのか、佐藤は思わず服の臭いを嗅いだ。しかしながら香りを感じることはなかった。

「慣れてしまうと自分の臭いはわからなくなるということがありますからね。

 佐藤さんの臭いくらいですと、そこまで邪魔をするという感じではないので、まあ平気でしょうが」

「私も柔軟剤の臭いはわかりません」

 杉岡は自分の鼻が悪いのか、それとも碑の鼻が敏感なのかと考えたが、碑の鼻は確かに感度が良いと思えることが、今までも多々あったことを思い出した。

「私も葉巻を吸うので、臭いに敏感かどうかわかりませんが」

 碑は前置きをしたが、二人は先ほどの話で、確実に敏感なのだろうと突っ込みを入れたい気分になった。

「葉巻などは天然の臭いなので、刺激が少ないのですよ。

 紙巻煙草や香水、柔軟剤はほとんどの物が科学香料なので、刺激が強いのですよ。 

 更に煙草などは、そこに火を点け、煙を出すので、余計に強く臭いを感じるのかもしれませんが……」

 二人は、科学香料と天然の臭いの差が良くわからないらしく、やはり碑が敏感なのだと改めて考えた。

「でも、バーは煙草が吸えますよね。今は禁煙の店も増えているのでしょうが」

 佐藤は疑問をぶつけた。

「そうですね。煙草がどうかはわかりませんが、葉巻やパイプは酒との相性もいいので、マリアージュを楽しむ方もいるのですよ」

「ワインだけではなく、葉巻にもマリアージュという物があるのですね」

 佐藤は感心するように言った。

「はい、葉巻は酸味と合わせるとエグ味が強くなり、甘味と合わせると丸くなるのですよ」

 碑は先ほどまで吸っていた、カウンターの端に置いたドン・トーマスを手にして説明をした。

「へぇ、面白いものですね」

「はい、嗜好品として楽しめる物ですからね」

 碑はそう言うと、葉巻を灰皿へと戻した。

「さて、次はどうしようかな」

 カンパリソーダを飲み終えた佐藤は、バックバーを見た。何を飲むかワクワクしているという感じであるが、何にしたら良いのか、すぐには考えつかずに思案をしていた。

「カンパリよりも癖があってもいいかな」

 ポツリと呟いた佐藤の言葉に、杉岡が反応した。

「また炭酸が入っている方が良いですか」

「そうですね。炭酸があった方がいいですね」

 佐藤の言葉を受け、杉岡はバックバーから一本のボトルを取り出した。

「もしもよろしければ、シャルトリューズ・ヴェールのソーダ割りなどはいかがでしょう」

「シャルトリューズですか」

 佐藤はもちろんその酒が何だかわからずに、オウム返しをした。

「シャルトリューズは薬草のリキュールです。このヴェールの方はスパイシーで、ミントの感じも少し出ています。度数は高いですが、ソーダで割れば平気だと思います」

 そう言われ佐藤はボトルを見た。そこには五五度という数字が刻まれていた。

「確かに度数は高いのでしょうが、気になります。

 これのソーダ割りをお願いします」

「かしこまりました」

 杉岡はコリンズ・グラスを出し、カクテルを作りはじめた。

「この間と違って、ずいぶんと酒を飲みたいという気持ちになったのですね」

「はい、バーやちゃんとした料理屋さんのお酒はありかなと思うようになりました」

 碑の言葉に佐藤は自らの意思を伝えた。

 目の前に出された緑色の液体を飲んだ佐藤は

「確かにスパイシーな気がします。度数はあまり気にならないですね」

 と嬉しそうな表情を見せた。

「それならば良かったです」

 杉岡は嬉しそうに返した。

「また更に一人飲みが楽しみになりました」

 佐藤は再びシャルトリューズに口をつけると嬉しそうに言った。

「そうですね。色々なバーがありますから、あちこち行ってみると楽しいと思いますよ。

 自らのお気に入りの店を見つけられるとしたら、良いのではないですか」

「マスター、自分の店を勧めなくていいのですか」

 佐藤は思わず笑いながら言葉を返した。

「その人が楽しめればどこでも良いのではないでしょうか。

 逆に客を変に囲って、その人の世界を広げないような店は、私は好きではありません」

 碑は思い当たる節があるのか、少しだけ眉をひそめて言った。

「そうですね。人の可能性を無くしてしまいますからね。

 私もマスターの意見に賛成です」

 杉岡は自らの経験を踏まえて碑に続いた。

 佐藤はその意見を受け止めるように頷き、グラスに口をつけた。


「人の可能性か……そう考えると、俺のカクテルもまだまだレベルが上がる可能性があるのかな……」

 碑は店の片づけをしながら思わず呟いた。

「マスターはまだ満足していないのですね」

 自分と比べることもなく、碑のカクテルのレベルはかなり高い。そう思いながら杉岡は聞き返した。

「そうだろう、最良の物はまだまだ先にあるのかもしれない。

限界を自分で決める必要はないだろう」

 そういうとレコードプレイヤーにジョン・コルトレーンのジャイアント・ステップを乗せて、ターンテーブルを回した。

「限界を決めてはいけないか、その前に、私はもっと勉強をしなければならないですね」

 杉岡は自分の立場を考えて言った。

「まあな、でも杉岡はうちに来て、カクテルはそれなりのレベルで作れるようになったと思っているよ」

 碑は杉岡を見ずに言った。それを聞いて杉岡は頬を緩めた。

「マスターにそう言ってもらえるのは嬉しいです」

「経験は大切だからな。

 同じ一時間でも、その一時間どのように使うのか……。密度の問題になってくるのだろうな。

 それに物事を理解した上で、どのようにすればいいのかを考える。

 そうすれば自ずと答えは見えてくる」

 碑はそういうと、ショット・グラスにポートエレンを注ぎ、いつものカウンターの席へと座り、ドン・トーマスを咥えた。

「ポートエレンも復活か……。

 一度途切れた蒸留所が、どのような酒を作ってくるのか……」

 そう言うと、ウイスキーを口腔へと流し込んだ。


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