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一九、カクテル、解禁

 三月に入り、杉岡は一気に温かさが増してきた気がしていた。それは深夜、帰る服装にも表れていた。     それを見越してか来た時には上着が厚手の物から少しだけ変化していた。

 バー秘密の井戸の店内にはアート・ペッパーのアマング・フレンズが軽快なリズムを奏でていた。

 いつものようにカウンターの端に座る碑は、葉巻をふかしながら帳簿をいじっていた。

 なかなか来客のないことに、杉岡も慣れてきているのか、シェイクの練習をしながら来客を待っていた。

「そういえば杉岡は、あちこちの店でダイキリを飲むと言っていたが、進んでいるのか」

 帳簿を事務所へしまってきた碑は、椅子に座ることなくカウンター越しに尋ねた。杉岡はシェイクを止め、シェイカーの中の氷を捨ててからシンクの中に片づけて答えた。

「時間を見つけながらなので、なかなか回れないですが、二〇人くらいのバーテンダーの方のダイキリは飲みました」

「そうか、それで自分のダイキリはこうしたいという味のイメージはできたのか」

「はい」

 杉岡は自信を持って言い切った。あとはその味にどうやって近づけるかだけである。そのイメージに近いカクテルができるようになれば、他の問題は無くなる可能性は高い。一定のシェイクが出来さえすれば、あとはどのカクテルを作ろうとしても、レシピを覚えればいいだけである。

 よく物によって振り方を変えるバーテンダーがいるが、最良の振り方ができていれば、それを変える必要はないと碑は考えていたからである。

「そうか、じゃあ俺にダイキリをくれ」

 碑はそう言うといつもの端の席へと座った。突然言われた事とはいえ、杉岡は普通に注文をされた物と考えれば、焦る必要はなかった。

「かしこまりました」

 軽く礼をして、杉岡は材料をカウンターの作業台の前へと出した。

 カクテル・グラスに氷を入れて冷やし、バカルディ・ドライ、レモン・ジュース、砂糖をシェイカーへ入れた。

 碑の振り方とは異なるが、小気味の良い氷の音が店内へと響いた。

「お待たせしました」

 碑の前に、ダイキリが提供された。

 碑は指の背でグラスの冷えを確認してから、グラスを口元へと運んだ。

碑の喉が鳴るのと同じタイミングで、杉岡の喉も緊張からか鳴った。

 目をつむり、口の中に残る余韻まで碑は味わった。

 杉岡は直立不動で碑の言葉を待った。

 その瞬間に、白い扉が開いた。

「いらっしゃいませ」

 杉岡の言葉に、神代は軽く手を挙げ、奥から三番目の定位置へと座った。

「珍しいな、マスターがこんな時間からカウンターでカクテルを飲んでいるなんて」

 神代の言葉に碑は椅子に座ったまま笑顔を返した。

「まあ、そんな時もありますよ」

 碑はそれだけを言うと、飲んでいたカクテル・グラスを神代へと流した。

 神代は何も言わずにグラスを受け取ると、それを口元へと運んだ。どのような答えが返ってくるか、杉岡は思わず緊張した。

「これってマスターが作ったの」

 神代からハテナマークの付いた言葉が飛んだ。杉岡は更に肩に力が入った。

「わかりますか」

「わかるっていうか、マスターのとはちょっと違う感じがあるなぁ。

 でも悪くはないよ。下手なバーテンダーモドキよりはおいしいかもな」

 神代は視線を思わず杉岡へと向けた。誰が作ったのかは理解していると言った表情である。

「私の作る物はもう少し丸くなっていますが、これはこれで切れがあっていいと思います。

 カクテルとしては充分まとまりもあるかと」

 そう言うと碑は、神代から帰ってきたカクテルを一口飲んだ。

「そうだな、一応合格って感じか」

「はい」

 神代の合格という言葉もありがたかったが、その後に同調する碑の言葉は更に嬉しさを増した。思わず杉岡は頭を下げた。

「ありがとうございます」

 その笑顔は晴れやかで、ある種誇らしげにも思えた。

カウンターの中に碑も入り、神代に注文を即した。

「いきなりダイキリを飲んでしまったからな。何にしよう」

 プランを考えてきたかもしれないが、神代の頭の中からはそれは消去されていた。

 碑は何となく神代の事を理解しているのか、急がずに言葉を待った。

「マスター、ちょっと杉岡に作ってもらってもいいかい」

 今まで杉岡が作ることができる酒は、水割りやハイボール、それに一部のビルドのカクテルであった。それを以外は客に出すことを許していなかったが、常連である神代が言うのであれば異論はなかった。客がバーテンダーを育てる。そんな事は往々にしてあると碑は理解しているからであった。

「どうぞ、別に誰もいない店ですから、好きにやってもらっていいですよ」

 碑は自分の出番はないと、カウンターを出て、神代と横並びに座った。

「じゃあバンブーでも作ってもらおうかな」

「バンブーですか」

 話の流れからシェイクのカクテルを注文されると考えていた杉岡は拍子抜けした思いであたった。しかしながらシェイクに負けず劣らず、ステアのカクテルが難しいことも十分理解しているつもりであった。

