二、目指すカクテル
「よし」
杉岡は繁華街から外れている建物の、白い押戸の前で、緊張を吹き飛ばすように気合を入れた。
今日は【秘密の井戸】と名を打つバーでの初修行の日なのだ。カフェレストランのバーカウンターの中には入ったことがあるが、オーセンティックバーのカウンターの中へ入るのは、もちろん初めてである。
意を決し、杉岡は扉を開けた。店内の落とされた照明の中、マスターの碑はカウンターの一番奥の椅子に座り、電卓を叩きながら帳簿をいじっていた。
「おはようございます。今日からよろしくお願いいたします」
杉岡は開いた扉の方を見た碑に対して、大きな声で頭を下げた。碑は立ち上がり、笑顔を見せて答えた。
「こちらこそよろしく。ただこれからはそんな大きな声で入ってこなくてもいいよ。
どこかのスポーツクラブじゃないのだから」
「申し訳ないです」
落ち着いた口調で諭され、少しだけ消沈した声で杉岡は答えた。けれども想いは伝えられたと実感していた。
「まあ、とりあえず事務所で着替えてきな」
碑は事務所の鍵を手渡した。
「はい」
ウナギの寝床のような長いカウンターの奥にはトイレがあり、その横に倉庫兼事務所がある。杉岡は期待を胸に事務所の中へと入りこんだ。
小さな机の上にパソコンが一台。そして酒が入っていると思われるダース入りのダンボールが数十個積み重ねられている。それを見ているだけでも杉岡の気持ちは高揚した。
今までつけたことのない蝶ネクタイをつけ、着替えを済ませて杉岡は事務所をでた。
「着替え終わりました」
見た目はしっかりとしたバーテンダーである。まずはそれで十分だ。その見た目に合った技術はこれから学んでいけばいい。
杉岡は事務所の扉の鍵碑に返した。
「まあうちは客が来ない店だから、とりあえずカウンターの中を確認して、ゆっくり構えておきな」
それだけを言うと碑は、小気味良く電卓を叩き、事務作業を続けた。
杉岡はカウンターの中へと入った。否が応でも脈拍が上がったことを実感した。
コールドテーブルと呼ばれる冷凍冷蔵庫の扉を開け、中身を確認する。炭酸、トニックウォーターなどの炭酸飲料や、ジュース類、カクテル用に絞られたレモン・ジュースも小さな容器に入れられている。デコレーションに必要なオリーブやチェリー。冷凍スペースにはスピリッツと氷が入っている。他にも製氷機やシンクなどを確認するが、一番扱ったことのないものは、奥に鎮座するレコードであった。
一通りカウンターの中を杉岡が確認するのを見て、碑は声をかけた。
「さっきも言ったように、客がくるかどうかわからないから、とりあえずバックバーにある酒瓶を拭いておいてくれ。リキュール以外は乾拭きでいいから」
そしてコールドテーブルの上に置かれた雑布を指さした。
「わかりました」
杉岡はウイスキーの棚から一本一本ボトルを手に、せっせと拭き始めた。今まで見たことのないボトルが多くあり、それが何であるのか。杉岡は理解ができなかった。ただ新しい物に触れることができるという好奇心と新鮮さで笑顔が漏れた。
結構な数のボトルを拭いた時であった。白い扉が開かれた。
「いらっしゃいませ」
事務作業を終え、本を読んでいた碑が立ち上がり、来客に対して声をかけた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中で初めての客を迎え、杉岡は少し緊張した口調で碑に続いた。
「何だ、相変わらず暇だなぁ」
馴染みの客である神代はカウンターの奥から三番目の席へと腰を下ろした。そしていつもと店の雰囲気が異なることに気づき、碑に切り出した。
「何だ、マスターもいよいよ引退か」
「なんでそうなるんですか」
「だって、代替わりのために新人を入れたのだろう」
新人というのは、カウンターの中にいる杉岡を見ての事であった。杉岡は何をしたらいいのかわからずに、カウンターの中に入ってきた碑に気圧されるように、隅の方へと下がった。
「うちで修行をしたいというので、今日からきているのですよ。
まあつい先頃バーテンダースクールを卒業したばかりですので、まだ何もできないのでしょうが」
「へぇ、それでボトルを拭いていたのか」
「はい」
