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一四、月の終わりに

 まだ看板のついていない店内に、杉岡は入ってきた。そこには見たことのない光景が広がっていた。

バックバーの一つの棚が空になり、そこに本来納まっているはずの酒がカウンターの上に置かれているのである。

「マスター、これは」

 杉岡はパソコンをいじりながら、一本一本の酒瓶を確認している碑に声をかけた。碑は杉岡の存在に気が付くと、一度手を止めた。

「おはよう」

 バーや飲食、ホテルの世界などでありがちな、どの時間帯でも同じ挨拶をする。それが夕方の時間でも同じ「おはよう」であった。

「マスター、何をされているのですか」

 不思議そうな表情を見せる杉岡に碑は答えた。

「そっか、杉岡は月末に来るのははじめてか」

「はい」

 未だに何をしているのかわからない杉岡は小さく返した。

「棚卸だよ」

「棚卸ですか、この店では年末ではなく、一月にやるのですか」

 驚くような杉岡の表情を見て、碑は何となく杉岡の考えていることがわかり納得をした。

「杉岡のところは年末に棚卸をやるのか」

「はい」

「まあ個人や企業では決算期にだけやるのだろうが、うちは毎月やっているんだよ。

 現状を把握するためにも、月末にやっておくほうがいいのだ」

 そういうと碑は、ボトルを手にしてから、パソコンに数字を入力した。

「そうなのですね。でも酒って、どうやって数字を出すのですか」

 杉岡は数を数えるくらいは理解していても、それをどのようにしていくかがわからなかった。

「杉岡は棚卸をやったことないのか」

「はい、うちは店長が行うので……」

 碑は頷きながら、キャンドルライトを取り出し、火を点けた。そして一本のボトルを手にした。

「フルボトルの時は一〇分の一〇、それでこれは半分だから、一〇分の五っていう事だ。

 もしもこのボトルの仕入が一〇、〇〇〇円だったとしたらどうだ」

 碑は杉岡に問いかけた。杉岡はすぐに計算をした。

「五、〇〇〇円ですか」

「正解、そうやって計算していくのだ」

 そういうとボトルをカウンターの上に戻し、再び宙に煙を飛散させた。

「そうなのですね。でも全部のボトルをやるのですか」

「そうじゃないと意味がないからな」

 碑はそこまで言うと、キャンドルライトを灰皿に置き、棚卸を続けた。

 杉岡は事務所の中で着替えを済ませてカウンターの中へと入ってきた。いつも杉岡は営業の一〇分前に出勤をしているが、その前に出勤したことはない。あくまでも勉強だからという事でそうしてきたが、それ以前にも店の準備など様々な仕事があることを、改めて思い返した。

「マスター、何か手伝うことはありますか」

 パソコンとボトルを交互に睨めっこしている碑に声をかけた。碑は視線を変えることなく、

「店の看板をつけてくれ」

 とだけ言った。そして碑はどんどんとボトルをバックバーへと片づけはじめた。

「もう終わりですか」

 杉岡の言葉に碑は

「とりあえずな」 

 とだけ答えて、ボトルを全てバックバーへと仕舞い、カウンターの上を拭いた。

「マスターはこういう仕事もやっているのですね」

「もちろん、一人で営業をするということは、こういう仕事も当たり前だからな。

 オーナー兼バーテンダー兼経理兼平社員……てな」

 杉岡は単に独立と言っても、ただ酒を作れれば良いだけではない事を改めて知った。碑がたまにいじっている帳簿なども、個人店では経理課などではなく自らが行わなければならない。そのうち自分も、酒以外の事を勉強しなければならないと、杉岡は思い知った。

 その後、碑は帳簿をいじりながらキャンドルライトを吸っていた。

 

 杉岡はミキシング・グラスにバースプーンを入れて回していた。練習の成果もあってか、氷の入っていないステアの技法が身についてきているようであった。それはミキシング・グラスとバースプーンが擦れる音以外しなくなってきている事から、判断ができた。

 そんな時に、白い扉が開き、男女が入ってきた。

「懐かしい」

「確かに」

 二人は立ち尽くしたまま、店内を見渡した。

「いらっしゃいませ、こちらへどうぞ」

 碑はいつものごとく席を立つと、二人をカウンターへと案内した。座った二人に杉岡はおしぼりを出した。それ受け取ると、二人は注文を返した。

「私はテキーラ・サンライズを」

「僕はジャック・ダニエルをロックで」

「かしこまりました」

 二人の注文に杉岡は答えた。カウンターの中へと入った碑はエルドゥーラのテキーラとオレンジ・ジュース、グレナデン・シロップを出した。杉岡は立っていた位置の目の前にあったジャック・ダニエルを作業台の前へと置き、テキーラ・サンライズに必要なマドラーを、まだカクテルの置かれていないカウンターへと置いた。

