一三、フェス前の予習
少しアップテンポと思えるようなウェス・モンゴメリーのモーニンがかかる店内に、早々と来客があった。二〇代前半だと思われる若い男である。
「俺、今まで一〇杯くらい飲んでも酔っぱらわないのですよ」
男は自慢気に言うが、碑は冷静に
「そうですか」
としか答えなかった。そんな事を言っていた男であるが、ロング・カクテルの三杯目を飲んでいる時であった。杉岡の眼には男が酔ってきていると見えていた。それはしゃべっていても先ほどの自信満々で軽快なしゃべりではなくなってきていたからであった。極めつけはトイレに立った時に、少しフラフラした感じになっていたことからも想予想がついた。
「マスター」
思わず杉岡はカウンターの端に立つ碑を見た。碑も同じような思いであったのか、トイレから帰ってきて
「もう一杯、何か飲もうかな」
と言っている男を碑が制した。
「結構酔われているみたいですが……」
「確かに、いつもと比べると酔っている気がします」
「先ほど一〇杯くらい飲んでも平気などと言われていましたが、普段はどのようなバーで飲まれているのですか」
男はそう言われて考える間もなく答えた。
「いや、居酒屋ですよ」
「そうですか、じゃあ今日はもう止められたほうが良いかと思います」
「そうですかね、まだ平気ですけど」
碑に言われた男は強がるように言うが、酔いで頭の位置がフラフラと漂っているようにも見受けられた。
「でも先ほどフラついていられましたし、バーの酒はあとで効いてくる場合もあります。
今そのような状態ですから、これ以上飲まれるのはやはり……。
何度も来ていただいている方でしたらこちらも飲まれる量を把握しているのですが、はじめての来店ですから……」
碑はあくまでも相手から帰るとの言質が欲しいと思っていた。飲み手は自分の許容量を知ってこそだと思っているからである。
「そうですか、マスターがそう思うのなら、仕方がないですね。
また来ます」
男はそう言うと会計を済ませた。その際に、名刺を置いていった。そこには夕凪健治との名前が書かれていた。だがそれ以外は何も書かれていなかった。
「それにしても一〇杯も飲むとか言っていたが、本当なのかなぁ」
碑は片づけをしながら思わず感想を述べた。カクテル三杯で酔っていたら、そう思われても仕方がないのだろうとも……。それを杉岡が受け取った。
「たぶん本当だと思いますよ」
杉岡の言葉に碑は一瞬表情を変えた。
「ロング・カクテル三杯だぞ、あんなに酔うか」
「はい、そうだと思います」
杉岡は言い切った。たぶん碑の知らない世界観のことだと思ったからである。
「居酒屋のカクテルって、バーに来た事のある人間からしたら、ほとんど酒が入っていないっていう感じですよ。ある種ジュースと思えるものです。だから一〇杯くらいは場合によっては平気だと思いますよ」
「そんなものなのか」
碑はグラスを仕舞いながら、知らない知識を知れたことで納得していた。
「私も居酒屋で飲むことがありますけど、カクテルなんて名前だけだと思ってしまいますよ」
「そうか、俺の知り合いの居酒屋は、カクテルは置いていないけれど、日本酒なんかにしてもちゃんとした物を置いているからなぁ」
「世間はそういう店ばかりではないのですよ。
マスターはちゃんとした店にしか行っていないからじゃないのですか」
「ちゃんとした物を出さないって……それで金を取るなんて」
碑は信じられないという表情を見せた。
「うちの店でもそうですよ。人によってはただ作ればいいと思っているのですから……。
私もここで勉強させてもらって、ちゃんと作らない物に金を払うなんて莫迦らしいと思うようになりましたからね」
杉岡は自分がどれだけ成長したのかを、自ら言っていながら実感した。
「そんなものか。
確かにバーテンをやっていましたとか言って来る人の中にも、酒に思い入れがなく、ただシェイカーに材料を入れればできると思っている人もいるくらいだからな。
そういう人間は酒をただ作る人であって、バーテンダーではないと思ってしまうな」
杉岡は碑の意見に同意するように頷いた。
そこから、いつものように客足は途絶え、カウンターに座った碑は、読書をしながら葉巻を吸っていた。
杉岡はカウンターの中でシェイカーを振る練習をしていた。
「結構いい音鳴らすようになったじゃないの」
白い扉を開けて入ってきた雪乃が杉岡のシェイクを見て、聞いて言った。
「いらっしゃい」
碑は本を閉じて、カウンターの中へと入った。
「マスター、イチローズ・モルトのホワイト・ラベルをソーダ割りで」
碑は一〇オンス・タンブラーを出し、氷を入れ、グラスを冷やした。溶けた水を捨てると、杉岡が出してくれたホワイト・ラベルをグラスへ注ぎ、炭酸の温度にウイスキーを近くしてから冷やしてからソーダを入れた。
バースプーンをグラスと氷の間から一番下まで入れ、二、三回強く煽り、バースプーンを一回転させて引き抜いた。一見泡が立ち上がるが、それは雪乃に出されるまでには収まった。
出されたホワイト・ラベルのソーダ割りを雪乃は噛みしめるように一口飲んだ。
「やっぱりマスターが作るソーダ割りは、ちゃんとウイスキーの味がするからいいですよね」
雪乃は楽しそうな笑顔で言った。
「ありがとう」
