三、思い出のグラス
碑はいつものようにカウンターの一番奥の席で、読書をしていた。小説らしいが、一体何を読んでいるのだろうか……杉岡はそんなことを思いながら、バックバーのボトルを拭いていた。
先週とは異なり、ボトルを拭くという作業は碑に言われたからではない。自らの意思で拭いているのである。そこには早くバックバーに置いてある酒の位置や銘柄を覚えるためにも、この作業はやらなければならないと思ったからである。
カフェレストランに置かれているような、有名な酒はわかるが、バー秘密の井戸ではそんな知識では全く通用しなかった。杉岡の知っている酒の一〇倍以上の酒が、ここには置かれているのである。カクテルの基本材料になるホワイト・キュラソー一つにおいても、国内のバーで一番使われているコアントロー社の物ではなく、エギュベル社の物を使っているのだ。そう思うと、杉岡は焦りというよりも、自らの無知さを痛感した。
「マスター、このボトルにグレンリヴェットと書かれているのですが、僕が知っているグレンリヴェットとは違う瓶なのですが、こんなにグレンリヴェットというウイスキーは色々と出ているのですか」
杉岡は読書中の碑に声をかけ、拭いていたボトルを碑に向けた。本から目をはずし、碑は杉岡の手の中にあるボトルを確認した。
「ああ、それはボトラーズのグレンリヴェットだからな」
「ボトラーズですか」
聞いたこともない言葉に、杉岡は不思議そうな表情で応え、自らの手の中にあるボトルを再度確認した。
「多分杉岡が知っているグレンリヴェットは、蒸留所が直接製品化している、いわゆるオフィシャルと呼ばれるものなのだろう」
「オフィシャルですか」
またもや不思議そうな表情を見せる杉岡に対して、碑は立ち上がりカウンターの中へ入ると、バックバーの中からオフィシャルのグレンリヴェットを取り出し、杉岡へ見せた。
「僕が知っているのはこのボトルです」
「これは蒸留所が発酵、蒸留をしたのちに、自社の熟成庫で熟成をさせて、商品化したものだ」
碑は簡単に説明をした。
「じゃあ、このボトルは」
杉岡は疑問符をつけた言葉を出すと、手に持ったままのボトルを見直した。碑はそのボトルに書かれている綴りを指差した。
「ここにシグナトリー・ヴィンテージという社名が書いてある。これがボトラーズの名前だ。
このような瓶詰業者、一般的にはボトラーズとも呼ばれるが、グレンリヴェット蒸留所で蒸留された酒を購入して、独自の樽を選び、自分のところの熟成庫で熟成をさせ、製品化してくるところだ。
ボトラーズによっては自社で熟成をしないで、他のボトラーズが熟成した商品を購入して瓶詰してくるところもあるがな」
杉岡は頷きながら、その言葉を頭に入れようとしていた。
「ここにカスクナンバーが書いてある」
碑は再びボトルに書かれている箇所を指さした。そこには二つの数字が書かれ、間には+という記号があった。
「この二つの樽を合わせて、今回は商品にしたというわけだ」
「二つですか」
「そう、じゃあオフィシャルの商品はいくつの樽を使っていると思う」
「えっ」
杉岡は考えた。一つひとつの樽を製品化しているものと思えなくもない。しかし無数にあるはずの樽をどのようにしているのか。個々の樽によって味も変わってくる可能性がある。それを思うと考えがまとまらなくなった。
「いくつもの樽をブレンドして、商品化しているのだ。
シングル・モルトという言葉を聞いたことはあるか」
「はい、確か単一の蒸留所という意味だったような」
自信なさげに杉岡は答えた。碑は頷き、口を開いた。
「そう、単純に言うと蒸留所名がそのまま商品名になっていると思えばいいだろう。
グレンリヴェット蒸留所の中で作った物のみで、それ以外の蒸留所の商品を入れていない。それがシングル・モルトだ」
「他を混ぜた場合には」
「バッテッド・モルト。まあ俺が勉強した若い頃はそう呼ばれていたけれども、今はブレンデッド・モルトという言い方がほとんどかな」
杉岡はスラスラと答える碑に尊敬のまなざしをむけた。いつか自分もそのようなバーテンダーになれるようにと思いながら……。
「バーテンダーならば、こんなものは初歩的な知識であって、当たり前に知っているような物だけれどな。杉岡は勉強中だからいいけれども、客からしたらカウンターの中に入っているだけでバーテンダー。
知らないということは、信用を損なうという事に繋がらなくもないからな」
「はい、ちゃんと覚えておきます」
杉岡は自らを鼓舞するように頷いた。
「まあ、うちの店にいる間は見習いだから、少しずつ勉強していけばいい」
碑は素直に聞き入れる杉岡を、ある種うらやましく思った。年齢的にも凝り固まってきている自らの頭では、こうも簡単にはいかないという思いもあったのだろう。
「そのシングル・モルトの蒸留所には無数の樽がある。