 テキーラとオレンジ・ジュースがコリンズ・グラスの中で混ぜられ、そこにグレナデン・シロップが入れられる。グラスの上部から入れられた赤い液体は、比重の関係からグラスの底の方へと沈殿した。

 ジャック・ダニエルが氷を伝いオールド・ファッション・グラスの中に注がれ、二つのグラスは男女の前へと出された。杉岡はそれとは別にチェイサーを男のオールド・ファッション・グラスの少し右上の位置へと出した。

 二人は顔を見合わせて、グラスへと口をつけた。

「先ほど店内に入っていらした時に、懐かしいと言われていましたが、昔にいらっしゃったことがあるのですか……。

 覚えていなくて申し訳ないのですが……」

 碑は軽く頭を下げて尋ねた。

「一〇年くらい前に、三回くらいですかね」

 女は記憶を辿るように答えた。

「そうでしたか、やはりお二人で」

「そうです。僕が彼女をはじめて誘ったのがこの店でした」

 男は真剣な表情で応えた。碑はその言葉を笑顔で受け取った。

「そうですか、覚えていていただけるとは光栄です。

 どうぞごゆっくり」

 それだけを言うと、碑は二人の前から離れた。久しぶりに訪れたという事は、二人で何かを話し合いたいのかも知れないと考えたからだ。もしもこちらに用事があれば向こうから自ずと話しかけてくるはずである。それに従うかのように杉岡もカウンターの端で二人を見守った。

「さっきマスターに言ったように、ここにはあなたが誘ってくれたのよね」

 女は過去を思い出すような眼差しを遠くにむけた。

「合コンの後に、どうしても君と二人になりたくて、勇気を振り絞って声をかけたのを思い出すよ」

 男の表情がふと緩んだ。視線は遠い過去へと向けられているようであった。

「あの時の真剣な表情に隠されていたのは勇気だったのね。

まあ私もあなたの事を気にしていたから、あっさりついてきちゃったけれどね」

 二人はグラスを手にして、喉を潤した。

「二度目にここに連れてきてくれた後に、あなたは私に付き合ってと言ってくれたよね。

 あの時は嬉しかったなぁ」

 女は目を潤ませた。再び遠くを覗くように、バックバーのその奥のほうにある自らの心情へと触れた。

「あの後、俺の転勤が決まって、プロポーズをして、結婚まで、あっという間だったよな」

 男も遠い過去へ記憶を飛ばした。だが緩んだ表情は、思わぬ違う言葉を引き出した。

「それで今日、離婚だなんてね。

 人生、何が起こるかなんてわからないよね」

「そうだな」

 女の言葉に男が返した。二人の視線は交わることなく、手元やバックバーへと泳いだ。

 しばらくの無言が続いた後、女はグラスを空にした。それを見た男は、

「ここは俺が払っておくからいいよ。まあ何かあったら連絡してくれ」

 男は半分以上残っているジャック・ダニエルを一口だけ流し込んだ。女はそう言われた手前、もう一杯飲みながら感傷に浸ることができなくなった。その表情は呆れたものなのか、それとも決断したものなのか理解はしにくかった。

「わかった。ありがとう」

 自らの中で整理をつけ、女は席を立つと、男を振り返ることなく店を出ていった。

「ありがとうございました」

 碑と杉岡は女の背中に声をかけた。

 ちょうど音楽が切れたそんな沈黙が嫌で杉岡はレコードを変えようとすると、碑はレコードを一枚手渡した。

杉岡が針を落とすと、太く、低い男の声が、スピーカーから流れ出した。

フランク・シナトラのマイ・ウェイである。

 男はその声に浸るように、ジャック・ダニエルを飲み終え、大きなため息を一つだけつくと、会計を済ませて店を出た。


「ここに来て、結婚して……ここに来て、離婚をして……。

 バーは色々な人間模様を見させてくれますね」

 杉岡は神妙な面持ちで、グラスを拭きながら碑に言葉を投げた。

 碑はカウンターの一番墨の席へと座り、ロミオ&ジュリエッタのチャーチルへと火を点した。

「俺たちは、それを見守るだけで良いのではないか」

 碑は一言だけ、ポツリと呟くと、葉巻を吸い込んだ。

宙へと舞った煙は、どこを目指しているのかわからないくらいに、量が多く、長く滞留していた。

「はい」

 杉岡は自分が知らない人生を噛み締めるかのように頷いた。

 再びマイ・ウェイがかかる店内で、碑は苦い表情を見せながら、ただただ葉巻をくゆらせるだけであった。


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