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二四、酔いたいに付き合う時も

 杉岡は作業台にシェイカーのボディの部分と、メジャー・カップが三〇ミリの方を上にして置いていた。緊張した面持ちで、水を入れたボトルを手にしている。その緊張は碑が見ているというだけのものであるが、その視線は重く肩にのしかかってくるようであった。

 杉岡は意を決したように、ボトルを傾け、水をボディへと注いだ。

 ボトルを切る様にも、緊張が見え隠れするようであった。

 そしてボディの中に入った水を、今度はメジャー・カップへと注いだ。

「ほんの少し少ないな」

 碑の言葉に、メジャー・カップの水を捨て、再びボディへと水を灌ぐ。今度は三〇ミリピッタリの量であった。

「ほう、ピッタリじゃないか」

「マスターが見ているので、緊張します」

「そうか、でも客であれば誰でも一緒。

 誰が見ていても適量が注げるようにならないとな。

 まあ、そんな事を言っても、俺もズレる時はあるから、その時は今みたいにして、微調整をするけれどな」

 碑はそう言うと、いつもの席へと移動し、プラセンシアのコロナへと火をつけた。

 杉岡は、再び三〇ミリの水量を試し、それが合っていることを確認すると、メジャー・カップをひっくり返し、今度は四五ミリへと挑戦を始めた。

 客が来ない店内の中で、ひたすら自らの感覚を杉岡は高めていった。

 その後、数名の客が来るが、それほど長居はせずに、すぐに帰っていったために、杉岡は再びハンドメジャーの感覚を研ぎ澄まし、身体に覚え込ませる練習をした。

 今度は、シェイカーのボディではなく、ショット・グラス、オールド・ファッション・グラス、コリンズ・グラスなど、形状の違うグラスを並べてである。注ぐグラスが変わったとしても、同じように水量を出せる。それを当たり前にしなければならないと碑から言われたことがあったからである。

 杉岡は自らが務める店でも、手が空いた時にそのような事を行っているのか、結構精度は高くなっていた。碑は本を見ながらも、時折横目でその様を確認していた。

 その後、客が来ることはなく、夜はかなり更けてきていた。このまま営業も終わりになってしまうのかもしれない。杉岡はそんな事を考えながら、最後のグラスを噴き上げ、棚に戻した時に、雪乃が店内に入ってきた。

「マスター」

 誰もいない店内を見渡してから、雪乃は涙を流しながら立ち尽くしていた。

「どうした」

 碑は席から立ち上がり、落ち着いた声で、諭すように聞いた。

「振られた」

 雪乃は碑の顔を見ると、崩した顔を見せた。

「まあ座れよ」

 碑に即されて、雪乃はカウンターの真ん中へと座った。雪乃のそんな姿を見て、杉岡は神妙な表情で、何も言えずにおしぼりを出した。

「杉岡、マティーニ」

 投げやりな言葉で雪乃は杉岡に注文をした。碑は雪乃の隣の席を一つ空けて、カウンターへと着いた。

 杉岡はヴィクトリアン・ヴァット・ジンとマルティニ・エクストラ・ドライを作業台へと出し、冷やしたカクテル・グラスと、オリーブ、レモン・ピールの乗った皿を雪乃の前へと出した。