碑は軽く応えた。ちゃんとウイスキーの味が出るという事は、バーテンダーとしては最低限の技術であると碑は考えているが、杉岡や雪乃からしてみたら、そうでもないバーテンダーがどれだけいるのか理解はしていた。
「そういえばマスターはイチローズ・モルトのどんな商品が好きですか」
そう言われてバックバーを振り返り、現在置かれているイチローズ・モルトを見た。ホワイト・ラベルとリーフ・シリーズが三種類。だがそこにない銘柄を碑は話はじめた。
「俺はIPAやピーテッドが好きだったなぁ」
思い出すように碑は答えた。
「マスターの店ではリーフとか以外にも置いてあたった時があるのですか」
「いや、山上の店で飲ませてもらったことがあるくらいかな。
あいつの店はウイスキー祭のボトルとかも置いてあるからな」
「ウイスキー祭のボトルって、限定でかなり高額のやつですよね」
雪乃が驚くように声を上げた。
「そのようだな。まあ俺は良く知らないけれど……」
碑は雪乃の表情とは違い、きょとんとした顔を見せた。
そんな時に白い扉が再び開いた。
「なんだ、雪乃がいるとは思っていなかったな」
名前を呼ばれて振り向いた雪乃の横に座ったのは山上であった。
「山上さんじゃないですか、どうしたのですか」
「いや、用事があって今日は休みにしていたから、飲みにきたのだよ」
山上が雪乃に返答している間に、杉岡は無言でおしぼりを出した。二人の話を邪魔してはならないと思ったからである。
「この間はありがとう」
山上はおしぼりを手にすると、杉岡に軽く言った。
「飛んでもないです。勉強させてもらいました」
緊張するように杉岡は頭を下げた。
「山上、何を飲む」
碑が注文を聞いた。山上は一度バックバーを見渡したが、単体の酒ではなく、カクテルを注文した。
「マンハッタンをお願いします」
碑は頷いてカクテル・グラスを棚から出した。杉岡はオールド・オーバー・ホルトと、ロタンのスィート・ベルモットをバックバーから作業台の前に出した。作業台の下に置かれているビターズは碑が手にした。そこにはアンゴスチュラ・ビターが入れられている。
材料を入れ、ミキシング・グラスの中で、バースプーンは滑るように回った。
冷やしたグラスが山上の前に出され、リキュール漬けになっているグリオッティン(チェリー)がカクテル・ピンと共に、グラスの中へと入れられた。
そしてミキシング・グラスの中からマンハッタンが注がれる。その液体に煽られるようにグリオッティンが少しだけグラスの中で彷徨ったように見えた。
「お待たせいたしました」
グラスが山上の前へと差し出される。山上はすらっと伸ばした指先で、カクテル・グラスの足をしっかりと持ち、口元へと運んだ。そして納得するように頷いた。
「やっぱり碑さんのマンハッタンはおいしいですね」
「そうか、お前に褒められると嬉しいよ」
碑は笑顔を変えした。
「いや、本当においしいです」
「カクテルに関しては山上の方がもう上だろう」
「そんな事ないですよ。マンハッタンはどうしても碑さんの作った物を飲みたくなりますからね」
二人はお互いを謙遜するように言い合った。杉岡は二人のカクテルを飲んだことがあり、そのレベルにいつかは到達したいと考えていた。横目で見る雪乃も同じような事を考えていた。
「そいえば、秩父ウイスキー祭はどうすれば楽しめますか」
雪乃は山上に尋ねた。山上はしっかりとした回答をしようと一瞬考えてから応えた。
「大きな試飲会場が数個の会場に分かれてあるっていう感じだからな。
まずはお目当てのブースを探して、そこに行ってみるといいだろう。大手から小さな輸入会社まで色々出展しているから、目移りはするかもしれないけれど」
会場を思い出すように山上は答えた。
「お目当てですか」
「そう、だから輸入会社がどの銘柄を扱っているかなども調べておくといいだろう」
「扱っている品ですか」
「そう、後セミナーは受けるのかい」
「どうしようか迷っています」
雪乃はホームページで見たセミナーの内容を思い出し、受けたい物を二つばかり思い浮かべた。
「セミナーチケットはウェブ上で買うことになるが、人気のある物は秒殺だからな。早めに決めて準備しておいた方がいいぞ」
雪乃は頭の中のメモ帳へと山上の言葉を書き込んだ。その話に杉岡も聞き耳を立てた。
「あとは色々な酒を楽しむことだね。けれどもテイスティングの量といっても闇雲に飲めばただの酔っ払いになるからな。そうなってしまえば味も何もなくなるからね。
迷惑をかける客が増えれば、将来的にフェスの開催も危ぶまれることになりかねないから、遠足とかじゃないが、家に帰るまで迷惑をかけないことが大切だろうな。
失敗をしたら二度と行きたくなくなることもあるだろうし……けれども楽しかったと思えれば来年も行きたくなるだろうし、他のフェスにも行きたくなるだろうからな」
「わかりました。ありがとうございます」
雪乃は山上に頭を下げた。杉岡も同じ気持ちで続いた。
「酒というものは二つの側面があるってか……。
嗜好品、そして薬物……」
思わず碑は山上たちのやり取りを聞いて、早い時間に来た若い客が、薬物ではなく、嗜好品としての酒を飲んでくれることを望んで思わず呟いた。二人のフェス参加も同じだと思えた。
ウェス・モンゴメリーのモーニンが聴こえる店内で、碑はプラセンシアのコロナを咥え、ロングマッチで火を点けた。