二三、感情があるからこそ
三月も終わりに近づき、桜が散るような季節がきていた。
「マスターは、花見は行かれたのですか」
ステアの練習をしていた杉岡が、思いついたかのようにカウンターの端に座る碑に声をかけた。
サラ・ヴォーンのザ・コレクションがかかる中、碑は耳を音楽から背けると、葉巻を一吸いし、煙を宙に舞わせた。
「花見かぁ、もう何年もしていないなぁ」
何かを思い出したかのような表情を見せたが、碑は自らの意識を無視するかのように、葉巻を口元へと運んだ。
「そうですか、私はこの間、友人に誘われて行ってきました。賑やかでしたよ」
杉岡は思い出すと思わず笑みを浮かべた。
「そっか、まぁ花見なんていう言葉は口実で、ただ鬱積した物を吐き出したいだけの人間が、酔っぱらいたいだけというのが多いのだろうな」
碑は自分には関係がないというような言葉を出した。
「確かにそうかもしれないですけれど」
自分もその中に含まれていると思うと、杉岡は自信なさそうに声をすぼめた。
「花を見ている人が少ないのだから、花見なんて言葉は辞めて、ただの飲み会って言えばいいのにな」
「確かに、花何てほとんど見ないですね。私も最初にチラッと見ただけでしたし……」
杉岡は自分たちの飲み会を思い返して同調した。
「若い頃に、友人と、ビールを一本ずつ、チーズを一かけだけ持って、夜中に行ったことがあったなぁ」
碑は思い出すように話をはじめた。
「ライトアップされている花を見上げて、ちょっとだけ語りながら飲んで……。
夜桜はいいなぁって……そこには誰もいなかったし、気持ち良く花を見ながら飲んだものだよ。しかもビール一本なんてすぐに終わったら、花から目を離すことも少なかったなぁ……」
ちゃんとした花見ってそうなのか、杉岡は疑問を呈しながら頷くしかなかった。
「他にも、マスターは花見の思い出ってあるのですか」
最近は見に行かないといいながらも、今の話のように何か話題を持っているのではないかと、杉岡は改めて碑へと問いかけた。
碑は宙に煙を飛ばし、その煙幕に映し出されるような、自分の思い出を語り始めた。
「そういえば、知人の社長が、自宅に桜があるからみんなで来いって言われて、行った事があったな。
俺の他にも良くいく店の人たちが呼ばれていて、その人たちは花見弁当とか、料理を作って持っていたなぁ。俺はちょっとしたカクテルを作れるように、材料を持って行ったけれど」
碑の話に杉岡はどんな雰囲気であったか、想像した。
「花見弁当ですか、凄いですね」
「そうだな、凄かったよ。桜に負けず劣らずの見栄えのいい弁当を持ってきていたし。他に呼ばれた客人の中には、シャンパン、キャビアなんていう豪華な物を持ってくる人もいたからなぁ」
碑は懐かしむような哀愁のある笑顔を見せた。
「そういえば、奈良時代の花見は梅とか萩だったらしいな。平安になってから桜になったような気がしてけれど」
自らの経験とは別に、碑は花見の事を思い出したように言った。
「そうなのですね。でも平安から変わっていないって、凄いですね」
「そうだな」
碑は何となく同調すると、煙を口腔内へと詰め込んだ。
宙に煙が舞った時、風によって流れが変わった。神代が店内へと入ってきたのだ。
「いらっしゃいませ」
杉岡がおしぼりを奥から三番目の席へと出した。碑はその間にカウンターの中へと入った。
「神代さん、花見は行かれましたか」
杉岡が先ほどまでの流れで聞いた。
「俺はああいうのは好かん」
神代は素っ気なく言うと、いたずらな笑顔を杉岡に向けた。
「神代さんも行かないのですね」
「花をちゃんと見ない花見なんて、全く意味がない」
杉岡は先ほどの碑の意見と同じなので思わず笑ってしまった。
「どうした」
いきなり笑われて神代は気になったのか、言葉を飛ばした。
「いや、先ほどマスターにも同じような事を言われたので」
碑はそう言われて笑顔を神代へと向けた。
「そうか、まあ花より酒だ。
バラライカをくれ」
「かしこまりました」
碑は答えると、グラスを棚から出した。杉岡はアブソルベント・ウオツカ、エギュベルのホワイト・キュラソー、レモン・ジュースを用意した。
シェイカーが碑によって振られ、神代の前に置かれたカクテル・グラスへと注がれた。
