二二、一番好きな物
碑は早い時間に賑やかなレコードをかけることがあった。だからという訳ではないが、チャーリー・パーカーのナウ・ザ・タイムが店内に響いていた。
杉岡が着替えて事務所から出てきた時、碑は珍しくカンターの中で、ボトルを手にしていた。
「マスター、その酒は何ですか」
杉岡は碑が手に取った酒が気になった。赤い蝋封がしてある瓶は、杉岡が目にしたことがないものであったからである。しかも蝋封の下はワインのコルクのような物で閉められているのである。
「これか、これはウイスキーだよ」
碑はボトルを杉岡の前のカウンターの上へと置いた。
「フランスのミッシェル・クーブレーという人が作ったスコッチだ」
「フランス人がスコッチを作ったのですか」
ウイスキーとは結びつかないフランスという言葉が、杉岡には引っかかった。
「そう、フランスでもボトラーズがあるから、ウイスキーを飲む人たちは一定数いるのだろうな。
そんな中、変わり者というか、ミッシェル・クーブレーという人は、自分がスコッチを作りたいという事で、ベレという麦を復活させて、フロアモルディングをハイランドパークで、蒸留をエドラダワーで行い、スコットランドで寝かせたのちに、フランスで熟成をさせたものなのだ。
それがこのシングル・シングル・ベレ・バーレイというスコッチだ」
杉岡は碑の説明を聞いて、目の前に置かれたボトルを手にした。今までバックバーの酒瓶を色々と拭いてきたが、このボトルを手にした記憶はなかった。
「今までバックバーになかったですよね」
碑は杉岡の言葉に感心を示した。杉岡はカウンターの中に入り、ボトルを作業台の前に置いた。
「この間持ってきたのだ。よく気がついたな」
「ちょこちょこバックバーの酒瓶を確認していますからね。こんな瓶があるとは思いませんでした」
そんな会話をしている時に、神代が店内へと入ってきた。
「いらっしゃいませ」
そんな二人の出迎えに軽く手を挙げて応え、定位置へと座った。そして二人が眺めていた瓶へと目を向けた。
「マスター、それって……」
神代の興味がボトルに向いていることに気がついた碑は、神代の前へとボトルを出した。
「ベレ・バーレイです」
「やっぱりそうか、懐かしいなぁ、マスターまだ持っていたのか」
神代は回顧するように呟いて、ボトルをまじまじと見つめた。
「はい、これが最後の一本です」
「そうか、じゃあこいつをもらおうか」
神代は、待てないというように頬を緩ませて注文をし、杉岡が出したおしぼりを手にしながら、ショット・グラスに注がれるウイスキーを今かと待ち望んだ。
「お待たせしました」
目の前に出された濃い色のウイスキーを眺め、神代はグラスへと口をつけた。
「本当に懐かしい味だ」
神代はそう言うと、思い切りウイスキーの香りがする息を吐き出した。
「それにしても今日は早いですね」
「ああ、ちょっと若い奴がどうしようもないミスをしてな。謝罪で会社を出たから、直帰して飲みに来たのだ」
杉岡の問いかけに神代は答えてから、再びグラスを口元へと運んだ。
「ミスをするのは仕方がない。だがな、自分が悪いと正直に認めずに、言い訳ばかりするから、ちょっと頭に来ていたのだ。
でも、この酒を飲んだら、そんな気分なんて吹っ飛んじまったよ」
その言葉は神代の表情を見ればわかる感じであった。
そんな時に、白い扉が開いた。
「一人なんですけどいいですか」
若い男が顔を覗かせた。碑は
「どうぞ」
と手で店内へと招いた。
「どこの席に」
「どこでもいいですよ」
その言葉に男は、入口に近い席へと座った。杉岡に出されたおしぼりで、軽く手を拭ってから、口を開いた。
「ホワイト・レディをお願いします」
「かしこまりました」
目の前にいた杉岡は注文を受けた。碑は素早くジン、ホワイト・キュラソー、レモン・ジュースを作業台のところへと用意した。杉岡はグラスを準備して、それを男の前へと置いた。
シェイクされたカクテルが、グラスを満たしていく。
「おまたせしました」
カクテル・グラスが碑の手によって、男の前へと出された。男は軽く頭を下げてから、カクテルを一口飲んだ。
「確か、前回いらした時もホワイト・レディでしたっけ」
碑が男へと話しかけた。男は驚くような表情を見せた。
「覚えているのですか」
