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一八、祭の後

 碑はいつものようにカウンターの端の席に座っていた。デューク・エリントンのA列車で行こうが景気よくかかっている。そんな中、葉巻の煙が宙に舞っていた。

 日曜日の秘密の井戸はいつにも増して、客が来る気配がないようであった。

企業小説を手に、碑は何度も読み返した文章に再び目を落とした。企業小説というジャンルが好きでありながらも、営業は下手という、典型的なタイプが碑であった。

 ただ自らのやりたいことを曲げてまで営業すればよいという考えではなかった。せっかく独立したのだから、自らがやりたいようにやる。それで継続が難しければ辞めればよいだけ……碑は当初からそのような考えでいた。それでも今まで続いているのだから、それはそれでよしという感じであった。

 白い扉が開き、冷気が店内へと流れ込んできた。入ってきた客は雪乃と杉岡という珍しい組み合わせであった。

「いらっしゃい」

 碑は席を立ち、カウンターの中へと入った。そして席に着いた二人におしぼりを出した。

「先週のウイスキー祭、楽しかったです」

 開口一番、雪乃は少し飲んでいるのか、興奮しているように言った。そして杉岡に同意を求める。

「そうですね、楽しかったですね。

雪乃さんは楽しすぎて、かなり酔っていましたけれどね」

 杉岡が苦笑するように言った。

「しょうがないじゃん、あんなにウイスキーがいっぱいあって、どれを飲もうか、目移りしちゃうんだから」

 雪乃は笑顔で振り返るように言った。

「それでも、片っ端からという感じだったじゃないですか」

「まあ、迷惑をかけずに、楽しかったのならいいじゃないか」

 碑が間に入った。

「楽しかったですよ。でも帰りの電車の中で、雪乃さん爆睡でしたからね」

「なに、それは杉岡に迷惑をかけたってこと」

「迷惑ってほどではないですけど」

 杉岡は雪乃に押されっぱなしのようであった。

「まあまあ、とりあえず何を飲む」

 碑はこのまま続いても、と思い二人に注文を促した。

「イチローズ、ホワイトのハイボールを」

 二人の声はほぼ一緒であった。碑は頷くとグラスを出し、いつものように丁寧にハイボールを作って、二人へと出した。

 二人は目配せをして、グラスを口へとつけた。いつものようにしっかりと作られた酒を飲んだ。口の中にウイスキーの香りが広がって落ち着いたのか、小さなため息が漏れた。

「やっぱりマスターが作るハイボールはおいしいですね」 

 杉岡が感心するように言った。雪乃もその通りといわんばかりに納得の笑顔を見せた。

「それで色々な酒を飲んできたのか」

 碑はカウンターの端へと移動し、葉巻に火を点しながら二人に聞いた。

「はい、イチローズ・モルトの今まで飲んだことのない物を飲んできました」

「ブレンダーの方もいらしたので、色々な話を聞くことができました」

 二人が本当に楽しそうに話すので、碑は更に話を進めた。

「そうか、他には何かあったのか」

「はい、国内の蒸留所も多かったので、試した物は多かったです。けれどもやはりイチローズ・モルトのあの変なアルコール臭を感じさせない商品を飲んでしまうと、他の蒸留所も美味しいのは勿論なのですが、ちょっと後味が気になりました」

