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二一、終末期の客

 早い時間だからこそ、アップテンポのジャズをかけることがある。遅い時間にこれからスタートと思えるような曲をかけるのは気がひける。碑はそんな事を以前言っていた記憶が杉岡にはあった。それだからなのか、今日はルイ・アームストロングのデラックスがかけられていた。

「マスター、前にもこのアルバムがかかっている時がありましたよね」

 杉岡は出勤すると碑に問いかけた。

「まあな。たまに聞きたくなる曲があるのだよ」

「前にこのアルバムの中に入っている、この素晴らしき世界が聞きたくなる時があるって言っていましたよね」

 杉岡は記憶を呼び戻すように言った。

「ああ、今の世界の状況を見たら、素晴らしき世界っていう感じじゃない場所もあるけれども、やっぱり世の中には、素晴らしい場所もあるのだろうな」

 碑は軽く頷いてからそう言うと、カウンターの椅子に座り、遠くを見つめるように言った。

 杉岡は、一〇オンス・タンブラーを出すと、ハンドメジャーの練習を始めた。碑と異なりまだ完全に身体になじんでいない技術を、確実に習得しようとする。杉岡の良い面であると碑は思った。

 その日は本当に暇な日で、客が入って来る気配がなかった。碑はずっと本を読んで過ごし、杉岡もつられるようにカウンターの中で酒関連の本を読んでいた。

 碑も杉岡も、暇を潰すことばかりで、いつの間にか二二時を過ぎた頃であった。

 やっと重たい扉が開かれた

「いらっしゃいませ」

 声を上げた碑は、思わず椅子から立ち上がった。

 そこにはやせ型の長身の男が立っていた。

「もしかして、鈴村さんじゃないですか」

「はは、こんなに変わったのに覚えているのだ」

 鈴村は少しこけた頬を緩めた。釣られるように碑は笑顔を見せ

「こちらへどうぞ」

 とカウンターの真ん中の席の椅子を引いた。鈴村は遠慮なく、席へと座った。そこへ杉岡がおしぼりを出した。

「ありがとう」

 鈴村は笑顔を返した。

「鈴村さん、久しぶりですね。お元気でしたか」

 碑がカウンターの中へと入り、鈴村へと尋ねた。鈴村はおしぼりを手にして答えた。

「元気ねぇ、こんなにやせちゃったけれど、まあまあなのかな。

とりあえず注文をしようか」

 鈴村は記憶をたどるように、少し上目使いで考えてから

「テキサス・フィズかな」 

 とカクテルを注文した。

「かしこまりました」

 碑はビフィーター・ジン、オレンジ・ジュース、粉糖、ソーダを準備した。杉岡はレシピを覚えていなかったが、ソーダが出てきたので、迷わずにコリンズ・グラスを出した。

 シェイカーの中に材料を入れ、碑はカクテルを作りはじめた。

「碑さんのシェイクを見るのも久しぶりだなぁ」

 懐かしそうに鈴村は言った。実際に何年顔を見ていないのだろう。碑は考えるが、思いつく年数は出てこなかった。

「一〇年振りくらいかな。仕事で海外に行ったのがそれくらいだったからね。

 日本に帰ってきたのも二年前か……」

 鈴村が懐かしむように店内を見回しながら言った。

「そうでしたか」

 碑はカクテルを提供しながら答えた。

 鈴村はコリンズ・グラスを手にすると、カクテルを眺めてからしみじみと言葉を出した。

「いいねぇ。こういう色のあるカクテルは」

色々なカクテルを飲む客ではあるが、オレンジ・ジュースなどを使ったカクテルは確かに好きであったと碑は記憶していた。

 カクテルを口に含み、鈴村は喉を鳴らして飲み込んだ。

「うんうん」

 自分に言い聞かせるように鈴村はその味を楽しんでいるようであった。

「そういえば鈴村さん、最近葉巻はやっていますか」

 碑はそう言いながら、チンチャレロのトルペディトスへと火を点けた。

「チンチャレロか、懐かしいですね」

 碑の指の間にあるチンチャレロの水色の帯を見て、杉岡は嬉しそうに笑顔を見せ、言葉を続けた。

「日本に帰ってきてからは吸ってなんだよね」

「そうなのですか、あんなに好きだったのに」

 碑に言われ、鈴村は首を数回縦に振った。

「そうだなぁ、昔はかなり吸っていましたからね。葉巻だけじゃなく、煙草も……。

 もう吸わなくなっちゃったなぁ」

 鈴村は少しだけ悲しい表情を見せた。だがそれを隠すように、テキサス・フィズを一気に飲み干した。

「そういえば、このレコードはルイ・アームストロングかぁ」

 壁にかかっているジャケットを見て、鈴村は嬉しそうな表情を見せた。

「そういえばこういう賑やかなのが好きでしたよね」

「そう、しんみりしているのは苦手だからね。マスター、聖者の行進でもかけてよ」

「かしこまりました」

