一七、BARのオムレツ
大路は珍しく一人で秘密の井戸へと入ってきた。今日は雪になるかもしれないと天気予報で言っていたので、一緒に入ってくる冷気は、入口付近にいた杉岡を一瞬襲うようであった。
「珍しいですね、おひとりなんて」
おしぼりを置きながら杉岡は声をかけた。その言葉に思わず大路のため息が漏れた。言わない方がよかったのかも……杉岡は後悔をした。
「今日は会社の飲み会があったのですが、料理も酒も全然おいしくなくて、思わずきてしまいました」
その言葉を耳にして、杉岡は自分が思った通りの理由でないことに、胸を撫でおろした。
「どうしてもこのまま帰りたくないと思ったら、この店の事が頭に浮かんだので」
大路はそこまで言うと、落ち着いたのか、弛緩するようは表情をして、おしぼりを手にした。寒さでかじかんだ手が、生き返るような感覚を得て、気持ちも随分と落ち着いたようである。
「思い出してもらえるなんて、ありがたいね」
碑は笑顔を見せた。
「毎回ここのカクテルは楽しみなのですよ」
そう言うと大路はバックバーを眺めた。早々と、何を飲もうか物色しているという感じであった。碑はしばらく待つことにした。そして大路は一本の瓶に視線を移した。
「あのお酒はなんですか」
碑は指を刺されたボトルを手にし、カウンターの上へと置いた。
「これはカルバドス、林檎で作るブランデーだよ」
「そうなのですね。今まで見たことのないカルバドスです」
夏木とよく飲みに行っているからなのか、カルバドスの説明は大路にはいらなかったようであった。ただ見たことのない銘柄という事で、碑は補足をした。
「これはモランのセレクションというカルバドスで、うちだとカクテルで使ったりするものだよ」
「そうなのですね。逆にカルバドス単体では飲んだことはないかも」
大路は初めて目にするボトルをマジマジと見た。
「これはソーダ割りなんかでも美味しいよ」
「じゃあソーダ割りをお願いします。
本当に今日はお酒もおいしくなかったので、途中からウーロン茶を飲んでいたくらいなので楽しみです」
碑は笑顔で頷いた。杉岡が用意したグラスへカルバドスを入れ、適温に冷やしてから炭酸が入れられた。音もなく挿入されたバースプーンをグラスの底へとつけ、大きく三回くらい下から煽り、一回転させて引き抜いた。
そのカルバドスのソーダ割りを、よほど心が渇いていたのか、大路は勢い良く飲んだ。
喉に炭酸の刺激と共に、カルバドスの香りが心地よく広がり、大路は笑顔を見せた。
「あんなに煽ったのに、炭酸が抜けないのですね」
「そう、そんなに炭酸は弱いものじゃないからね。逆にバースプーンを入れて、軽くしか煽らないと、いくら比重が軽い蒸留酒とはいえ、しっかりと混ざることはないのだよ」
そう言う碑の言葉を、杉岡は何度となく耳にしていた。だから自分が作る時も、しっかりと混ぜた炭酸割りになるのである。
「それにしても、お酒もそうですけど、食べ物もおいしくなかったので、ほとんど食べてこなかったから、小腹が空いていて、アルコールが回っちゃうかもしれないです」
大路は喉もそうであるが、腹の中まで乾いている様子であった。その渇きは物質的なものだけではなく、気持ちという面であったかもしれない。それを察してか、碑は普段やらない提案を持ちかけた。
「今日は暇だし、もしも大路さんさえ良ければ、オムレツでも作ろうか。そのかわりプレーンだけれどね」
「オムレツがあるのですか」
大路の驚きは、杉岡も同様であった。四か月近く秘密の井戸で勉強をさせてもらっているが、今まで碑が料理をするなどという場面を見たことがなかったからである。カウンターの端にある一個口のガス台は、碑が茶を飲むときに湯を沸かす程度でしか見たことがなかった。
「まあオムレツで悪いけれどね」
「そんな事ないです。マスターが作るオムレツ、凄い楽しみです」
大路は、そう言うと待ちきれないという感じで、カルバドスのソーダ割りで喉を潤した。
碑は卵を三個、ボールに割ると、菜箸で丁寧に、空気が入るようにしてかき混ぜはじめた。それが終わると、五グラム程度の有塩バターを準備して、フライパンを強火で熱した。
フライパンに火が完全に入ると、碑はバターを放り込んだ。全体にいきわたるように、バターを菜箸で満遍なく行き渡らせ、卵を入れた。強火で熱せられているフライパンの端のほうは、もうすでに卵に熱が入り、泡立つような状態になっていた。