良い物を製品化して、悪い物を残していったら、悪い物はそのまま残って不良在庫にしかならない。そういったものを出さないために、ブレンダーは常に樽の中身をチェックして、どれとどれを合わせていったら、現状と同じ、通年商品の味の物を作れるのかを考える。
単体で悪いと思っても、混ぜてみると絶妙な味を構成する物もあるから、ブレンダーの人たちの技術には感服するよ。
ちなみにブレンダーによっては、毎日のコンディションを変えないために、朝と昼の食べ物を常に変えないなんていう人もいるみたいだけれどな」
「それって仕事のある日全てですよね。何だか苦行ですね」
杉岡は苦しそうな表情を見せて言った。
「それだけ自らの仕事に対して責任を持っているという事だ」
そこまでして仕事をするという事は、責任感、使命感という言葉だけでは成り立たないように杉岡には感じられた。
「それに対してボトラーズは、購入したいくつかの樽を育てて、この樽は混ぜないで商品化したいと思えば、単一の樽のみで製品化してくる場合がある。それがシングル・カスクだ」
「シングル・カスクですか」
杉岡は先ほどから続くカタカナの言葉を、何とか覚えようと必死で頭を回転させた。
「カスクという言葉は樽。だから一つの樽のみで、他の物を混ぜないもののことだ」
「ボトラーズならではなのですね」
「いや蒸留所も記念ボトルとか、そういう物になるとシングル・カスクを出す場合もあるが、圧倒的に数は少ないだろうな。
だから蒸留所は学校なんかで言う学級という感じで、ボトラーズは個人塾という感じかもな」
「そうなのですね。じゃあボトラーズのほうがより樽の個性などが出るわけですか」
「そうだ」
想像を働かせて、答えを見つけようとする。杉岡の能動的な感じを碑は気に入っていた。
そんな話をしている間に、レコードの針が中心近くへ移動し、もう音を奏でていない事が理解できた。そして碑は、カウンターの端に置かれたレコードを新しい物へと置き換えた。
ハービー・ハンコックのメイデン・ボヤージュである。そのレコードの音が鳴り始めるか否かの時に、白い扉が開かれた。前回とは異なり、杉岡はすぐに反応した。
「いらっしゃいませ」
その言葉に招かれるように妙齢の女が、店内へと入ってきた。
「こちらへどうぞ」
碑は女にカウンターの中ほどの席を進めた。女はそれに従うように、席へと座った。
杉岡がおしぼりを広げて女に手渡した。女はそれを受け取り、軽く手を拭ってから、店内を少しだけ見渡し、その視線を碑に向けてから呟いた。
「久しぶり。もう何年かしら」
「確か一六年振りかと」
碑は女の問いに間髪入れずに答えた。そして頭を軽く下げた。
「うちの人が亡くなってから、もうそんなになるのですね」
改めて自らの夫が亡くなってからの時間を女は考えた。
「そうですね。今日は確か命日でしたっけ」
碑の視線は緊張していた。それを見越したかのように、女は少し微笑みを返した。
「橋元さん、今は何をされているのですか」
未だに緊張の取れない表情の碑は、客の名前を言い、尋ねた。
「先月、息子に仕事を引き継いで、引退したの。
引っ越す準備も終えて、来週には田舎に帰る予定。
その前にあなたに会おうと思って」
「そうでしたか」
碑は頭を下げた。
「ここにうちの人の遺品が残っていると、ふと思い出したの」
橋本の眼は碑を試しているようであった。一六年振りにきた店で、夫が残した遺品。それを碑が今も持っているのかどうか……。
碑はバックバーの下にあるガラス戸を開け、その中から二つのグラスを出した。
形状は円錐形で似ているものであるが、一つは上げ底になっていた。それをカウンターの上へと出した。
「このペニー・グラスですね」
橋元は目の前に出された二つのグラスを見て
「そう、これ」
と頷いた。碑はその何とも言えない表情を見て、満足そうな笑顔を浮かばせてから、バックバーを振り返った。
そして一本のボトルを取り出した。マッカランの一二年である。
「奥様、そちらのグラスに、マッカランはいかがでしょうか」
目の前に置かれたマッカランのボトルを見て、橋元は頷いた。そしておもむろに鞄の中から一本の封の切られていないボトルを取り出した。同じマッカランと書かれたボトルであるが、丸い瓶の形状は、碑がバックバーから取り出した物とは異なっていた。
「この頃のマッカランと、今のボトルは違うのね」
「そうですね。九〇年代と今では中身もボトルも異なりますね」
橋元はその言葉を聞くと、底上げになっていない通常のグラスを指さし
「碑君が出したマッカランを頂くわ」
と言った。
「かしこまりました」
銘柄を客側に向けるように持たれたボトルから、琥珀色の液体が注がれていく。
当時、橋元が生きている頃に、良く飲んでいたウイスキーである。そんな思いを一緒に飲み込むかのように、液体は口腔へと流されていった。
「昔のマッカランとは味が違うんだね」
「そうですね、橋元さんがいらっしゃっていた頃のマッカランと現在のマッカランではずいぶんと変わりました。
