二六、嫌いな酒と好きな酒
エラ・フィッツジェラルドの歌うブラック・コーヒーが流れる中、碑はのんびりと葉巻をくゆらせていた。その葉巻のあてにしているのはコーヒーである。先日客からもらったドリップのコーヒーであるが、碑はコーヒーにこだわりはないようであった。
しかしながら飲んでいるコーヒーはエラの曲のように、ブラックに砂糖を少し多めに入れたものである。
「葉巻には甘いものが合うからな。ちょっと砂糖は多めだ」
それは先ほど碑が言っていたことであった。杉岡は葉巻も少しは手を出そうとしていたが、今一踏み込めるというものではなかった。
さすがにバックバーの酒を拭いてきた成果もあるのか、杉岡はどこにどのようなボトルがあるのか、ほぼ把握できてきていた。しかしながら今はもう現存している数が少ない商品などは、見るだけで、飲んでの勉強はなかなかできる状態ではなかった。
店の白い扉が開き、男女が店内へと入ってきた。四月も半ばを過ぎ、だいぶ服装も変わってきたのだと、上着が薄手のものに変わっている姿を見て、杉岡は思った。
「いらっしゃいませ」
碑は葉巻を灰皿に置いて立ち上がった。そして男の顔を見て、もう数回来ているなと、夕凪を認識した。
二人はカウンターの真ん中へと座った。女はバーにあまり来た事がないのか、少しキョロキョロと辺りを見渡した。
「いらっしゃいませ」
杉岡はおしぼりを置こうとすると、女は手を差し伸べた。杉岡は夕凪の前におしぼりを置くと、女には開いて手渡した。
「マスター、この子うちの同期なんですけれど、飲み会に行っても最近酒を飲まないので、どうしたのかって聞いたら、酒を美味しいと思えないっていうんですよ」
夕凪はカウンターに入ってきた碑に声をかけた。
「酒を好きな人もいれば、嫌いな人もいるでしょうから、それは仕方がないでしょう」
碑は押し付けることなく言った。女はその言葉に納得するように頷いた。
「でも、初めの頃は飲んでいたじゃないか」
夕凪は思い出すように問いかけた。女は軽いため息のような物をついて答えた。
「あの頃は何も良くわからなかったから、とりあえず飲んでいたけれど、最近はやっぱり美味しくないって思えて、無理に飲まなくてもいいかなって」
「でも、それは美味しい酒を飲んだ事がないからだろう」
夕凪は自分の経験してきたことを思い出すように言った。
「でもそれを言ったら夕凪だって、入社した頃と比べたら、飲み会でビールくらいしか飲まなくなったじゃない。飲んで騒ぐこともなくなったし」
女の視線は夕凪を責めているようであった。夕凪も言われて思うところがあるのか、二、三度首を縦に振った。
「大学の時や会社に入った時は、飲める奴って格好良いって思っていたけれど、ちゃんとした酒を飲んだら、ただ酔えればいいと思って飲むことが莫迦らしくなっただけだよ。
だから飲み会ではビールくらいで、本当に飲みたい時はバーに行くようになったんだ」
夕凪は秘密の井戸に来た時の自らの事を思い出し、恥ずかしそうに言った。
「それで、バーにきたら酒を飲めるんじゃないかっていうの」
「そう、最近はウーロン茶ばかりで、飲み会でも楽しくなんじゃないかって」
「でも、わざわざバーに来ても、私は酒を好きにはならないかもよ」
女はツンと突き放すような表情を見せた。
「その時はその時、でも一緒に美味い酒を飲めるようになりたかったんだよ」
夕凪は少しだけ、照れくさそうな表情を見せたが、女はそれを見ることはなかった。
「さあ、話はそこまでにして、お飲み物は何にいたしましょう」
碑が合いの手を入れた。
「私はジントニックを」
夕凪は注文をしたが、女は何を頼んで良いのかわからないという表情を見せていた。
「カクテルがよろしいですか、それともウイスキーなどのブラウンスピリッツのほうが」
碑は女の表情を読み、救いの手を出した。
「よくわからないですが、みんなで飲みに行った時に飲んだハイボールは美味しくありませんでした」
美味しい物を答えるかと思いきや、そうでない物を言うとは杉岡は想像がつかなかった。
「じゃあハイボールを頼んでみなよ。飲めなきゃ俺が飲むから」
思わず夕凪が口を挟んだ。女は強い視線を夕凪に見せてから
「じゃあそうします。飲めなかったらあなたが飲んでよね」
夕凪の表情を見ず、女は碑に注文をした。
そんなやり取りをやっている間に、杉岡はビフィーター・ジンとトニックウォーター、カット・ライムを準備していた。そしてディワーズの一二年を手にしようとした時に
「杉岡、ジントニックを」
と碑が声をかけた。杉岡は頷き、ハイボール用のタンブラーを準備してから、作業台の前に立った。コリンズ・グラスにライムを絞り、氷を入れ、その後、タンブラーにも氷を入れた。
