二五、能動と受動
ポール・デスモンドのブリッジ・オーバー・トラブルド・ウォーターが静かに音を奏でる中で、碑と杉岡は、カウンターの中で両サイドに立ち尽くしていた。
店に二人の客がいるが、どちらも話をせずにいるのである。個々に来ている客同士どころか、バーテンダーとの会話もない・
今はその沈黙の空間を見守ることが、今はバーテンダーの仕事であった。
デュワーズ一二年のハイボールを飲む客は、はじめの一杯を注文して以来、ひたすらスマートフォンをいじっている。誰かとやり取りをしているような感じではない。ずっと指が動いている様を見ていると、たぶんゲームでもやっているのではないかと思えてしまう。
もう一人の客は、スコッチ・シングルモルトのグレンドロナックをストレートで飲んでいる。チビリチビリとやっては、何かを考えているのか、眼を閉じたり宙を見たり、している。
こんな暇そうな時であるが、碑は珍しく葉巻をくわえなかった。初見の客、その二人とも煙草を吸わないので、それに気を使っての事なのだろうと、杉岡は思っていた。
それにしてもただ立つという事がこれほど苦行なのかと、杉岡は身を持って知った。動きまわったりしているほうが、どれほど楽なことか……。しかも言葉すら発することができないのである。
どこかで空気が変わってくれないか……。そんな事を思った時に、考えているような客が口を開いた。
「グレンファークラスの一二年はありますか」
「はい」
スコッチ・シングルモルトの銘柄を聞かれ、碑は答えた。
「ではストレートで」
「かしこまりました」
せっかくの動くタイミングを逃すまいと、杉岡はすぐにバックバーからグレンファークラスのボトルを手にした。碑は任せようと思い、その場に留まった。
ストレート・グラスにグレンファークラス一二年が注がれ、客の前へと出された。
「お待たせいたしました」
「ありがとう」
男はグラスを口元へと運ぶと、再び考えるように、今度は頬杖をついて黙ってしまった。
再び苦行の始まりか……杉岡が考えた時であった。神代が沈黙の店内へと入ってきた。
「いらっしゃいませ」
この言葉を言うだけでも、沈黙が破られるという意味で、杉岡としてはありがたかった。
「ジン&イットを」
杉岡からおしぼりを受け取ると、神代は返すように注文をした。
碑は、グラスを出す杉岡を見ると、ビフィーター・ジンとドランのスィート・ベルモットを出した。そしてレモン・ピールとチェリーを準備した。
杉岡はミキシング・グラスへと氷を入れ、水を入れて軽く氷を洗い、全てを流した。ちょっとした作業であるが、以前碑から、ガチャガチャと音を立てずに、水を切る作業は最小限の数でと言われていた。それを思い出すように静かな店に一度、氷の動く音が響いた。
材料が注がれ、バースプーンがクルクルと、ミキシング・グラスの中を滑らかに回り始めた。杉岡は散々練習をしてきたせいか、綺麗なステアを見せた。
神代の前に置かれたカクテル・グラスにチェリーが入れられ、次いでカクテルが注がれる。そして仕上げのレモン・ピールをしてから、神代の元へとグラスが差し出された。
「恰好だけは様になってきたな」
神代はいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「ありがとうございます」
杉岡は心からの笑顔を見せた。それを摘みに、神代はジン&イットを一口飲んだ。
「味もまあまあかな」
杉岡はそんな神代の呟くような声に
「ありがとうございます」
とお辞儀をした。
やっとの事で話ができる。杉岡は神代を相手に、今までのうっぷんを晴らすかのように会話をしていた。碑は呼ばれなければいいだろというように、カウンターの端に陣取ったままであった。
「会計をお願いします」
グレンファークラスを飲んでいた客が口を開いた。碑はすぐさま電卓を叩き、伝票を出した。あらかた金額の予想がついていたのか、男は札を何枚か出して会計を済ませて席を立ち
「ごちそうさまでした」
とお辞儀をして男は店を出て行った。