碑はおしぼりウォーマーから出したおしぼりを神代の前へと置いた。それと同時にコースターも準備した。神代はそのおしぼりを手に取りながら、バックバーを眺めた。
「さて、今日はどうしますか」
碑が尋ねると間髪入れずに、手を組んで神代は答えた。
「今日はカクテルの気分なのだよ。ダイキリでももらおうかな」
「かしこまりました」
碑はコールドテーブルの冷凍庫の中から、バカルディ・ホワイト・ラムと氷の入った容器を取り出し、冷蔵スペースからレモン・ジュース、そして作業台の下に置かれた粉糖を用意した。
ボトル棚の下にあるガラス扉の中からカクテル・グラスを取り出し、氷を入れ、軽くステアし、グラスをしっかりと冷やしてから、神代の前へ置かれたコースターの上へと空のグラスが置かれた。
シェイカーのボディの中に氷を入れ、水で一度すすいでから、作業台の上にそれを置いた。
ハンドメジャーで個々の材料が手際良くシェイカーの中へと注がれていく。そしてヘッドとトップを装着し、碑はシェイカーを振り始めた。上下に大きく、ストロークが長い碑のゆったりとした振りは、氷の一体感の音と共に、それほど回数が多くなく終わった。その光景を杉岡はマジマジと見つめていた。
トップの部分を外し、神代の前に置かれたカクテル・グラスへと、液体が注がれていく。躊躇することなく注がれたダイキリは、グラスの九分目に全て収まった。
「お待たせいたしました」
碑はカクテル・グラスを神代の前へと押し出した。
神代は嬉しそうな表情を浮かべて、それを手元へと引き、グラスを唇へとつけた。
喉が大きく動き、液体が流し込まれていく。
「ああ、これだよ。ちゃんとした酒を飲んでいるという実感……。
やっぱりバーじゃないとな」
「今日はどうされたのですか」
テンションの高い神代に、碑は尋ねた。神代はダイキリで再び喉を潤すと、口を開いた。
「会社の飲み会だったんだよ。うちの部の若い奴に店を選ばせたのだけど、安い居酒屋だったんだ。
そこの酒も料理もどうしようもなくてね、ただ出せばいいという感じで……。
それで締めはちゃんとした酒と思ったんだ」
「そうでしたか」
碑は納得するように頷いた。
「そんな事があったからという訳ではないけれど、やっぱりマスターのカクテルはいいよ」
更に飲まれたダイキリはもう半分と残っていなかった。
「あの、やはり安い店の物は駄目なのですか」
カウンターの端の方から声が聞こえた。杉岡であった。神代は杉岡へと視線を向けた。
「安い店が駄目という訳ではないよ。
しかしな、ただ物を出せばいいという従業員と、その物自体が納得できない」
「納得できないと言いますと」
杉岡は理解ができないのか、更に質問をぶつけた。神代はそんな杉岡に視線を送った。
「いいか、安いという事は値段相応ということだ。
つまり原価が安い。更に言えば、原価率も低いという事だ」
「原価率が低いとは」
杉岡はわからずに更に聞き返した。
「安い店は薄利多売という。
しかしながらそれは、料金的な利益が安いという事であって、一品などにおける利幅は大きい場合があるんだよ。だから安くても潰れない」
碑が割って入った。そこに神代が続く。
「だから安い材料しか使えないから、駄目だっていうんだ。
別にそこに慣れているとか、それくらいで言いと思っているならばそれでいいが、ただ安いだけで、何となく満足している奴が多い。
俺からしたら大した金額の差はないのだから、ちゃんとした物に金を払いたいというだけなのだ。
だから俺からしたら駄目というだけで、全てが悪いという訳ではない」
神代はダイキリを飲み干して、コースターごとカウンターの奥へと少し押し出した。
「次はXYZだな」
「かしこまりました」
碑は先ほどと同じようにカクテルを作る準備をしていく。バカルディ・ラムにエギュベルのホワイト・キュラソー、そしてレモン・ジュースをシェイカーへと入れ、独特のゆったりとしたシェイクを始めた。
「君、覚えておきな。どこでも良い物を出そうとしているわけではないという事を……。
そして良い物を知ってしまえば安い店に来なくなる客がいる。だから客を向上させようとはしない。
それでもいいという奴らがそこに行くのは、別に問題じゃない。だから君が安い店を駄目ではないと思う分には問題はないんだ」
そうこう言っているうちに、神代の前にはXYZが提供された。
