二〇、そぐわない
スコット・ハミルトンの軽快なスインギング・ヤング・スコットがかかっている店内には、早い時間から珍しく客が入っていた。
一番奥の席へと座る、若く見える二人の女たちは、あまりバーに来た事はないと言うが、杉岡が色々なカクテルがある事や、ある程度の好みを言えば即興でカクテルを作ってくれるという言葉に、何を飲もうか迷っている感じであった。
「そういえば、もうすぐ桜の時期ですよね。
桜のお酒ってあるのですか」
髪の長い女が杉岡に声をかけた。もう一人の女もその言葉に何かを思いついたかのように声を上げた。
「花を使ったお酒ってあるのかな」
眼鏡をかけた女が疑問を投げかけた。
「ありますよ。桜の他にも、バラ、スミレ、エルダーフラワー、ヨモギもあったような気が……」
杉岡は頭の中で、バックバーに置かれている酒の記憶を引っ張り出した。
「私は桜がいい」
初志貫徹、髪の長い女が言うと、眼鏡の女も続いた。
「私はスミレがいいかな」
それを聞いていた碑が、二つのリキュールを作業台の前へと出した。二人はその酒瓶に目を取られた。
「ロングにしますか、それともショートに」
「えっ、ロングとかショートとか分からないのですが……」
「カクテル・グラスに入っているものがショート、このような長いグラスに氷を入れて提供するものがロングです」
二人の疑問に、杉岡は実際にグラスを出して、丁寧に説明をした。
女たちは少し思案してから、眼鏡の女はロングで、髪の長い女はショートを注文した。
杉岡は先ほど説明で出したグラスを作業台へと移した。その間に碑は氷を取り出し、グラスを冷やしはじめた。
そしてシェイカーを二つ用意した碑は、次々と材料を準備していった。
杉岡は氷を拭ったカクテル・グラスを髪の長い女の前へと置いた。
「杉岡これを」
ジファールのパルフェ・タムール、レモン・ジュース、粉糖、ソーダを渡され、杉岡は作るカクテルが特定できた。
碑は、ドーバーの桜、トロピカル・ヨーグルト・リキュール、グレープフルーツ・ジュースをシェイカーへ入れ、振り始めた。杉岡もそれに続くようにシェイカーを振った。
碑が作った白系ピンクのカクテルが髪の長い女の前にあるグラスに注がれた。
杉岡はシェイクした紫色の液体にソーダを入れ、煽るようにかき混ぜてから眼鏡の女の前へと出した。
「バイオレット・フィズです」
「綺麗」
二人はほぼ同じタイミングで声を上げた。そしてグラスを持ち、口元へと運んだ。
「おいしい」
これまた同時であった。
そんなタイミングの中、神代が店内へと入ってきた。奥に客がいる事に気が付き、定位置の奥から三番目の席をさけ、真ん中の席へと座った。
「いらっしゃいませ」
碑がおしぼりを提供すると、神代はギムレットを頼んだ。碑は材料を作業台の前へと出すとカクテルを作り、神代の前へと出した。神代は何も言わずに、カクテルへと口をつけた。その表情は、ほっと一息をついた安堵のようにも見えた。
そんな落ち着いた空間に、二名の男が入ってきた。早い時間でありながらも、もう結構飲んでいるようである。
「おお、こんな場所にバーがあったんだ」
「そうですね。繁華街から外れているから、まさかとは思いましたけれどね」
大きな声を店の中に響かせながら、男たちは入口から一番近い席へと座った。
「いらっしゃいませ」
碑はおしぼりを二人へと出した。酔っているからなのか、少し乱暴におしぼりを取ると、二人は顔を拭き始めた。それを見て、碑はあまり良い顔をしなかった。
「俺はハイボール」
「俺も」
男たちはまたもや店内に響き渡るような大きな声で注文をした。そんなに声を張り上げなくても、こんな小さな店であれば聞こえるのに……誰もが思うような気持ちであった。
「かしこまりました」
碑は一〇オンス・タンブラーを準備して、氷を入れた。バックバーからディワーズの一二年を取り、丁寧にハイボールを作り、男たちへと差し出した。
杉岡はいつもならば銘柄を聞くはずなのに……と疑問を持つが、女たちとの会話が途切れていなかったので、その意図を確認することはなかった。
「それにしても部長、泣かなかったですね」
「まあ、退陣だからな。嘱託でいく会社も決まっているみたいだから、どうでも良かったんじゃないのか」