「確かに、若いから仕方がないのでしょうが、ちょっとスピリッツ寄りの感じを受けました」

 杉岡に続き、雪乃が思い出すように言った。

「そうか、確かに日本は熟成の技術は大手でも下手に感じる時があるからな。

 でも焼酎慣れしている日本人は、あのアルコール感は当たり前だと思っている節もあるから、人によっては飲みやすいなんて言う人もいるくらいだからな」

 碑はそう言って、宙に煙を飛ばした。

「ニュー・ボーンだから仕方ないのでしょうが……」

 杉岡が自らを納得させるように言い、ハイボールを口に含んだ。

「ニュー・ボーンか、元々はウイスキーの世界にない言葉だったからな。

 それに日本固有の呼び方だしな」

 思わず碑は言葉を吐いた。そして何となく自分を納得させるためか、首を数回縦に振った。

「前にもそんな話をしてくれましたよね」

「そうだったっけ、まあイチローズ・モルトはニュー・ボーンの頃でもあまり嫌なアルコール感はなかったけれどな」

「そうだたったのですね。だから今のカスク・ストレングスの商品でも後味が違う感じなのですね」

 雪乃が感心するように言い、ハイボールを口にした。そして何かを思い出したような表情を隣に向けた。

「そうだ、杉岡、早く出しなよ」

「いきなり振らないでくださいよ」

 雪乃に急かされ、杉岡は鞄から箱を出した。

「マスター、いつものお礼です」

 杉岡は頭をカウンターに着けるようにして、箱をカウンターの奥に滑らせた。碑はその箱を掴むことなくラベルを確認した。

「これって、ウイスキー祭の限定ボトルじゃないか」

「はい、抽選で当たって、買う事ができました」

 杉岡が嬉しそうな表情を見せた。

「良かったじゃないか、それでお礼ってなんだ」

「いつも勉強をさせてもらっているお礼です。良ければお納めください」

 それを聞いた碑は、葉巻を灰皿へと置いてカウンターの中へと入った。そしてショット・グラスを三つ出し、カウンターへと並べた。

 そして箱からおもむろに出したボトルの封を切りラベルに目を向けた。

「限定ボトルか、しかもモルトじゃないか」

「そうなんですよ、私のやった後に杉岡が当たりを引いたんですよ」

 当てたのは杉岡であるが、雪乃は興奮して言った。

「じゃあ雪乃ははずれたのか」

「そうです」

 ただ雪乃は仕方がないと割り切っているのか、別段表情を変えることはなかった。

 その間に、碑はウイスキーをグラスへと注ぎ、三人の前に出した。

「せっかく当たったのに、飲んだことがないのじゃ面白くないだろう」

 そう言うと、あっさりと碑はショット・グラスへと口をつけた。二人も追うようにグラスへと手を伸ばした。

「おいしい、イチローズ・モルト独特の香りが広がる」

「全く度数を感じさせないですね」

 二人とも驚きの表情を見せた。碑は葉巻を吸ってから、二口目を口にした。言葉はないが、満足をしているようであった。

 もう一口飲んでから、碑はショット・グラスを三つ出すと、今度はバックバーから一本のボトルを出した。

 そしてグラスを満たし、カウンターを出た。

 杉岡はグラスの置いてある位置を見て、気が付いたように、席を一つ空け、二人の間に碑を招き入れた。

「このボトルは……」

 雪乃はまじまじとボトルを見て驚くように声を上げた。

「キャパドニックじゃないですか、しかも一九六八年の三二年」

「ハートブラザーズの赤ラベルだ」

 碑はそういうと、さっさとグラスへと手を伸ばした。口の中へと放り込み、一息つくと、葉巻をふかした。

「なんだ、飲まないのか……」

 遠慮をしている二人に、碑は声をかけた。恐縮した雪乃が声を上げた。

「いいのですか」

「グラスに注いだウイスキーをボトルに戻す訳いかないだろう。

それとも三杯とも俺が飲んでもいいのか」

 その言葉に二人は、首を横に振り、グラスを口元へと持って行った。

「六〇年代なんて、飲んだことないですよ」

 杉岡が何とも言えない表情を見せた。

「三〇年オーバーもあり得ない」

 雪乃も続いた。

「まあ、たまにはこういう時があってもいいだろう」

 碑は再びグラスへ口をつけた。

「杉岡、ウイスキー祭のボトル、ありがとうな。

 ちゃんと持って帰れよ」

「えっ、これはマスターに」

 杉岡は慌てるように返した。

「いいから持って帰れよ」

 そういうと碑は紫煙を宙へと飛ばした。

 ディーク・エリントンのザ・ポピュラーのアルバムから流れる音楽が、三人の余韻をどこかへ運んでいくような感じであった。

 碑は嬉しそうに、再びウイスキー祭限定ボトルの入ったグラスを手に取り、弟子の気持ちを胸いっぱいに味わった。


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