一六、そんなに好きなのか?
いつもと同じようにBAR秘密の井戸の時間はゆっくりと過ぎていた。だがふとしたきっかけによって、重苦しい空気が漂ってきていた。
誰もいない店内をあざ笑うかのように、パド・パウエルの芸術のレコードの中に入っている【誰かが私を愛している】のアップテンポの曲が流れている。
珍しくカウンターの椅子に座る碑は定位置にはいなかった。作業台の正面に座して杉岡と対峙していた。
その杉岡は、緊張の面持ちで一〇オンスのタンブラーへ、氷を入れていた。
バースプーンを掴み、氷しか入っていないグラスへ差し込むと、音もなくクルクルと回し始めた。しばらくすると霜が降りてきたのか、氷が透明度を無くし、白く変化していた。
トングで氷が落ちないように支えながら、グラスを傾け、溶けた水を流した。
作業台の前に出されているブラック&ホワイトのボトルを手に、練習してきたハンドメジャーで三〇ミリリットルの量をグラスへと注いだ。
再びその中へバースプーンを入れ、グラスを抑えている手でウイスキーの温度の変化を捕らえる。冷蔵庫の水と同じくらいの温度に冷えた頃合いをみて、水を注ぎ、更にバースプーンを入れ、丁寧にステアした。
音もなく引き出されたバースプーンを所定の位置へと戻し、杉岡は出来上がった水割りのグラスをコースターへと乗せ、碑へと差し出した。
碑は何も言わずにグラスを手にし、香りを嗅いだ。
杉岡は緊張をしているのか、直立不動のまま、ゴクリと喉を鳴らした。
碑が水割りを口にした。そのまま勢いよく食道へとウイスキーが流れて行く。
「どうですか」
何も言わない碑に対して杉岡は耐えられずに言葉を発した。だが返答はなく、碑は再びグラスへと口をつけた。そして二、三度頷いた。
「ちゃんと作れるようになったじゃないか。
これならば客に出しても平気だろう」
碑から出された言葉に、杉岡は脱力する思いであった。
秘密の井戸へ来てから、未だに客に酒を提供することを許されていなかった杉岡としては、一つ先に進めた喜びを嚙み締めた。
碑はいつもの定位置である奥の席へと座ると、持ってきた水割りを飲みながら、本を広げた。その時に、外界と隔てられていた扉が開かれた。
「この時間から飲んでいるなんて珍しいな」
グラスを手にしている碑を見てそう言ったのは神代であった。
「いらっしゃいませ」
杉岡はすぐにおしぼりを用意した。神代はそれを手にし、バックバーを眺めた。その間に碑はグラスに残っている水割りを一気に飲み干してからカウンターの中へと入った。
「どうなさいますか」
「マティーニ」
杉岡はすぐに材料とグラスを用意するが、少なからず水割りを頼んでもらえたのなら、とへたな期待をした自分本位な考えを戒めた。
ミキシング・グラスの中へ、ヴィクトリアン・ヴァットとマルティニのエクストラ・ドライが入れられ、混ぜられていく。
そしてオリーブの入ったグラスに注がれたマティーニに、レモン・ピールの香りがつけられ、神代の前へと出された。神代はそれを口元へと運び、チビリとではなく、ゴクリと飲んだ。
「今日はガツンとやられたい気持ちだったのだ。
そんな時はマティーニだな」
神代は思わず言葉を出し、苦笑いをした。
「何かあったのですか」
「特に何もないけれど、何となくな」
質問をしてきた杉岡に神代は軽く答え再びマティーニを勢いよく飲んだ。
軽快な音楽のせいもあるのか、それとも自らの気分が良いからなのか、神代はあっという間にマティーニを飲み干した。
「早いですね」
「ショートは三口で飲めってな」
「三口ですか」
杉岡は神代が本当に三口で飲んだとは思わなかったが、それくらい早い感じは受けていた。
「そう、昔マスターと遊んだことがあってな」
神代はいたずらな表情を碑へと向けた。
「そういえばそんな事がありましたね」
微笑みながら過去を回想する碑の姿がそこにはあった。
「昔は、作ったカクテルを早く飲まないと劣化するから、とっとと飲めという時代だったのだ。
まあ俺たちよりももっと前の世代だけれどな。
どのカクテルもショートであれば時間をかけるなって」
「冷えがなくなるとおいしくなくなる。そんな話があったのだ。
今みたいに材料も様々な物が入ってきているわけではなかったから、全て最良の物とはいかなかった。その上で、なるべく良い状態で飲んでもらおうという話だったらしい。