「そうですかね。でもこれで部長の椅子を狙いやすくなりましたね」
「まあな。今回は俺じゃなかったけれど、次回くらいだろうな」
男たちは大きな声で会話をし、ハイボールをグビグビと飲んだ。その後も、会社の話をしているが、相変わらず大きい声はそのままである。それを気にしてなのか、神代と話をしながらも碑の視線は、チラチラと泳いでいた。
会社の誰かを莫迦にしたような発言の後に、男たちは大きな声で笑った。その笑いは逆側にいる女の客たちも、驚くようなものであった。
碑は仕方ないというような、少しだけ諦める表情を漂わせ、男たちの前へと歩んだ。
「すみません、申し訳ないのですが、他の客もいますので、もう少し声を小さくしていただけますか」
碑の言葉に男たちの表情が変わった。
「何だよ、酒を飲むところなのだろう。大きな声出して何が悪いっていうんだ」
開き直ったかのように男は語気を強めて言った。
「そうだよ。酒を飲んだら声が大きくなるのは仕方がないだろう」
もう一人の男も強く続いた。碑はなるべく表情を変えずに答えた。
「バーは共有の空間です。いきなり大きな声を上げられたりすると、他の人たちの迷惑になりますので」
「何だよ。俺たちが迷惑だっていうのか」
上司と思われる客のその言葉は、今にも腰を持ち上げてしまいそうにも思えた。冷静に碑に諭されるように言われ、少し気にくわないようであった。
「そうですね、今のままでは迷惑になると思います。
飲食店ですので、騒ぐ場所ではなく、酒を飲む場所ですから」
「何だと」
男の声が喧嘩腰になってきているので、二人の女たちは完全に会話を止めて、関わらないように静かになってしまった。
「先ほども言いましたように、共有の空間ですから、もう少し声を小さくしていただかないと……
静かに酒を飲もうとしている人もいらっしゃるので、迷惑になると思います」
碑は引く気はなかった。自分の店の雰囲気は自分で守る。それができなければ、何をしても良く、ただ金を取るだけの店になってしまう。
あくまでも碑は、酒を楽しんでもらえるバーにしたいだけなのである。ただ騒いで金を落とせばよいという店ではなかった。
「ふざけるな」
一人の客が椅子を蹴るように立ち上がった。
「いい加減にしてくれないか」
思わず声を出したのは神代であった。男の視線は碑から神代へと向けられた。
「こっちは仕事を終えて、ゆっくり酒を飲みに来ているのだ。
申し訳ないが、騒ぐのならばそういう店に行ってもらえないかな」
神代はそれだけを言うと、ギムレットを一気に飲み干した。
「お前もそんな事をいうのか」
更に男は声を荒げた。杉岡も目の前にいる客同様に、緊張して、碑がどのようにこの場を抑えるのか、その光景を見守った。
「申し訳ないのですが、これでお引き取り願えませんか」
碑は二人の男の前に、会計の金額の書かれた紙を出した。
「他の方に迷惑をかける方には、退店をお願いしております」
男たちは強い視線で碑を見た。しかし碑は表情を変えずに、無言で二人の前に立ちつくした。
しばしの無言の状態が続く中で、男たちは、何ができる訳でもなく、仕方なく金を払った。そして店を出る時に
「最低の店だな。口コミに書いてやるよ」
と捨て台詞を吐いていった。
「はい、お待ちしております」
碑はその背中に軽く頭を下げた。杉岡は男たちの残骸をすぐに片づけた。彼らが使ったグラスなどが残っていると嫌な気持ちになりそうだったからである。
女たちは何事もなかったことに少しほっとしたのか、安堵の表情を見せた。
「マスター、シードルはあるっけ」
神代が碑に声をかけた。碑はいつもの優しい表情に戻って答えた。
「今ならば群馬のフキワレ・シードルがありますけれど」
そう言うと冷蔵庫から七五〇ミリの開栓されていないボトルを取り出した。
「それはボトルでもいいのかい」
「はい、一杯でもボトルでもどちらでもかまいませんよ」
網代はそう聞くと、ではボトルでと注文をした。
「マスター、よければ他の人にも」
「かしこまりました」
碑はそう答える、女たちの前へと歩んだ。
「あちらの方が、良ければご一緒にと言われていますが、いかがいたしますか。