碑は菜箸で、外側から一気に卵をかき混ぜはじめた。その勢いはオムレツではなく、炒り卵でも作るかのようであった。これ以上混ぜたら、バラバラになり固まらなくなってしまうのでは……杉岡がそう考えた時であった。碑はコンロの火を止め、一気にフライパンを返しながら、オムレツを巻き上げた。
あっという間に皿に盛られたプレーン・オムレツは、大路の前へと出された。ケチャップはそのままお好みでというように、冷蔵庫に入ったままのボトル状の物が置かれた。
綺麗な黄色に焼きあがったオムレツを大路は、目をキラキラさせて見た。
あっという間にできあがったオムレツに、何もつけずにフォークが入った。それは少しだけプルプルとするような感覚であった。そして大路の口元へと運ばれた。
「おいしい」
思わず大路は目を見開いた。切られた断面からは、硬くなっていないにもかかわらず卵がだらしなく垂れてくることはなかった。
「フワフワですね」
「まあね。俺の考えでは、汁がでてくるようなオムレツは、オムレツじゃないからね。半熟ではなくて、あれは生だからね。
俺が作るオムレツは、中がスクランブルエック状になっているから、食感が柔らかく感じるのだろうね」
碑はフライパンなどの調理器具を流しに片づけながら答えた。杉岡はすぐにそれを洗うために、碑と立ち位置を変えた。
「はい、しかも卵とバターだけでも、しっかり味がするのに驚きました。
ケチャップをつける必要を感じないです」
「俺が使うのは有塩バターだから、卵の味とそれだけでも十分だと思うよ。まあお好みでつける人もいるだろうけど」
大路は碑の言葉に納得するように頷き、あっという間にオムレツを平らげた。
「それにしても、ここで食べ物を食べられるとは思いませんでした」
お腹も満足して、更に大路の笑顔はとびっきりのものに見えた。
「まあ、昔はバーのオムレツなんてありきたりだったと耳にしたことはあるのだけれどね」
碑はカウンターの端へと移り、スマトラの葉を使った吸い口の作られているキャンドルライトへと火を点した。
「バーのオムレツですか」
疑問符を付けた言葉を思わず発したのは、大路ではなく杉岡であった。思わぬところからの質問に碑は答えた。
「そう、昔は卵が貴重だったから、どこでも手に入るという物じゃなかったのだ。
だがバーでは何とかカクテルを作るために卵を入手する店舗もあったという」
「卵を使ったカクテルですか」
「そう、ピンクレディとかは有名じゃないかな」
大路の問いに碑は答えた。
「ピンクレディって、昔のアイドルの名前じゃなかったですか」
確証を持てないのか、自信なさそうに杉岡は言葉を挟んだ。碑は突拍子もない言葉を聞いて苦笑してしまった。
「そのピンクレディもカクテルの名前からきているみたいだな。
名前に似つかわぬ、刺激的なカクテルっていうイメージかな。
ジンに卵白、グレナデン・シロップを使ってシェイクするカクテルだ」
そういうと碑は再びキャンドルライトを口にした。
「カクテルに卵を使うのですね」
大路が意外そうな表情を見せた。
「そう、食中毒が流行ってから卵を使うカクテルを出さない店が増えたから、見たことがなくても仕方がないかな。
それで、卵が高価だった時代にも、バーではその材料があった。
そして常連なんかが頼んだ時に、贅沢なオムレツが食べられたという話だ」
碑はどこかで耳にした知識を話した。
「今と違って卵は高価だったのですね」
杉岡が納得するように、首を二、三度振った。
「だからバーの食べ物は、オムレツなんかが定番だったのだ。
もちろんもっと高級な店だと、フルーツの盛り合わせとかもあったのだろうけど」
大路は、飲み終えたカクテル・グラスをカウンターの奥へと追いやった。次を注文するという合図である。
「マスター、その、ピンクレディは出していただけるのですか」
大路は半信半疑に注文をした。
「さっきも言ったように、食中毒は気になるからなぁ」
碑はいぶかしげな表情を見せた。できることならば避けたいという雰囲気は杉岡にも伝わってきていた。
「何かあった場合には、私の責任にしてもらっていいですから」
大路はどうしてもピンクレディを飲みたいのか、頭を下げた。だが碑はかたくなだった。けれども一つの提案をすることにした。