神代は一口飲むと、自分の中で納得したのか、軽く頷いた。
「神代さんがウオツカのカクテルを飲むのって、何だか珍しいですね」
碑が過去の神代の記憶を引っ張り出して尋ねた。
「そうか、そんな事もないと思うけれど、今日はこいつを飲みたかったのだ」
そう言うとグラスを見つめ、再びカクテルを口にした。
「今日、駅のコンコースでバイオリンを弾いている人がいてな」
「駅で、ですか」
杉岡はそんなところでなぜと驚くように言った。
「いや、何かのイベントの中で演奏があったみたいでな。ちょっと足を止めて聞いてしまったのだ。
そうしたらバラライカが思い浮かんだってことさ」
神代はこのカクテルを飲みたかった理由を語った。
「そうでしたか、まあ納得ですね」
「演奏を聞いてきたから、余計にうまく感じるのかもな」
神代は碑の言葉に頷き、再びカクテルを口にした。
「でも何で演奏を聞いてバラライカなのですか」
何もわからない杉岡の問いに、神代と碑は思わず顔を見合わせて笑みを見せた。
「スマホでバラライカと調べてごらん」
碑に言われると杉岡は事務所へと行き、自らのスマートフォンを手に戻ってきた。
「バラライカって言っても、色々とでてきますよ。
音楽とか、アニメとか」
検索した画面を見て、杉岡は内容を報告した。
「じゃあ画像検索をして、アニメとか以外に何かないか見てみな」
碑の言葉に従い、杉岡は更にスマートフォンを操作した。
「楽器ですか」
杉岡はその画像をクリックした。
「バラライカって、ロシアの民族楽器なのですね」
「そう、だからこのカクテルが飲みたくなったってことさ」
神代は、杉岡に答えると、グラスを空にした。杉岡は弦楽器という点だけが類似しているのかと、自分を納得させた。
「さて、フランシス・アルバートでももらうかな」
「随分なものを行きますね」
碑は再び驚くように尋ねた。
「今日は音楽繋がりだ」
神代の言葉を聞いて、碑はオールド・ファッション・グラスを出し、氷を入れた。そしてタンカレー・ジンと、ワイルド・ターキーを注いてステアした。
出されたカクテルを口にした神代に、杉岡は疑問を投げた。
「あの、音楽繋がりって言っていましたけれど、このカクテルも何かの楽器の名前ですか」
「楽器じゃない、人名だ。ジャズ・ヴォーカルの」
神代が言うと、杉岡はますますわからないという表情を見せた。
碑はレコードを漁り、一枚のジャケットを杉岡に見せた。
「フランク・シナトラですね」
店に来た頃はジャズの事などわからなかった杉岡も、少しは知ってきたようであると、碑は感心をした。
「フランク・シナトラの本名がフランシス・アルバート。それでシナトラが好きだったターキーとタンカレーを合わせたのがこのカクテルだ」
碑の説明を聞き、杉岡は納得するように頷いた。
「気持ちが向いている時は、本当にうまく感じるな」
神代が思わず呟いた。
「そうですね。そういう感情があるからこそ、そういう物を欲しくなりますよね」
「そう、花見なんかも気分だけでみんなうまいとか思うのだろうな。
場面とかも含めて、人間だなぁって思うよ」
碑の言葉に神代は返して、フランシス・アルバートを飲んだ。
「動物は生きるために食べるから、いつも同じような物で十分だけれど、人間はそうではないからな。気持ちは大切だ。まあ腸内細菌なんかによって、食べたい物を選んでいるなんていう話もあるようだけれど、やっぱりその時の雰囲気とかは大切だな」
「確かに」
杉岡は神代の言葉に頷いた。
営業を終え、碑は、サラ・ヴォーンのラバーズ・コンチェルトをかけた。碑の中では、時間としては合わないと思えるような曲である。
「こんな曲を聞く時は、楽しい酒が欲しくなるな。
杉岡、何か作ってくれ」
いきなり振られて、杉岡は頭の中で楽しい酒という物を自分なりに考えた。
カクテル・グラスを準備し、材料を次々と作業台の前へと出していく。
ビフィーター・ジン、ペパーミント・グリーン、パイナップル・ジュースを取り出し、シェイカーへと入れた。
軽快に振られたシェイカーから、緑色のカクテルがグラスへと注がれた。
「アラウンド・ザ・ワールド、世界一周ってか
それは楽しいかもしれないな」
碑は出されたカクテル・グラスを口元へと運んだ。