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一二、マリアージュなのか……

 コールマン・ホーキンスのクラシック・テノールがゆったりとかかる店内に、珍しく若い客が紛れ込んできていた。

「やっぱりさっきの居酒屋、最高でしたよ」

「そうだろう。魚のうまい店だからな」

 先輩、後輩という関係なのだろうか、少し酔った表情を照らし合わせながら話をしていた。

「ご注文はお決まりでしょうか」

 おりぼりを受け取ってから注文をしないで話し込んでいる二人に対して、碑は声をかけた。二人はそこから注文を何にしようかと考えはじめたようであるが、深く悩むということはなかった。だから何となく耳にしたことのある名前を出した。

「俺ハイボールで」

「じゃあ俺も」

 二人は注文を済ませて、話を続けようとした。しかしまだ終わりではないと碑はそれを遮った。

「かしこまりました。ウイスキーはいかがいたしましょうか」

 碑の言葉に、男たちは不思議そうに顔を見合わせた。

「ウイスキーじゃなくて、ハイボールを注文しているのだけど」

 後輩が碑に返した。

「莫迦だなぁ、ハイボールはウイスキーで作るのだよ」

「そんなことはわかっていますよ。でもハイボールって言ったらそれで終わりでしょう」

 先輩の言葉に反論するように後輩は言った。

「特に指定されるウイスキーがなければ、うちではデュワーズの一二年を使用しておりますが、よろしいでしょうか」

「ええ、それでいいです」

 先輩はあっさりと受け入れたが、杉岡はデュワーズがどのような酒なのか知って注文をしているのかと思ったが、彼らに取ってそれは関係ない事なのではないかと思考を止めた。

 碑はデュワーズ一二年のハイボールを丁寧に作り、二人に提供した。

「乾杯」

 二人はグラスを合わせて、気泡がゆっくりと上がっているハイボールを勢いよく飲んだ。

「何だか濃いなぁ」

 後輩は思っていた物と違う感じを受け、少しだけ嫌そうな表情を見せた。

「バーだからな」

 先輩は自慢げに答え、再びグラスを口につけた。

「そうなんですか」

「まあ居酒屋とは違うってことだよ」

 そんな二人のやり取りを見て、杉岡はどちらもわかっていないの、だなぁと感じていた。それは具体的な例が出ないことであった。なぜ濃いのか……ちゃんとウイスキーの味を出すためにどれほどバーテンダーが酒の一杯を考えて作っているのか……。

 ただ自らもこの【秘密の井戸】の白い扉を潜ってわかった事だったので、仕方がないのだろうと、気持ちを治めた。

「そういえばさっきの店のレモンサワー、刺身に合いましたね」

「まあな、レモンサワーは最高だよ」

 そんな話を耳にしながら碑は、終わってしまったコールマン・ホーキンスのレコードをA面からB面へと切り替えた。

 その後、二人の客はハイボール一杯で永遠とバーにしては少しだけ大きな声で話をしながら、キャバクラへ行こうと店を出ていった。

 二人が帰った後の一〇オンス・タンブラーの中には、氷の欠片すら残っていなかった。さぞかし薄まって美味しくなかったのではないかと、杉岡は片づけながら悲しくなってしまった。