 ミキシング・グラスへと材料を注ぎ、バースプーンが透明な液体を回していく。

 そうしてカクテル・グラスへと注がれたマティーニが雪乃の前に出された。

 雪乃はカクテル・グラスを睨みつけ、しばらくしてから意を決し、マティーニを一気に飲み干した。

 そういう飲み方をマスターは嫌いなはずだ。杉岡は同業の雪乃しかいない空間で碑が厳しい事を言うのではないかと身構えた。だが言葉を発したのは碑ではなく、雪乃であった。

「マスター、結構長く付き合ってきたんだよ。

 それなのに別れるって言われて」

「そうか、それでどうしたのだ」

 雪乃の強い口調に対し、碑はゆっくりと問いかけた。

「受け入れるしかないかなって、強がって分かれてきた」

 雪乃は涙を堪えようとしているが、抵抗できずにそれは頬を伝った。

「そうか、仕方がないな」

「うん」

 雪乃は強く頷き、杉岡へと向き直った。何も言うことができずに杉岡は固まったままであった。雪乃にどんな言葉を言われるのか、身構えた瞬間

「杉岡、マティーニをもう一杯」

 と注文を受けた。

「えっ、大丈夫ですか」

「莫迦にするな、マティーニ一杯くらいどうってことないでしょう」

「でも、ここに来る前にも飲んでいるんですよね」

「人を酔っ払い扱いするな、もう一杯」

 雪乃に強く言われて、杉岡は助けを求めるように碑を見た。その視線に気づきながらも碑は無言で立ち上がり、事務所の方へと消えた。

「おい杉岡、聞いているのか」

 雪乃は追い打ちをかけるように、カクテルを作り始めない杉岡を睨んだ。

 碑は看板の電気を消してきたのか、その証拠にもう営業する気はないというように、蝶ネクタイを外していた。

「杉岡、作ってやれ」

 碑はそう言いながらカウンターの中へと入った。そしてレコードをプレイヤーへと乗せた。ジョン・コルトレーンのバラードが、静かに音を奏でた。

 杉岡は言われた通りに、マティーニを作ると、雪乃の前へと差し出した。

「雪乃さん、一気飲みは辞めてくださいね」

 その言葉に雪乃はムスっとした表情を杉岡へと向けた。杉岡は一瞬飲まれるような感じを受けたが、視線を離すことはなかった。

 雪乃は「ふん」と鼻を鳴らすと、マティーニへと口をつけた。しかし今度は一気に飲む干すことはせず、半分くらいでグラスを置いた。

「杉岡、何を飲む」

 いきなり碑に言われて、杉岡は何が何だかわからなかった。

「雪乃の隣が空いているから座れ」

 碑にそう言われて、杉岡は碑と雪乃を挟むように座った。

「何を飲む」

 先ほどと同じ言葉が飛ぶ。遠慮はしないほうがいいと考えた杉岡は答えた。

「ダイキリをお願いします」

 それを聞いて碑は軽く頷くと、グラスや材料を用意して、シェイクしたカクテルを杉岡の前に差し出した。

 そのまま碑はショット・グラスを出し、バックバーに並んでいるシグナトリーのグレンロッキーを注ぎ、先ほど自らが座っていた席の前に置いた。そして葉巻を手に、カウンターへと座った。

 誰もカウンターの中にいない状態で、席に着いた碑は 

「雪乃に乾杯」

 と言い、一人グラスを掲げてから口元へと運んだ。雪乃も杉岡も倣うようにグラスへと口をつけた。

 雪乃はマティーニを飲み干した。そして、グラスの中に残ったオリーブを口の中へと運んだ。

 杉岡は一瞬、立ち上がろうとしたが、碑がそれを制してカウンターの中へと入った。

 そして棚からシャンパン・グラスを三脚取り出した。そのまま小さなワインセラーの中からヴーヴ・クリコを取り出し、普段の営業中ならばやらないであろう、音を立ててシャンパンの栓を開けると、グラスを満たした。

 そして個々にグラスを配った。杉岡は二人のペースについていかなければと、勝手な解釈をして、ダイキリを一気に飲み干した。

「たまにはこういう飲みもいいだろう」

 再びカウンターの席に座った碑は、そういうとシャンパン・グラスを目線まで上げ、口をつけた。二人もそれに倣う。

「雪乃、ヴーヴ・クリコってどういう意味か知っているか」

 雪乃は首を縦に振って答えた。

「未亡人ですよね。創業者の息子が亡くなって事業を引きついだマダム・クリコ」

「そう、良くできました」

 碑は笑みを見せながら答えグラスを口につけた。

「何ですか、振られた私は未亡人みたいだって事ですか」

 雪乃は不貞腐れた表情を見せ、シャンパンを一気に飲み干した。碑はそんな雪乃を優しい眼差しで見つめ返した。

「そんな事はないさ、結婚しなきゃ未亡人にはなれないだろう。

だからそのうち未亡人になればいいさ」

「それって、結婚できるって言ってくれているのですか」

 先ほどの睨みつけている表情が緩んだ。碑は何も言わずに再びグラスを持ち上げた。

 雪乃の空いたシャンパン・グラスに、杉岡はカウンターの上に置かれていたヴーヴ・クリコの瓶を取り、液体を注いだ。

「まあ、そこまではわからないけれど、出会いがあれば別れもある。そしてまたきっと出会いがある。人生なんてそんなもんじゃないのか……」

 碑は葉巻の煙を宙へと舞わせた。


「お疲れさまです」

 着替えを済ませた杉岡が事務所から出てきた。

 雪乃はカウンターに伏せるように眠り込んでいた。その横で碑は、追加でショット・グラスに入れたグレンロッキーを飲みながら、葉巻をふかしていた。

「お疲れ様」

 碑は杉岡へ目線を向けた。

「雪乃さん、大丈夫ですか」

「まあ、酔いたい時もあるだろう。

知らない人だったらそこまでの事はしないだろうけれど、雪乃が振られたって泣きに来た日だからな。まあちゃんと俺が責任を取るから、今日のところは許してくれ」

碑は杉岡に頭を下げた。

「許すも何も、マスターの店ですから」

 杉岡は恐縮するように、碑の優しさに対して言った。

「まあ杉岡も巻き込んでしまったからな」

「いえ、勉強になりました」

 杉岡は、バーテンダーは酒を提供すると共に、優しさを含んでいる者と考えた。

そしてそんな優しさを見せた碑に頭を下げて店を後にした。

 碑は音の無くなった店内に、再びバラードを奏でた。

そのまま雪乃の眠るカウンターに座り、宙を眺めた。

その視線は哀愁が漂っているようにさえ見えた。

ウイスキーを飲み、葉巻の煙を宙へと飛ばし、碑は小さく微笑んだ。


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