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三〇、人間としての食料

 ビル・エヴァンスのアンダー・カレントがかかる店内に雪乃が現れたのは、結構遅い時間であった。杉岡が出したおしぼりの受け取ると雪乃は

「ブラッディ・シーザーを」

 と注文をした。

 杉岡はペルツォフカとクラマトを作業台の前に出し、コリンズ・グラスに氷を入れ、カクテルを作った。

 出されたカクテルを一口飲み、雪乃はほっとした表情を見せた。

「珍しい物を飲んでいるな」

 碑はカウンターの中で、キャンドルライトに火を点けながら言った。

「どうしようもない飲み会だったので、何となく……」

 雪乃は思い出すと、先ほどのほっとした表情を崩した。

「飲み会だったのですね」

 杉岡が返した。雪乃は二、三度首を縦に振った。

「同級生と飲もうってことになったので、行ってみたら、何だか面白くなくて」

「同級生なのにか」

 碑が煙を宙に出しながら、驚くような表情を見せて言った。

「はい、久しぶりに会う人たちもいたので、ちょっと楽しみにしていたのですが」

 雪乃は先ほどまでの光景を思い出し、落胆したのか、ため息をつき、ブラッディ・シーザーを口にし

「ちょっと人数が多かったので、チェーンの店でというのはまあ仕方がないのですが、食べ方、飲み方の汚い人がいて」

 そこまで言うと雪乃の表情が曇った。

「確かに、そういう人がいると、美味しい物も美味しくなくなりますよね」

 杉岡が自分の体験を思い出したのか、同調するように言った。

「美味しい物ならばまだいいのだろうけど……」

 そこは言っても仕方がないというように、雪乃は一度言葉を切り、一呼吸置いてから続けた。

「クチャクチャ音を立てながら食べる人が近くにいて、それを聞いているだけで、もう気持ち悪くて」

 雪乃は思い出し、寒気を感じるようなしぐさを見せた。

「確かに人の咀嚼音は聞いていて嫌だな。

 そばやうどんをすするのとは訳が違うからな」

 碑はそういうと煙を宙へと飛ばした。

「そうですよね。げんなりしましたよ。

 他にもチェーンだからって、莫迦騒ぎするようなグループがいて、気疲れしちゃいました」

 そういうと雪乃は脱力した。

「元々飲食店で騒ぐ必要はないのだけれどな。俺がガキの頃は居酒屋でも余程でなければ大騒ぎするような奴らはいなかったけれどな」

 碑は自らの経験を語った。

「たまたまじゃないですか、マスターが行く店だからそうじゃなかったとか」

 杉岡が想像するように言った。

「そうなのかな。でも賑やかと騒ぐは違うからな」

 碑は何となく言葉を出し、自らが納得するように頷いた。

「手皿とかで、行儀よく食べている人なんかもいたので、少しは救われた気がしましたけれど」

「手皿は行儀良くないと思うけれどな」

 雪乃の言葉に碑が反論した。そこに更に、杉岡は不思議そうな表情を見せて反応した。

「手皿って駄目なのですか」

「私も、こぼさないようにするという意味では行儀がいいと思うのですが……」

 雪乃も続いた。

「普段はどうかわからないけれど、元々和食は膳で出てくるだろう。

 そこに小鉢で料理が乗ってくる。その小鉢を左手で持って、口元へと運ぶから、手を皿にするのではなく、皿自体を持っていくからな。

 それに手皿をして、こぼさないようにして、手に着いた場合にはどうする。

それを拭くという作業は決して綺麗には見えないだろう」

「確かに」

 雪乃は何となく気になったのか、汚れてもいない手の平をおしぼりで拭いた。

「日本人の食べ方は、ある種汚くなっているところもあるのだろうな。

 俺たちは飲食店で働いているから、余計に気になってしまうのだろうけれど」

 碑は思い返すように言い、キャンドルライドの煙を口腔へと入れた。

「私も、ここで働くようになってから、グラスの持ち方なども気になるようになりました。

 どんなに着飾っていても、持ち方が綺麗じゃないと、全体が綺麗に見えないのですよね」

 杉岡が碑の意見に同調するように言った。

「ラーメン屋とかでも食べ方を見ていると、おいおい、って思うことはあるけれどな」

「ラーメン屋で、ですか」

 雪乃は何がおかしいのだろうと、碑に問いかけた。