 碑はレコードの溝を確認して、頭出しをした。賑やかな楽曲が店内に響いた。

「そう。こういうのがいいね」

 鈴村は嬉しそうな表情を見せ、杉岡を見た。

「そういえばマスター、従業員を雇ったの」

 と過去に見た店と違う点を指摘した。杉村は自分の存在を認識してくれた杉岡に軽く会釈をした。

「勉強に来ている杉岡です。

週一ですが、もしもまた会う機会があったら、よろしくお願いします」

 碑は改めて杉岡を紹介した。それに即されるように杉岡は再び頭を下げた。

「そっか、ある意味暇な店だから勉強にはもってこいかもなぁ」

 鈴村の言葉を聞いて、今日の暇さは勉強どころではなかったと、逆に杉岡は思った。

「じゃあ、彼にジントニックでも作ってもらおうかな」

「かしこまりました」

 杉岡は注文を受け、ビフィーター・ジンを冷蔵庫から出し、コリンズ・グラスを棚から準備した。その間に碑はライムの準備と、トニックウォーターを取り出した。

 杉岡はライムを絞り、グラスの中へと入れ、ジン、トニックウォーターをグラスの中へと注いでいく。その様を鈴村はじっと見ていた。

 バースプーンが抜かれたコリンズ・グラスは鈴村の前に出された。

 鈴村は何も言わずに、ジントニックを口腔へと流し込んだ。

「いかがでしょう」

 昔からきている客であれば、カクテルの評価をしてもらえる。そう思い杉岡は判断を仰いだ。

「うんうん」

 先ほどと同じような反応を鈴村は見せ、特に良いとも悪いとも言わなかった。

「カクテル自体久しぶりだからなぁ」

 杉岡はそう言われて、特に反応のしようがなかった。

「そうだ。シナトラがいいなぁ」

 鈴村の音楽のリクエストに碑は答えた。鈴村はしみじみと音楽を聴きながら、特に何も発せずにジントニックを飲み終えた。

「さて、最後にジャックローズでももらおうかな」

 杉岡が準備をしたモラン・セレクションを使い、ライム・ジュース、グレナデン・シロップがシェイカーに入れられ、作られた液体の入ったカクテル・グラスが鈴村の前へと出された。

「こういう色のカクテルがいいよね」

 先ほどのテキサス・フィズもそうだが、やはり色付きのカクテルが好きだったと、碑は納得をした。

「ショートは冷えがなくなる前に飲まないとね」

 そんな事を言いながら、鈴村はあっさりとカクテルを飲み終えた。

「はあ、良かった」

 痩せこけた頬に笑みを持たせるように、鈴村は落ち着いたように大きく息を吐いた。

「楽しんでもらえたのならば良かったです」

「いや久しぶりに碑さんの店に来られて良かったですよ。

 正直もう舌がやられちゃって、味がわからなくてね。

 ショート・カクテルなんかだと痺れちゃうしね」

 鈴村は首を縦に数回振りながら、納得するような表情を見せた。

「舌が痺れるって……」

 碑は意図がわからずに聞き返した。

「二年前に日本に帰ってきたのは、癌だったからなのだよね。

 今まで手術とかして、何とか生きてきたのだけれども、もう余命一か月って言われてね」

 碑は思わず表情を無くしてしまった。確か鈴村の年齢は自分と変わらないはずであると思い返したので、驚きは尚更であった。

「今日はさ、病院を抜け出してきちゃったのだよね。

 面倒だから携帯の電源も切っちゃったし」

 鈴村はいたずらな笑顔を見せたが、その表情には癌という事を告げられたからか、影があるようにも思えた。

「でも、碑さんのカクテルを飲めて良かった」

 鈴村は立ち上がると会計をしてくれと頼んだ。

碑は会計伝票と共に、チンチャレロ、トルペディトスを差し出した。

「吸えないかもしれないですが、良かったらお持ちください」

 そして深々と頭を下げた。

「ありがとう」

 鈴村は、葉巻を手に、笑顔を見せ、振り返ることなく店を出て行った。

 

「杉岡、ジャックローズを作ってくれ」

 ルイ・アームストロングのレコードをかけると、先ほど鈴村の座っていた席へ腰をかけて、碑はカクテルを頼んだ。

「わかりました」

 杉岡はカクテルを作ると、碑の前へと差し出した。

 ちょうど良く、聖者の行進が流れ始めた。

「申し訳ない、ちょっと音量を大きくしてくれ」

 碑に言われ、いつにない音量で、音楽が店内へと流れた。

「杉岡、この曲って、葬式の時の曲なのだ。賑やかに故人を送るような。

 鈴村さんにはピッタリだな」

 思ってもいない碑の言葉に杉岡は、首を縦に振る事しかできなかった。

 碑は、そっとジャックローズへと口をつけた。

「散る桜、残る桜も散る桜……ってか」

 思わず碑の呟いた言葉を、杉岡は何気なく耳にした。

 

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