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三一、時代

 珍しく秘密の井戸には、早い時間から新規の客がきていた。その客は、バックバーに並んでいるイチローズ・モルトを見て、すぐに飛びついた。

「あれは秩父エディションですよね」

「はい、ちょっと前の二〇二三年の物ですが」

 碑は表情を変えずに答えた。どこにでもある普通の注文だと思っていたからである。しかしその客は、物珍しさからか、少し興奮するように碑に言葉を投げた。

「本当ですか、イチローズ・モルトの限定品なんて、なかなかお目にかかれないですから、あれをもらってもいいですか」

「はい」

 碑はそういうとバックバーからボトルを手にすると、杉岡はショット・グラスをとチェイサーを準備した。

 液体がグラスへと注がれ、客の前へと差し出された。

「マスターの店は、こういう限定品もあるのですね」

 男はグラスを手にすると、興奮冷めやらぬように、飲むこともせずに言った。

「これはたまたま知人から話が回ってきたので、入手できたものです。

 普段からこのような物が入手できる訳ではないですよ」

「そうなのですね、じゃあ今日はラッキーです」

 男は楽しそうに香りを嗅ぎ、口腔へと液体を流し込んだ。そして十分に口の中へと広げ、ウイスキーを楽しんでいるようであった。

「結構ボトルを買って家で飲んでいるのですが、やっぱりこういう物は入手しにくいので、たまたまとは言え、飲めて良かったです」

 男は頬を緩めて言った。

「楽しんでもらえたならば何よりです」

 碑の答えに笑みで答えると、男はバックバーを改めて見た。そこには見たこともないボトルがあちこちに鎮座している。奥の方にある酒は見えないので何があるのかはわからないが、ここには色々な酒があると期待が表情に溢れているようであった。

「ここに来られて良かったです。

 たまたま行ったバーで、ここの話を耳にしたのですよ」

「そうでしたか」

 碑は受け止めるように、笑顔を返した。

「そういえばこの間、池袋の酒屋に行った時に、あそこに置いてある薬品の瓶のような酒を見たのですよ」

 男はバックバーに置いてある酒瓶を指さした。碑は何を指したか話で分かってはいたが、ボトルを確認した。

「あれはエリクサー・ディスティラリーズのエレメンツのシリーズですね。

 色々な商品が出ていますが、蒸留所の頭文字だけを書いていることでも有名ですね」

 碑はCaと書かれたボトルを手にして言った。

「普段は家飲みが多いのですが、やっぱりこういうバーで飲む場合と、家で飲む場合は、ちょっと異なりますね」

「確かにそのような事を言う人は多いと思います。

 まあ日常の空間で飲むのと、そうでない空間で飲むだけでも、違いを感じることはあるでしょうね。

 やはり人間ですから、雰囲気は大切でしょう」

「そうなのですね。確かに同じビールの味でも、女房が注いでくれるビールと飲み屋で注いでもらうビールは銘柄が同じでも違う気がしまうものね」

 男は脳裏に浮かべるように言った。

「そうかもしれませんね。まあそれは奥様も同じように思っているでしょうが……」

 碑に言われ、男は少しだけ自らの言葉をごまかすためか、照れ笑いを見せ、話題を変えた。

「家に酒瓶が多くなってきたので、女房からは、これをどうするのかって言われることも多くなってしまったのですが……」

「酒瓶はかさばりますからね。いっぱい買い過ぎて、生きている間に飲み終えることができないのではないかと言われる方もいらっしゃいますからね」

「私はそんなに多くないですよ。せいぜい五〇本くらい」

 男は謙遜するように言った。しかし碑は

「一般の方であれば五〇はそれなりの数字だと思いますよ」

 と丁寧に否定した。

「でも、私は最近買い始めたので、オールド・ボトルをほとんど飲んだことがないのですが、ここを紹介してもらった店で、この間九〇年代のラフロイグを飲ませてもらって感激しました」