「そう、二足歩行の動物は、手が使えるだろう。猿でもゴリラでも、手にした食物を口に運ぶだろう。食べ物のほうに口を持っていくことはしない。

 それと比べると四つ足の動物は前足をそのように使えないから、口から食べに行く。

 これは仕方のない事だろうが、人間がそれをするとよろしくはない。

 ラーメン屋では、どんぶりに顔が入るのではないかって思えるくらい、口を食べ物に持っていく人たちがいる。二足歩行の動物としてはおかしなものだ」

 碑はそんな光景を思い出すように言った。

「でもこぼさないようにすると、そうなる事もあるのではないですか」

「何のための人間なのだ。道具を使えばいいだろう。すするのが下手であれば、蓮華を使えばいい」

「確かに」

 杉岡は言われて納得した。

「洋食が増えてから、日本でもワンプレートで料理を出す家も増えただろうから、皿を持って食べるということは減っているかもしれないが、茶碗はちゃんと持つだろう。まあ最近は茶碗をしっかりと持てない人間も増えているが……。

 それでも手皿や、口を持っていく必要はないだろう。欧米人もそんなことはしない」

「確かに、口から行く外国人は見たことないですね。

 それに落語だとそばとかの器も持って食べますものね」

 雪乃が思い出すように言った。碑は頷き、キャンドルライトを口にした。

「食べ方なんかは育ちが出ると聞きますが、そう考えるとその通りですね」

「いや、育ちがどうこうではなく、大人になれば自ら気づくものだと思うのだけれどな」

 杉岡の言葉に碑は反論した。杉岡は確かにと頷くことしかできなかった。

「兎に角、今日は本当にそんな人たちの姿を見たので、嫌になって飲みに来ちゃいました」

 雪乃はそういうと、ブラッディ・シーザーを飲み干した。

「みっともないってか」

 碑がポツリと呟いた。

「本当に思います。あんなの見たくないです」

「まあ、語源の通りだな」

「語源ですか」

 雪乃と碑のやり取りに杉岡が入った。

「そう、みっともないの語源は見とうもない。

 見たくないという言葉からきているって言われているからな。

 だから本人がみっともなくないですよというのはおかしな話なのだ。他者からの視点であって、自分で言う言葉じゃないからな」

「へぇ」

 雪乃と杉岡は感心するように頷いた。

「マスター、締めは甘い酒がいいです。

 グラスホッパーをお願いします」

 雪乃はそんな話をなしにするかのように注文をした。

「かしこまりました」

 碑は答えると、ウォルッシュベルジェールのミント・リキュール、モナンのグリーンミント・シロップ、エギュベルのホワイト・カカオ、生クリームを準備した。

 杉岡がカクテル・グラスを準備している間に、碑は材料をシェイカーへ入れ、カクテルを作り、雪乃へと差し出した。

 雪乃はクリーミーに泡立ったカクテルへと口付けた。

「マスターって、生クリームを入れるカクテルでも振り方変えないですよね。しかも振る回数もそんなに多くなく」

 雪乃は不思議そうに問いかけた。

「まあな、ちゃんと振ることができれば変える必要はないだろう」

 碑は普段通りにやればいいと、あっさりと言った。

「確かにそうなのですが、これで混ざるのかって、本当に思いますよ」

「そうか、バーテンダーとしては当たり前だと思っているけれどな」

 碑はそう言うと、キャンドルライトの煙を口腔へとため込んだ。

「改めて基礎の大切さを勉強させてもらいました」

 雪乃は軽く頭を下げた。

「それにしても、人間の身体を作るのは食べ物だからな。変な物は食べたくないし、ちゃんとした物を食べる。食料に感謝して、それをいただく。

 大切な事だろう」

 碑の呟いた言葉に、二人は頷くことしかできなかった。

 

 碑は杉岡の帰った店内で、ラガヴァーリンの入ったショット・グラスを口にした。

 今日は色々と作法のような事を言ったが、果たして他人の目から見て、自分はしっかりとしたことができているのだろうか……。そんな事を思わず自問自答した。

 アンダー・カレントの流れる中、碑はキャンドライトの煙を、宙へと吐き出した。


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