「サイドカーを」
再び神代の注文に、杉岡はシェイカーを振った。そしてカクテルが提供された後に、ススマートフォンをずっと見ていた男が会計を頼んだ。
そして店内には神代一人になった。
「客がいた割には静かだったな」
神代がポツリと感想を呟いた。杉岡はその通りと言わんばかりに頷いた。
「そうなのですよ。一人はずっとスマホを見ているし、もう一人も何もしゃべらないという感じで、神代さんがくるまで店の空気が重かったですよ」
杉岡は解放されたかのように揚々と話をした。
「一人はスマホか……今は多い気がするな。
まあバーだけじゃなく、客と話をしないような店は多くなっているからな」
「確かにバー以外だと、そういう店が多いでしょうから、仕方がないのでしょうね。
昔と違うのは、本を読んだり、考えたりという事ではなく、スマートフォンが多いのでしょうが」
碑がカウンターの端で、キャンドルライトを取り出しながら言った。
「もう一人の方も、考え事をしているのか、会話がなかったのですよ」
「そうなのか、じゃあダンマリだったのだな」
杉岡の大変だったと言うような言葉に神代は答えてからサイドカーを口にした。
「スマホの人はあれ一杯だけでしたから、最後は氷も融けて水という感じでしたね」
「ファミレスなんかのドリンクバーとかができてから、ダラダラと長居する客が増えたのは確かかもな。
それにしてもほったらかしの酒は不味くなるからな。嗜好品という事を理解していないのだろうな」
「ただ目の前にあればいいという感じもありますね」
碑がそう言うと宙に煙を舞わせた。
「居座るなんて、店への配慮はないのだろうな。
もう飲まないのならば、次の客のために席を開ける。それが常識ってもんだろう」
神代は呆れた表情を見せて、サイドカーを口にした。
「まあうちは次の客がなかなか来ないからなぁ」
神代の言葉に碑は自虐で返した。神代は一瞬笑ったが、すぐに真顔になった。
「かといって、次の瞬間どうなるかなんてわからないのだからな。
好きな店であればあるほど、そういう気持ちは大切だと思うのだけれどな」
神代はカクテル・グラスに視線を落とした。
「確かに、続いてくれないと自分の行く場所がなくなりますものね」
今度は杉岡が納得するように神代の言葉に続いた。
「それにしても、受動と能動が入り乱れていたのは、面白い状況だったな」
神代はそういうとサイドカーを飲み干し、ビトインザ・シーツを注文した。
「受動と能動ですか」
「そう、考えている奴と、そうでない奴という感じかな。
スマホなんかは、もちろん考えて使う人もいるだろうが、だいたいは受け身の情報だ。
自発的に考えるものとは違う」
「そんなものですか」
杉岡は自らがどのようにスマートフォンを使っているのか、思わず考えた。
そんな事を言っている間に、碑がカクテル・グラスを神代の前に差し出した。
「まあ、スマホとかそういう物があるのが当たり前の時代だからな。
それを否定する気はないが、そういう物がなかった時代は、自らが考えたりしないと先に進まないことも多かったからな」
神代はカクテル・グラスを口元へと運んだ。
「勝手に出された物を飲んでも面白くもない。
自分が何を飲みたいか考えて、それを注文する。
まあ酒だけじゃなく、自分主導じゃなきゃな」
神代は再びビトインザ・シーツを飲んだ。碑もそうだと言わんばかりに頷いた。
神代が帰った店内で、碑は改めてブリッジ・オーバー・トラブルド・ウォーターをかけた。
「杉岡、この曲の和名って知っているか」
「いえ」
だいぶジャズを聴きなれてきたとは言っても、曲名まで覚えていない杉岡ははっきりと答えた。
「元はサイモン&ガーファンクルの曲で、明日に架ける橋っていう題名なのだ」
「明日に架ける橋ですか」
何となく杉岡はその題名を重く感じ取った。
「そう、能動的な人間は、明日のために橋を架ける。
受動的な人間は、能動的な人が作った橋を渡るだけ」
今日の客たちがどちらに当たるか、杉岡の中では明確であった。
碑は、宙を眺め、葉巻に火を点けた。