「はい、あまりバーに来た事がないと言っていた。確か新入社員だとか言っていませんでしたっけ」
「いいました」
「名前までは憶えていませんが、そこまでは覚えています」
碑は軽く頭を下げた。杉岡も何となく見覚えがあると思ったが、誰だという認識まではなかった。
「夕凪です。酔っているから飲みすぎないほうがいいと言われて帰った」
「確かに、そんな事があったような」
碑は言われて頭の中の記憶をたどった。
「でも、そう言われて、色々とバーを巡ってみようと思って、そこから色々と行きました」
「そうでしたか」
碑は夕凪の話に、軽く頷くだけであった。
「色々と行かれてどうでしたか」
そこに質問を飛ばしたのは杉岡であった。思ってもみない方から質問をされて、夕凪は一瞬驚いたが、気を取り直すように答えた。
「楽しかったです。でも一軒の店に行った時に、マスターに自分の酒量がわかることが大切なのだと、言われた事を思い出しました」
夕凪は記憶をたどるように話はじめた。
「居酒屋でいくら飲んでも酔わないと豪語してここにきて、マスターに酔っているから帰った方がいいと言われ、じゃあ他のバーでと思ったんですよ。
そうしたら、物の見事に酔っぱらって、帰りの電車で乗り越してしまいました」
「でも乗り越したくらいで済んで良かったですね」
杉岡は夕凪の気持ちを代弁するように安堵した表情で言った。
「でも、その後だったんですよ。飲み終わるくらいになると、すぐに注文を聞いてくる店があったのは……。
ただ気にかけてくれているからくらいにしか思わず、注文をしていると、酔っていても注文を聞いてくるので、思わず注文していたら、いつの間にかトイレに駆け込んでいました。
マスターに言われたように、自分の酒量を知らないと大変な事になるの、だなぁって」
神代は聞き耳を立てながら、ウイスキーを飲んだ、
「だからしばらくは、気を付けながら飲もうと思い、だいぶ酒量がわかってきたので、やっとここに来ることができました」
夕凪はやっと笑顔を見せた。
「そうでしたか」
碑は笑顔で答えた。
「それにしても、色々なバーに行って、バーテンダーの方に一番好きな酒を聞いていたのですが、みんな違って面白いなぁって思いました。
ちなみにマスターの一番好きな酒って何ですか」
夕凪はそこまで言うと口の渇きを覚えたのか、ホワイト・レディを口にした。
「一番好きな酒は、ないです」
碑はきっぱりと答えた。神代はその答えを聞いて、思わず笑みを浮かべた。
「一番がないのですか」
「はい」
返答が思ったことと違いすぎたのか、夕凪は驚くような表情を見せた。碑は更に言葉を続けた。
「あれもこれも好きですし、その時によって選びたい酒も違いますから、一番なんて決められないですよ」
「でも、やっぱり一番はあるんじゃないですか」
夕凪は自らの考えを更に押し出した。
「いいかい、一番なんて軽々しく言えるのは、物を知らない人間だけだよ。
色々な事を知っている人間は、物が多すぎて甲乙つけがたい。
ましてやバーのマスターがあっさり一番好きな酒なんて言うのは、何となく客に話を合わせて、やり過ごしているようにしか思えないのだよな」
神代が思わず横から口を挟んだ。
「そんな不確定な事を平気で言える人間は、あまり信用がおけないな」
神代は更に追い打ちをかけた。そして一気にベレ・バーレイを口にして、追加の言葉を出した。
「一番どうこうなんていうのは、カミさんくらいにしておけばいい」
神代の笑みが何を表しているのか、夕凪には良くわからなかった。しかしながら、物を知れば知るほど選ぶことができないという意見には納得ができたようであった。
「そっか、基準になるような酒ができても、それが一番とは限らないですし、新しい物を知れば、どっちも好きだと思えるようになるかもしれないですものね」
そしてホワイト・レディを飲み干した。
「マスター、マディーニをください」
夕凪は力強く言った。
「かしこまりました」
碑は答えて、マティーニを作りはじめた。少しはバーに慣れてきているような夕凪の姿に、何となく、酒を楽しめる将来を感じた。
「知れば知るほど、自らの無知を実感する」
神代は小さく呟くと、碑にお代わりを即した。
音が止まった店内に、杉岡は再び、チャーリー・パーカーのナウ・ザ・タイムを流しはじめた。