どのウイスキーでも、同じ味を長期に渡って出せる蒸留所はないですからね。
年代によって麦、樽、気候など、全てが変わってしまっていますから、それは仕方ないと思いますが……」
「確かにそうかも……。それだけの年月が経っているという事なのね」
橋元はマッカランが入っているグラスに、哀愁の漂う表情を向け、再び口をつけた。
「初めて碑君に出会ったのは、もう三〇年以上も前かしら。
たまたまうちの主人が見つけてきたバーだって、ここに来たのを覚えている。
まだ生意気盛りの碑君だったけれど、酒に対しては色々な事を教えてもらったと橋元は言っていたからね」
「そうですね。まだまだガキでしたからね。
逆に橋元さんがいらっしゃる事で、私も色々と勉強をさせてもらいました。
あの頃が懐かしいです」
碑は感慨深い表情を見せた。橋元はその表情を見て、同じように懐かしむような表情を見せると、自らが持ってきたマッカランの封を切った。
「良かったら」
もう一つのペニー・グラスに今でも注げるように、ボトルを傾けた。碑は素直にグラスに手をかけた。橋元が注いだマッカランは、碑が注いだ物とは、異なる色をしていた。
「うちの亡き父ちゃんに献杯」
橋元は、自らのグラスを一気に煽り、空にした。碑もそれに続く。
「碑君、ありがとう。
お会計して」
橋元の表情はすっきりしているようにも見えた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
碑は一礼すると、会計を速やかに済ませた。先ほど出した丸い瓶のマッカランは、カウンターの上に置かれたままであったが、橋元はそれを無視するように椅子から腰を離した。
「もうここに来ることはないかもしれないけれど、元気でね」
「橋元さんも、お元気で」
橋元は会釈をすると、出口へと向かった。だが扉を開けずに、鞄の中から、箱を一つ取り出して碑を振り返った。
「これは父ちゃんからの餞別、飲むなりバックバーに置くなり好きにして」
カウンターの端にそれを置くと、橋元は扉を開けて、姿を消した。
碑はその消えた背中に、深々と頭を下げた。杉岡もそれにならう。先ほど封を切ったマッカランと店のマッカラン。そして最後に置かれた箱がカウンターの上にあった。
「マスター、この箱は」
「取ってきてごらん」
碑はカウンターの上を片づけながら、杉岡に箱を取りに行かせた。箱に印刷されているボトルのイラストと銘柄を見て杉岡は思わず碑に声をかけた。
「これって、マッカランなのですか」
「そうだ」
碑はカウンターの外へ出て、橋元が座っていた椅子へと腰を下ろした。
「さっきのグラス、洗って出してくれないか」
「はい」
杉岡はシンクの中へと置かれたペニー・グラスを洗い始めた。
「これは昔出されたマッカラン、レプリカ一八六一という商品だ」
碑は箱を開け、中から今では考えられないような、荒い作りの瓶を取り出した。
「橋元さんはマッカランが好きだったからな。
当時色々なボトルを入手したものだ。その中の一本が、このレプリカだったなぁ」
碑は過去を思い、感傷に浸った。まだまだ駆け出しでありながら、強気な自分に対して、社長をしていた橋元は色々な助言などをしてくれた。それでも上から目線ではなく、対等に客と店主として扱ってくれていた事を、今でも思い出す。
どちらかに優越があるわけではない。客は金を払い、店側はそれに見合ったものを提供する。その関係はイコールであり、どちらかに優越があるわけではない。橋元は良く言ったものである。
その間に、杉岡が拭き終えたグラスをカウンターの上に並べた。
「このペニー・グラスも橋元さんが遊びで持ってきてくれたものなのだ」
碑は懐かしむように、二つのグラスを見つめた。そのグラスの光の中に、今は亡き橋元の姿が浮かぶようであった。
「そうなのですね。なぜ片方だけ上げ底になっているのですか」
杉岡が素朴な疑問を浮かべた。
「これは強欲の人間の証だ。ある種、こうやって儲けようとして真摯に客に向き合わなければ店を潰すことになる。そんな戒めだな。
まあ昔の話だがな……。今はこういうことに気が付かない店も客も多い」
碑は少しだけ悲しげな表情を見せた。
そしてマッカラン、レプリカ一八六一の封を切った。杉岡はあっさりとした碑の行動に驚きの表情を見せた。
「マスター、こんな貴重な酒を開けちゃっていいのですか」
「酒は開けなきゃ飲めないだろう」
「でも」
杉岡は言葉を続けることができなかった。碑は二つのペニー・グラスにマッカランを注ぎ、上げ底になっている方を自分で取り、もう片方を杉岡へと渡した。
「付き合え」
碑は軽く杯を掲げてから、グラスへと口づけた。杉岡もそれに続いた。
「さっきと同じレコードを流してくれ」
杉岡は碑にリクエストされたレコードへと針を落とした。
ゆっくりと、船が港を離れ、大海原へと漕ぎ出していく。そんなイメージが沸くような音を耳にしながら、碑は再び上げ底になったペニー・グラスへと口をつけた。