神代はそのグラスを唇につけた。
碑は演奏の終わったレコードをジャケットにしまい、新しい一枚を取り出した。
そしてプレイヤーに乗せられた皿から、針が音を奏で出した。
ジェリー・マリガンのナイトライズだ。常夜灯が灯る街を模したジャケットが、カウンターの端にある壁に飾られた。
「XYZで飲み終わりにするなんて、俺も昔の感覚を引きずっているな」
神代はその一杯を飲み干すと、夜の街へと出た。最後の酒を飲んだので、このまま帰宅するという感覚なのであろう。碑はそう思っていた。
「マスター、僕は安い物でも、満足ができる物もあると思うのですが、どう思われますか」
杉岡は拭いたグラスを棚にしまうと、先ほどの神代との話で気になっていた事を、碑に尋ねた。碑はプレミアム・シガーではなく、安価で細目のキャンドルライトに火を灯した。
「それは個人の問題だから、どちらが良いとかそういう訳ではない。
今、私が吸っているキャンドルライトも、安価でありがらも、それなりの価値がある物と認識しているから吸っている。
ただ良く言われるコスト・パフォーマンスという言葉をちゃんと考えられるかどうかだけなのだろう」
杉岡は碑の言った言葉を考えながら思わずオウム返しをした。
「コスト・パフォーマンスですか」
「そう。コストは価格、パフォーマンスはそれに対する効果。
コストはわかりやすいが、それに対する効果は、対比ができる物を知っていないと、正確な価値を把握することができない。だからただ安価の物にいってしまい、先ほど神代さんが言っていたように、物を知っていれば駄目だと思うものが出てきてしまう」
「その人が持っている価値基準によって、物の見方が変わるという事なのですね」
「そう」
碑はそういうとカクテル・グラスを取り出し、シェイカーを出した。そしてダイキリを作ると、杉岡へとそれを勧めた。
「ダイキリって、こんな味でしたっけ」
杉岡は驚いた表情を見せた。
「ダイキリのレシピは、ライム又はレモンで作るからだろうな。うちはレモンだから、ライムで作る店と比べると果汁の主張が弱い。だからこそ、ラムとの一体感が大切になるのだ。ライムで作るとライムが活きるので、わかりやすい味になる」
「それだけで変わるのですね」
「そう、だからカクテルは面白い。そして新たな物を知って、はじめて物の価値を比較できるようになる」
杉岡は感心し、頷いた。
「酒の一滴は血の一滴。残さずに全部飲めよ」
碑はそう言うと、再びナイトライズのレコードに針を落とし、カウンターの端へと座った。
「価値基準を持っていなければ、正当な評価はできないかぁ」
杉岡はダイキリに再び口をつけた。
「駆け出しの頃は私も価値基準などなかったなぁ。
だから幾つもの店舗を回って、まずは同じカクテルを何杯も飲んだよ。店によって、バーテンダーによって味も違うってことを学んだ。
そのうち自分がこういう味のカクテルを作りたいって思うようになったものだ。
人は経験をしなければ、新たな物を知るという事をしなくなる。
守破離なんていう言葉は、その先にあるような物だな」
「守破離ですか」
杉岡は自らが知らない言葉を胸に刻んだ。
碑の吐き出す葉巻の煙が、宙へと舞った。それはナイトライズのジャケットのように、おぼろげな光を生んでいるようでもあった。
「マスター、僕も色々なバーを回って、ダイキリを飲んできます。
そしていつか自分が目指すダイキリの味を出せるようにしたいです」
「そうか、頑張れよ」
碑は、目の色を輝かせる杉岡を見て、少し頬を緩めて頷いた。
杉岡が帰った店内で、碑はカクテル・グラスを傾けていた。
ダイキリである。
三〇年以上前に、バーの世界に入った。その時にはじめて客に出したカクテルがダイキリであった。
最近はそれほどカクテルを飲まなくなってしまったが、たまに飲みたくなる時がある。それは神代と同じような、何となくの感覚なのであろうが、やはりそんな時があるからこそ、酒の世界を楽しめるのだと思えてしまう。
飲みたい気分になった時に飲めばいい。杉岡が飲んでいたダイキリを、杉岡が作るようになったら、どのようなカクテルになるのであろうか……。
それはまだまだ先の話なのであろうが、碑はそんな日が来ることを楽しみに、再びダイキリに口をつけた。