温かいうちにどうぞ、冷たいうちにどうぞという感じでな」
碑が神代の後に続いた。
「確かに飲食店でもそうやって言う店もありますね。
でも、ごゆっくりなんていう店もありますよね」
杉岡は飲食店に行った時のことを思い出して言った。
「そういう店もあるけれどな、ゆっくりなんていう店は、自分の提供した物がどうこうとかじゃなくて、ただ気に入ってもらえればいいという感じなんだろうな。
出した後の商品には興味はないってか……」
神代が口を挟んだ。
「そういう考えもあるのですね」
杉岡は何となく腑に落ちた気がした。ある種、甘やかすことによって客を得ている店は多くある。それをするとそれほどではない物を口にする人たちが出てくる。自らが普段働いているカフェレストランでも、氷が融けて薄まった飲み物を、そのまま飲んでいる客たちがいる事を思い出した。そしてもっと良い状態で飲んでもらいたいという気持ちがそこには産まれてくるものだ。
「一部だろうが、甘やかす時代だからな。強く言えばパワハラだ、何だかんだという奴らもいるけれども、やるべきことをやらないで甘やかすばかりになれば、本人も成長できないのだけれどな」
神代は自らの会社の事でも考えているのか、そんな言葉を思わず吐いた。
「そういえばマスターと遊んだという、先ほどの話は……」
思わず話のきっかけとなった神代の言葉を思い出して杉岡は尋ねた。碑は神代に説明をしてくれと言わんばかりに、目線を送った。
「マスターがなぜ冷えているうちじゃないと駄目なのかという話をしていた時に、実践してくれたのだよ。
冷えているジンと冷えていないジンでマティーニの作り比べをしてくれて、な。
マスターの腕があるからまだ飲める物だったけれども、冷えていないジンで作ったマティーニはすぐにアルコールの角が立ち始めて、まとまりがなくなった。
冷えているジンで作ったマティーニはなかなかバランスが崩れずに、それなりの時間を経過しても飲めるものだったのだ。
マスターはできる限り、冷えがなくなっても飲めるような材料を選ぶから、カクテルとしての耐久時間が長いけれども、材料を選ぶ選択肢が少なかった昔は、劣化していく物を味わってもらいたくないというのもあって、三口でなんて言ったのだろうって……」
碑は思わず頷きながら、葉巻を取り出し、カウンターの隅で火を点した。
「そうなのですね。確かに、カクテルのバランスを考えることはあっても、どれくらい味の変化があって、どのくらいまで良い状態で飲めるかなんて、考えたことはなかったですよ」
杉岡が感心するように納得した。
「まあ、提供してしまえば後は客の問題だからな。
料理でもそうだが、提供に適した温度を逸してしまったら、あとは不味くなるだけだからな」
神代はそう言うと、テキーラのクエルボ一八〇〇アネホを注文した。
ストレートのグラスが神代の前に置かれた時に、扉が開き、外気の冷たい風と共に、二人の男たちが入ってきた。サラリーマンなのだろう、三〇代くらいと目された。
「いらっしゃいませ」
その言葉を耳にしながら、神代から一席開けたカウンターの真ん中へと男たちは陣取った。
杉岡がおしぼりを持っていくと、男たちは手を出して待っていたので、開いて渡された。
「水割り頂戴」
「俺も」
注文は直後に飛んできた。だがバーでは注文は、それで済まなかった。どのウイスキーで水割りを作るのか、それともブランデーの水割りなのか……など様々である。杉岡は確率が高い問いかけをすることにした。
「ウイスキーは何になさいますか」
「なんでもいいよ」
杉岡の言葉を受け流すように答えて男たちはすぐに話をはじめた。そのうちの一人は、神代に背を向けるように、隣にいる男を真正面から見たいのか、真横を向いて座った。
碑はカウンターの端で煙を宙へと飛ばした。その間に杉岡は一〇オンスのグラスを二つ出し、氷を入れて冷やしはじめた。
いつものように準備をする杉岡の姿を確認するし、碑は葉巻を置くと、バックバーからブラック&ホワイトを取り出し、作業台の前へと置き、冷蔵庫から水を出すと、再び葉巻を吸うためにカウンターの端へと下がった。
杉岡は氷から発生した水を捨てると碑の意図に気が付いたのか、ブラック&ホワイトをグラスへと注いだ。そして丁寧に水割りを作った。
「お待たせいたしました」