「今日は止めておこう。けれども、次回卵持参で来な……持ち込んだ材料という事ならば、そっちの責任という事にできるだろうから」
碑はそう言うと、大路が押し返したカクテル・グラスを流しへと下げた。
「わかりました。
お腹も満たされたことだし、次は何にしようかな」
やっと飲み会の呪縛から解放されたのか、大路は改めて酒に向き合おうとした。
「じゃあさっきのソーダ割りの繋がりという訳ではないが」
碑は先ほどジャックローズの材料として取ったモランと同じ棚に置かれているミッシェル・ユアールの瓶を手にした。瓶の首のところには二〇〇二という数字が掛かれていた。
「カルバドスをそのままというのはどうだろう」
碑は大路の前に瓶を置いた。大路はその瓶を期待するように見つめた。
「私、カルバドスをそのまま飲んだことはないです」
「じゃあ尚更どうだろう」
碑の笑顔は、大路を誘い込むようであった。過去に数回夏木と来ている中で、大路の碑に対する評価は、酒に関しては信頼に値するものであった。
「ぜひ試してみたいです」
その言葉に頷いて、碑はブランデー・グラスへと、琥珀色の液体を注いだ。すぼまったグラスの中に、果実の香りがたっぷりと広がる。
大路は手元に来たグラスから漂う香りに、うっとりするような表情を見せた。そしてグラスを手に取った。
「手の平でグラスを包み込んで、体温で少しずつ温めるといいよ。そうすると香りが立つようになるから」
碑に言われるように、大路はグラスを手で包み込み、鼻先へとグラスを持ってきた。あまり鼻を入れ過ぎないように気にしているようであった。入れすぎるとアルコールの香りを強く感じる時があるからだ。
「こんなに果実の香りが豊なのですね」
大路の顔に、自然な笑みがこぼれた。
「ある程度の長熟になるとね。
若い物だと少し枯れた感じもするけれど、これはかなり芳醇だよ。リンゴをそのまま嗅いでいるような気になれるし」
碑の言葉と笑顔は、その香りを更においしくさせる魔法のようなものであった。
大路はカルバドスを一口、口腔へと流し込んだ。香りがたっぷりと口の中全体に広がり、次いで甘さが舌を包む。再び笑みがこぼれる。
「もっと強いのかと思っていましたけれど、そんな事もなく、柔らかいですね」
「熟成の力だよ。ブランデーとウイスキーの違い、ここにありという感じもあるけれどね」
「ブランデーとウイスキーの違いって、同じ蒸留酒なのに何かあるのですか」
大路の言葉に、いい質問だと言わんばかりに碑は答えた。
「ウイスキーの原料は穀物、ブランデーの原料は果実、それだけでも大きな違いがあるだろう」
碑は投げかけるように言った。大路も杉岡も、原材料による違いを考えはじめた。決定的に何が違うのか……。碑は二人の答えを待った。だが、なかなか答えは見つからないようであった。
「ヒントとしては、ビールとワインでも同じ違いがあるかな」
碑の言葉に、杉岡は何かを感じたようであった。
「水を入れるか、入れないかという事ですか」
答えたのは大路であった。杉岡も同じ意見だったようで、思わず首を数回、縦に振った。
「そう、ブランデーは果汁を使うから、ウイスキーとははじめの段階で異なる物になるのだ。その上で蒸留し、熟成をする。最終的に加水はするけれども、果汁を蒸留したものと、水を入れて蒸留したものでは異なる物になるというわけさ」
「だからこんなに瑞々しいし、柔らかいのですね」
「スタンダードの商品だと、熟成感が弱くて、アルコールを感じる物もあるけれど、しっかりと熟成をすれば、より果実感は感じられるのかな」
碑の言葉に納得した大路は、再び口の中へ流し、心のそこから楽しんでいるようであった。
大路が帰った店内に、碑はビリー・ホリデーのストレンジ・フルーツをかけた。そしておもむろにオムレツを作り、カウンターの上へと置いた。
「マスター、お疲れ様です」
着替えを済ませて事務所から出てきた杉岡は、頭を下げて店を出ようとした。
「お疲れってことで、良かったら食べていかないか」
「えっ、いいのですか」
杉岡は気になっていたオムレツにつられてカウンターへと座り、フォークを手にした。
「これ、無茶苦茶フワっとしていますよ。下手な料理人よりもうまいのではないですか」
「そんな事はないだろう」
簡単に否定だけすると、碑はカウンターの端に陣取り、ロメオ&ジュリエッタのミルフレイユを口にした。