「どうする。できないか」

 神代は挑発するように、笑みを浮かべた。杉岡は真剣な表情で答えた。

「バンブーでよろしいですね」

「ああ」

 神代は頷いた。

 カクテル・グラスが出され、サンチェス・ロマテのフィノと、ドランのドライ・ベルモットが姿を現した。

 ミキシング・グラスに氷を入れ、水で氷を一度洗ってからそれを流した。

 冷やされたカクテル・グラスが神代の前へと置かれた。

 ステアの練習も散々やってきた。杉岡は自信を持って、サンチェス・ロマテの瓶を手にした。ハンドメジャーも最近では慣れてきていた。

 続いて入れられたドランのベルモットも碑が見る限りでは、規定量である。

 杉岡の手に持たれたバースプーンが、すっとミキシング・グラスの中へと入った。そこから外に力を向け、クルクルと回り始めた。

 軽快に回るバースプーンを神代は期待をするように見ていた。

 何回回ったかわからないが、バースプーンが抜かれても、慣性の力で液体はすぐに止まることはなかった。

 ミキシング・グラスから、カクテル・グラスへと透明に近い液体が全て注がれた。

「お待たせいたしました」

 目の前に出されたグラスを持ち、神代は口腔の中へと流し込んだ。そして目を閉じてゆっくりと味わった。

「いかがでしょう」

 杉岡が聞くと、神代は無言でカクテル・グラスを碑の方へと移した。碑は何も言わずにグラスを口元へと運んだ。

 杉岡は自分の力を信じた。今までやってきたことができていれば、それなりのカクテルはできているはずである。空いている時間に散々、碑に指導を受けてきたのである。だが心の片隅では、不安がないとは言えなかった。

 碑は飲み終えたカクテル・グラスを神代へと返した。神代はすぐさまそのカクテルと口をつけた。

「どうした、そんな真面目な顔をして」

「いや、どうだったか感想を……」

 杉岡は茶化すように言う神代に二たび尋ねた。

「いいか杉岡、お前らバーテンダーは、カクテルができて当たり前、だから作ったら当たり前の顔をしていろ」

 神代は再びバンブーを飲んだ。

「バーテンダーなのだろう。うまい物ができて当たり前だろう」

 神代は再び繰り返した。碑は思わず笑ってしまった。神代の意図は杉岡には伝わらないだろうなと思ったからだ。

「杉岡、神代さんはお前の事を今、何て言った」

「私の事を、ですか」

 杉岡は考えるが、思い当たる言葉が見つからなかった。

「こいつは本当に鈍いな。バーテンダーなら話の勘も良くならないとな」

 神代は一気にバンブーを飲み干した。

「話の勘ですか」

「そう、相手の意図を読み取る力だよ」

「はい」

 杉岡は何と答えたらよいかわからずに、返事だけをした。神代はからかうような笑顔を見せた。

「酒を作れて当たり前、バーテンダーならば、ひょうひょうとうまい物を作ればいい」

 碑が言った時に、何となく杉岡は自分が何て呼ばれたかに気が付いた。それは表情で読み取れるようであった。

「もう見習いじゃあないって事だ」

 神代の言葉に、思わず杉岡は頬を緩めた。

「次はスティンガーでももらうか」

「はい」

 杉岡は満面の笑みで答えた。

 そしてカクテル・グラスを準備するが、スティンガーのレシピが頭に入っていないのか、次に何を準備するか迷っているようであった。

 碑は席を立つとカウンターの中へと入り、カミュのVSOPとヴォルフベルジェールのミント・リキュールを作業台の前へと出した。

「三分の二と三分の一、シェイクだ」

 それだけを言うと、客席へと戻って行った。

 杉岡はシェイカーを準備して、ハンドメジャーで材料を入れ、カクテルを作り始めた。

 そして透明度のある琥珀色の液体を、カクテル・グラスへと注ぎ、神代の前へと差し出した。

「お待たせいたしました」

 神代はグラスへ口をつけると、満足そうな表情を見せた。

「じゃあ俺はブランデーサワーをもらうか」

 続くように碑が注文をした。

「おっ、マスターも飲むのか」

「はい」

「そうか、じゃあこれは俺の奢りだ」

「ありがとうございます」

 碑は神代の好意を素直に受けた。

 サワー・グラスにシェイカーからカクテルが注がれ、碑の前に出された。

碑はそれを口にし、軽く頷き、神代へと進めた。神代も飲んでから穏やかな笑みを浮かべ、グラスを碑に返した。

「新たなバーテンダーの誕生に」

 神代はスティンガーを手にした。碑もそれに倣うようにグラスを掲げ、カクテルを飲んだ。

 碑はカウンターの中へと入り、奥に置かれたレコードを取り換えた。

 マイルス・デイヴィスのバース・オブ・クールの陽気な音楽が、店内の雰囲気を変えた。

 神代と碑はカウンターに横並びで、再びカクテルを楽しんだ。



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