杉岡は、二つのグラスをカウンターの中ほどまで差し出した。飲んだ際にどのような反応があるのか、それも楽しみであった。しかし杉岡が期待したようにはならなかった。
「乾杯」
他愛のない話をしていた二人はグラスを手にすると、カチンと合わせ、アルコールを体内へと逃し込んだ。男たちは、水割りに対する思いは何もないようであった。感想がないことに杉岡は少しだけ残念な思いであった。
「マスター、おかわり」
神代がテキーラをおかわりしたのは、二人がほとんど口にしていない水割りの氷が、当初の半分以下になってからであろう。
相変わらず神代側の男は、真横に座ったままの状態であった。
「マスター、そろそろなんじゃないの」
二杯目のテキーラへと口をつけた神代が、目線を隣に流し、碑へと声をかけた。それに頷くように碑は葉巻を灰皿へ置くと、二人の男たちへと近づいた。
「普段、バーにはあまりいらっしゃらないのですか」
話の合間を縫って、碑は二人へ声をかけた。男たちは碑へと目線を向けた。
「いや、ちょこちょこは行きますけど、ここははじめてかな」
「会社の飲み会の後、二人でフラフラ歩いてきたら、ここにバーがあるのに気が付いて入ってみました」
感じの悪くない返答であった。碑は笑顔を返した。
「そうでしたか、確かに繁華街から離れていますからね。
ところでお客様は、隣の方がたいそうお好きなようですね」
その質問に二人は意図がわからず、キョトンとした表情を見せた。
「まあ仲はいいですけれどね」
「恋仲みたいですね」
碑は笑顔を絶やさなかった。慌てるように横向きの男が答えた。
「マスター、何言ってるんですか、こいつ男ですよ」
「そうなのですか、てっきりそういう方たちかと思いましたよ」
横向きの男が否定すると、碑は同性愛などもありなのではないかという顔で返した。
「そんな事ないですよ。俺は彼女いるし」
男は慌てて否定してみせた。
「そうでしたか、それではカウンターに座る時は、正面を向いて座った方が良いと思いますよ。まっすぐ座らないのは、隣の人を取って食おうとしているのかと、私の方がドキドキしてしまいましたよ」
碑は笑顔を絶やさずに言った。男たちはそう言われて、表情を無くした。
「マスターが言うように、席にはちゃんと座った方がいいよ。
さっきからあんたのケツがこっち向いていて、気分が良いとは言えないからな」
神代がチャチャを入れるように言った。思わず他の客からも言われ、バツが悪いと思ったのか、男は正面を向いて座り直した。
「横並びで座るカウンターですから、隣の方に背を向けているのは、失礼になる場合もあります。
できれば二人で話をするにしても、ちょっと横を向くくらいがマナーですね。
もっとも、正面からずっと見ていたいというのであれば趣旨が変わってきますけれど」
碑は神代の言葉に乗るように、笑顔を見せて言った。そして二人から離れ、再び葉巻に火を点した。
男たちは、その後、話をしながら水割りを飲み干すと、店を後にした。罰が悪かったのか、それとも気分を害したのか……。それは誰にもわからなかった。
「バーに行ったことがあると言っていたが、そんなに良いバーじゃないのだろう。
ちゃんとしたことを指摘できないのだから……」
神代は二人の居た席を見て、思わず言葉を吐いき、三杯目のテキーラを口にした。
「まあ今じゃ銀座でも客に注意を促すバーは少ないようですからね。
教育と言うとおこがましいですが、それをやらないと他の客の迷惑になる場合もありますからね」
碑は思わず呟いた。
「今は形だけで、本当にそれでいいのかという場所が多すぎるのだろうな。
儲けばかりを気にして、客に注意をしないのは、業界なり何なり、全体が悪くなるだけなのにな」
「確かにそうですね。
大騒ぎをする飲食店なんて昔は少なかったですけれども、酒を飲んだから騒いでもいいだろうみたいな店も多いですからね」
「まあ、薬物としてアルコールを摂取する人間が多いからな、日本は」
神代の言葉は、自分ではそんな事をしない杉岡の胸に刺さった。普段務めているカフェバーがそんな感じに思えたからであった。
「人に寛容になることは大切でしょうが、甘やかすこととは違いますからね。
猫可愛がりなんて言いますけど、人として見ていたらそんなことにはならないのでしょうからね」
碑は再び咥えた葉巻の煙を宙へと浮かべた。