「確かに九〇年代の物は、今とは異なりますから違いますよね。

 ただ無理に過去の物を追わなくても、現在の物でも良いウイスキーはいっぱいありますから、自分に合う物を探すほうが、今後も継続して楽しめるでしょうね」

「まあ、こういう店に来た時に飲めたらいいと思います」

 男はそういうと、グラスを空にした。そして再びバックバーを眺めた。

 碑は視界の邪魔にならないように、杉岡がいないカウンターの端へと移動した。

 しばらく回遊した男の視線が一本のボトルに止まった。その先には緑色の瓶が存在していた。

「あれはアードベッグですか」

 その瓶を特定したのか、杉岡がボトルを手にし、男の前に置いた。

「これはアードベッグの三〇年です」

 男は瓶に三〇と書かれているので、それは認識しているようであった。

「これはいつの頃の物ですか」

 見たことがあるアードベッグの文字と、見たことのない三〇という数字……男は興味を強く示した。

「えっと」

 杉岡は視線を向け、碑の助けを求めた。商品が何かはわかっているが、いつ頃の物かまでは理解できていなかったからである。その視線に碑は一歩だけ客に近づいた。

「これは九〇年代に売られていたアードベッグの三〇年です。ですから蒸留は六〇年代のはずです」

 先ほど九〇年代の物でも驚いていたのに、それよりも更に昔に作られた物であるという碑の言葉に驚きと興奮の表情を見せた。

「あの、これは飲めるのですか」

「もちろんです」

 碑はあっさりと返答した。

「あの、ハーフでもいいですか」

 男は今まで飲んだことのない年代物を前に、恐縮するように言った。その言葉は先ほどとは違うくらい小さな声であった。

「はい」

 碑がそう言うと、杉岡はショット・グラスを棚から出し、ボトルの栓を開けた。その光景を見るだけで男の胸は高まるようであった。

 ハンドメジャーで注がれたウイスキーが入ったグラスが、男の前へと置かれた。

 男はそれを手にすると、好奇心旺盛な表情で香りを嗅ぎ、グラスを一度置いた。それを数回繰り返し、満足したのか、口腔へとウイスキーを、少量、口腔内へと流し込んだ。

「今のアードベッグと全然違うのですね」

 口に残る独特な香りを楽しみながら男は言葉を出した。

「そうですね、今のアードベッグとはずいぶんと違いますからね」

 碑は優しい眼差しで答えた。

「何で今と昔でこんなに味が違うのですか」

「それは材料が違うからですね。

麦も、樽も、気候も、全て異なりますから……。

 だからこそウイスキーは熟成の年数もそうですが、その時代時代を楽しめるのでしょう。

 無くなってしまうものだからこそ、思いは強くなっていくのだと思います」

 無くなっていくという言葉に杉岡は、儚さを感じた。だがそれによって余計に心に残るのだという事も、最近は理解できるようになっていた。

 

 そんな過去の酒を楽しんだ客が帰った頃、神代が店内へと入ってきた。

「オールド・パルを」

 その注文を聞き、作業台の前にはオールド・オーバー・ホルトと、ドランのドライ・ベルモット、カンパリが用意された。

 冷やされて霜の降りたカクテル・グラスに、ステアされた液体が注がれていく。

 神代はそれを一口飲むと、鞄の中から、シングル盤のレコードを一枚取り出した。

「マスター、この間用事があって実家に行ったら、こんなレコードがあったから、思わず持ってきてしまったよ」

 碑はカウンターに置かれたレコードを見た。杉岡は普段見慣れているレコードとサイズが違う事に違和感を覚えた。

「中島みゆきですか」

「えっ、これ、中島みゆきなのですね」

 碑の言葉に反応するように杉岡はジャケットに写る若い中島みゆきを見て、驚きを隠せなかった。

「そう、おやじが良く聴いていたのを覚えているよ」

 神代はそういうとカクテルを口にした。

「時代ですよね。名曲だと思います」

 そういうと碑はレコードを取り出した。

 かかっていたレコードをターンテーブルからはずし、シングル用のアダプタを取り付けてから、ドーナツ版と呼ばれたレコードへと針を落とした。

 中島みゆきの声が、店内へと流れ出した。

「時代か……。

 今も時代、昔も時代、これからの未来も時代……。

 そんな中を俺たちは生きているのだな」

 神代が思わず何かを考えるように言葉を出した。

「何かあって実家に戻られたのですか」

 碑は神代へと聞いた。神代はカクテルで舌を湿らせてから

「ああ、友人が亡くなってね」

 と答えた。

「それでオールド・パルですか」

 碑は神代がなぜそのカクテルを飲もうと思ったのか考察するように言った。

「ああ、中学までは仲が良かったのだけどな。

違う高校に行って、大学でお互い実家を出てから、ほとんど会わなくてな」

 神代は時代を聴きながら、自らのどこ時代を思い出しているのだろうと、杉岡は考えた。


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