ちなみのシードルという物は、林檎の醸造酒です」
女たちは酒を勧められたことと、知らない酒ということで、驚くような表情を見せた。
「醸造酒ですか」
「はい、林檎を発酵させたものです。まあ林檎で作ったスパークリングワインのようなものです」
その説明を聞いて興味を持ったのか、二人は目を輝かせるようであった。
「飲んでみたいです」
「いいのですか」
眼鏡の女が、横に並ぶ神代に声をかけた。
「もしも興味があれば」
杉岡が注いだシードルを飲みながら神代は柔らかい表情で答えた。
「いただきます」
二人の返事は一緒であった。杉岡はその言葉を聞いて、すぐにフルート・シャンパン・グラスを出し、シードルを注ぎ、二人に提供した。
「綺麗な泡が立っている」
「香りもいいね」
二人はマジマジとグラスを見てから、それを手にした。
「いただきます」
「ごちそうになります」
二人の声に、神代は軽くグラスを上げて応えた。
「今、マスターは二人に、俺からの酒を受けるかどうかと聞いてくれたが、聞かずにいきなり、あちらの方から……とか言って出す店もあるらしいけれど、場合によっては近づいていくための口実を作ろうとする奴もいるから、できればマスターが聞いてくれて、あまり人の酒をもらうのが良くなさそうな感じならば、断ることも大切だよ」
神代はそれだけを言うと、再びグラスへと口をつけた。
「この人は大丈夫です。うちの常連だし、下手なことはしないだろうから。
でも酒を奢ったのだから、この後飲みに行こうなんていう人もいない訳ではないので、気をつけてくださいね」
碑が補足をするように言った。
「それにしても、どうして酒を飲んで大声を出したりするのかね。
気が触れているとしか思わんね」
神代が思い出し、迷惑そうな表情をして碑に声をかけた。
「そうですね。飲んだら気が大きくなるなんて、みっともないですよね。
酒を飲んで騒ぐことが当たり前だったら、一流ホテルのフレンチは乱痴気騒ぎになっちゃいますよね」
碑は思わず先ほどの客を思い出し、嫌そうな表情を見せた。
「声が大きくなるのは、耳が遠い人だけで十分だ」
神代の言葉に思わず杉岡は頷いた。
「シードルってはじめてですけれど、おいしいですね」
髪の長い女が間隙を縫ってしみじみと言った。神代は納得するように頷いた。
「そうですね。うちも今日はたまたま置いてありましたが、シードルを常備している店は少ないですね。もしも色々なシードルを飲んでみたいのであれば、都内なんかにはあると思うので、一度調べてみるといいですよ」
「はい、シードルだけじゃなくて、色々なバーを見てみたいと思います」
碑の言葉に笑顔を見せ、髪の長い女は、シードルを飲み干した。
「私は、他のバーに行って、バイオレット・フィズをまた飲んでみたいな」
「それは良い考えだと思います。
バーによっても使っているリキュールが異なることがありますから、バーテンダーの個性がそこでも出ます。
自分の基準になるカクテルを決めて、行ったお店で飲んで、そこの店が自分の好みに合うか合わないかを判断することも良いと思いますよ」
「そっか、そういう使い方もあるんだ」
女たちは碑の説明を耳にして、他のバーに行く楽しみが増えたようであった。
神代は、そんな賑やかな二人を見て、騒がしいとは大違いだと思い、シードルを飲み干した。
杉岡は、客の帰った店内で、グラスを拭いていた。
「マスター、今日みたいな客って、たまにいるのですか」
碑はカウンターの端で葉巻をふかしなが、ら杉岡の問いに答えた。
「そうだな。雰囲気がわからない客は、たまにいるかな」
「良い大人でしたよね」
「ああそうだな。でも大人っていうのは年齢じゃないからな。
どのように人生を考えて過ごしてきたか、それだけじゃないのか……。
酒は二つに分かれる。嗜好品と麻薬だ」
碑は自分もどこまでできているかはわからないが、そう考えていた。ただ薬物としての酒は飲むことはないと、それだけは確信できた。
「杉岡、帰る前に、神代さんが残りを飲んでいいって言っていたシードルでも飲むか」
碑は葉巻を灰皿に置いて、杉岡に声をかけた。
はい、と答えた杉岡は、フルート・シャンパン・グラスを二脚、棚から取り出した。