碑はバックバーからウシュクベ・リザーブを手に取り、作業をする杉岡の邪魔にならない位置にボトルを置いた。
ジンをグラスに注いだ杉岡は、ウシュクベのボトルを手に取り、タンブラーへと注ぎ、ウイスキーを冷やしてから、個々にトニックウォーターとソーダを入れ、バースプーンで煽るよう混ぜて、二つの酒を仕上げた。
「お待たせしました」
左右の手に持たれたグラスが、二人の前へと差し出された。
「じゃあ、佐藤が酒を好きになる日に、乾杯」
夕凪はそう言うとジントニックを口にした。佐藤と呼ばれた女は、何も言わずにハイボールを口へと運んだ。その液体が口腔内に入り、喉を通り越した時に、佐藤は何とも言えない表情をし、思わず言葉を出した。
「何これ」
「だからハイボールだろう」
驚く佐藤の声を聞いて、夕凪が返した。
「嫌なアルコール感がなくて、ウイスキーの甘さと香りが広がってくる。炭酸の刺激も強くなくて、バランスがいい」
佐藤は目を見開くようにしてグラスを見た。杉岡は何となく、自分がこの店のドアを開いた日の事を思い出した。そして自らの手で、同じような感動を与えられるようになった事を嬉しく思った。
「ハイボールとはこういうものです」
碑が優しく声をかけた。
「これを飲んだら、今まで飲んできたハイボールって何だったのって思いますよ」
まだ信じられないという表情で、佐藤は答え、再びグラスに口をつけた。
「まあ使っているウイスキーなども違うでしょうから一概には言えませんが、ちゃんとしたバーテンダーが作ると、嫌味がなく飲めてしまう物になるのですよ」
碑の言葉を耳にして、杉岡は心の中でガッツポーズを決めた。
「こんなお酒だったら、飲みたいって思います」
「そうですか、ありがたいです」
杉岡は素直に頭を下げた。
「ちょっとこの酒を飲んでみませんか」
碑は薄いゴールドの色をした液体を注いだグラスを佐藤の前に出した。
「度数が強いので、そんなに多く飲まなくていいので、口の中に少しだけ含んでください」
何が始まるのだろうと警戒した表情を見せたまま、佐藤はそのグラスを口元へと運んだ。
「うわっ」
アルコール度数に驚いたのか、佐藤は一瞬口を手で覆った。だが次の瞬間、口の中に広がる味と香りを感じ取った。
「度数は強いと思うのですが、なんでしょう、このスパイシーな感じ。後味も変なアルコールは感じないです。
これ、何ですか」
佐藤の表情を嬉しく思ったのか、碑は笑顔で答えた。
「オルメカというテキーラです」
テキーラと聞いて佐藤は驚きの表情を見せた。夕凪も味見をしたいと佐藤が置いたグラスを手にした。
「まあ、オルメカの中には通常のシルバーやゴールドという物もありますが、これはアガベという原料を100%使ったアルトスという物です。
熟成は二年未満のレポサドですが、しっかいと作られているので、先ほど言われたようにスパイシーで、嫌味なアルコール感はない商品です」
碑が笑みを浮かべながら佐藤に言った。そして頷く佐藤を見てから言葉を続けた。
「たぶん佐藤さんの舌は敏感なのでしょうね。だからこそ、嫌な酒を嫌と思えるのでしょう。そして良い物を飲めば、それはそれでちゃんと反応できるのだと思いますよ」
「食べ物ではそういう風に感じることはありましたけれども、お酒でもそうなのですね。
お酒ってどれも同じで、ただの刺激があるものだと思っていました」
「そうですか、だから店によって、美味しく感じられないから、酒を嫌いだと思ったのでしょう」
碑の言葉に夕凪も一緒に頷いた。バーで酒を飲むようになってから夕凪は顕著に酒質と、バーテンダーの腕によって味が変わるものだとわかってきていたからである。
「俺もバーに来るようになって、そういう事を感じるようになったよ」
「そっか、夕凪はだから最近無難な物しか飲まないのね」
佐藤は夕凪がなぜここに連れてきたのかを感じ取ったように笑顔を見せた。
「そう、不味い酒飲んで、不味い料理を食べて、酔っぱらった先輩の愚痴聞いて……、それで割り勘なんて、本当に苦痛だよ。
だからさ、下手に飲んだ後には、最後にどこかのバーに入って飲み直すんだ」
夕凪の言葉に何となく佐藤は、気持ちがわかるという表情を見せて頷き、ハイボールを口にした。
碑は、誰もいなくなったカウンターでラ・リカのコロナの煙を宙へ吐き出すと、片づけを終えた杉岡に声をかけた。
「ウシュクベのソーダ割りを作ってくれ」
「かしこまりました」
杉岡はその声に反応し、ウシュクベのソーダ割りを碑の前へと出した。
碑はそれを一口飲み、満足そうにラ・リカを咥えた。
杉岡は何も言わずにブラック・コーヒーのレコードをかけた。
作った酒の批評をされないという事は、それが悪くないという意味なのかもしれない。杉岡は無言でハイボールを飲む碑を見て、そんな事を考えた。