 洗い物をはじめた時に、扉が開いた。

「マスター、前回は悪かったな」

 そんな事を言いながら神代は店内へと入ってきて、奥から三番目の定位置へと座った。

「別に悪いことはされていませんけど」

 碑はおしぼりを出しながら微笑みを返した。

「それならば良かった。さて、今日はクロンダイクだな」

 前回来た時の彼女の飲んだ酒だと、杉岡は記憶していた。

「まだ引きずっているのですか」

 碑はいたずらな表情を見せて問いかけた。

「そんな事はないよ。マスターも知っているだろう、あいつにクロンダイクを教えたのは俺だって事を」

「そうでしたっけ」

 とぼけるようにして、碑はクロンダイク・ハイボールを作り、神代へと差し出した。

「さっきまで魚のうまい店で飲んでいたのだ。

 高くない酒だが、惣誉の睡蓮という酒は良かったよ。少し甘味があって、魚との相性は良かったな」

 神代は思い出すように笑顔を見せた。そこに杉岡が質問をした。

「神代さん、魚と日本酒は合うのですか」

「人の好みの問題だろうけれど、俺は好きだけれどな。

 ただ吟醸香が強い酒はどうしても食べ物と合わせるのは苦手でな。今日の酒も純米だったんだ」

「吟醸は嫌いなのですか」

 杉岡は吟醸の香りが好きなので、なぜ嫌いなのか問いかけた。

「どうしても香りが邪魔なのだよ。

 もちろん合う物もあるとは思うけれど、俺はその銘柄を知らないのでな」

「じゃあレモンサワーはどうですか」

 杉岡の言葉に、神代は一瞬眉をひそめた。そしてクロンダイク・ハイボールで舌を湿らせてかあら口を開いた。

「レモンサワーか、俺は好きじゃないな」

 ちょっと嫌そうな表情が杉岡には印象的であった。

「でもあれほどさっぱりしている物ですから、邪魔はしないのではないですか」

「まあ邪魔はしないのかもしれないけれどな」

 神代は釈然としない表情で切り替えるように、クロンダイク・ハイボールを飲んだ。

「杉岡、邪魔をしないのと、合うのは違うのだよ」

 神代は投げるように言った。

「いいか、水もレモンサワーも、あっさりしているから、食べ物の邪魔をすることはまずない。けれども合わせてみて、相乗効果があるものではない。

 だから俺からしたら、どうでもいい時に飲む物で、気に入った食事をしながら飲む酒じゃないのだ。だから合わすという意味ではないな」

「相乗効果ですか」

 杉岡はただ飲むだけではないのだと、思わず考え込んだ。

「ソムリエとかが言うだろう。マリアージュって……。

 たださっぱりしたワインを出すだけじゃない。この料理にこのワインの味を合わせたらもっと楽しめる。

 だからそういう物をちゃんと選択して選ぶんだ。そのワインの個性が強くても、料理が負けないものであれば、それはしっかりと味わえる物になる」

 それをカウンターの端で聞きながら、碑は今出る幕ではないとグレイクリフの黒帯ピッコロに火をつけた。

「無難は無難でもいい。でもそれじゃ面白くないだろう」

 神代は再びクロンダイク・ハイボールに口をつけた。

 碑は二人のやり取りに入るために、ショット・グラスを二つ出し、ロタンのドライ・ベルモットと、イリーのコーヒー・リキュールを少量入れた。

「杉岡、ちょっとこれを吸ってみろ」

 碑は火が安定したグレイクリフを杉岡に渡した。

「これって葉巻ですよね。どうやって吸えば……」

「煙草でいうふかしだよ」

 そう言うと杉岡は理解したのか、口の中へと煙を頬張った。紙巻の煙草とは比べ物にならない量の煙に少しだけビックリした表情を見せた。

「これって煙草と全然違いますよ、すごく濃い……本当に葉っぱっていうか……」

「まあな、じゃあ、今度はこれを飲んでから吸ってごらん」

 碑はベルモットの入ったグラスを杉岡の前に置いた。杉岡は言葉に従い、ベルモットを飲んでから、グレイクリフをくわえ、先ほどの教訓のためか、府鋳込み過ぎないように煙を口腔へと吸った。

「さっきよりもイガイガします。何だか紙巻煙草を吸っているような感じです」

 碑は思った通りの返答に笑顔を返し、次にイリーの入ったグラスを差し出した。同じようにイリーを飲んでから、杉岡は葉巻をくわえた。

「なんですかこれ……」

 杉岡は不思議そうな表情で葉巻を眺めた。もちろん先ほどと変わることのない葉巻である。

「葉巻は酸味と合わせるとエグ味が強くなり、甘味と合わせると丸くなる。

 葉巻におけるマリアージュという物がこういう物だ。

 あとはどちらが好きかで決まるのだろうが、俺は断然丸くなる方が好きだけれどな」

 碑は杉岡の手からグレイクリフを取り上げると、口腔へいっぱい煙をため込み、宙へと大量の煙を放出した。

「昔聞いた事があるな。大人の三Cだっけ……。

 シガー、コニャック、コーヒー」

 黙って聞いていた神代が、何かを思い出すように入ってきた。

「そうですね。コーヒーではなくチョコレートという人もいましたけれど」

 碑が答える。

「マリアージュで思い出した。

 昔、スペインバルでうまいオロロソを飲んだよ。その時に食べたハモン・イベリコが相性抜群だったな。シェリーが嫌な油を流してくれる感じで、飲んだら食べ、食べたら飲む。どんどん進んで、お代わりをもらった記憶があるな」

 神代が思い出したのか、喉を鳴らした。

「生ハムはないですか、シェリー、飲まれますか」

 碑はエミリオ・ルスタウのVORSのオロロソを出した。

「そうだな、ちょっともらおうかな」

 思い出に浸るように神代はシェリーを飲み干して帰っていった。


「マスター、レモンサワーは食べ物との相性は、それほど良くないのですね」

 拭いたグラスを棚に仕舞い終わった杉岡は碑に尋ねた。碑はいつものようにカウンターで葉巻をふかしながら答えた。

「神代さんが言っていたように邪魔をしないという事は悪くないという事だろう。良くはないと俺も思うけれど……。

 まあ、居酒屋の概念のレモンサーとバーのレモンサワーは違うからな。

 とは言っても、バーのレモンサワーも食事に合わないと思うが……」

 碑は自らが納得するように頷いた。

「バーのレモンサワーなんてあるのですか」

 杉岡は酒をそれなりに飲んできたが、バー特有のレモンサワーがあるとは知らなかった。

「いや、勝手に俺が言っているだけなのだが……。

 バーの概念でサワーを作ると……」

 それだけを言うと、葉巻を灰皿へと置き、碑はカウンターの中へと入った。

「杉岡はバーでいうサワーとはどういう物か、知っているかい」

「そういえば、ウイスキーサワーとか、ブランデーサワーなんていう物がありますよね」

 記憶の中から引き出して杉岡は答えた。

「そう、じゃあサワーの語源は」

「サワーですか」 

 言われて考えてみるが、炭酸というイメージしか杉岡の頭の中には浮かばなかった。それを見て碑はヒントを与えた。

「サワークリームとかあるだろう」

「あっ、酸っぱい。酸味ですか」

「そう」

 そこまでを言うと、碑はシェイカーに氷を入れ、グラス棚からサワー・グラスを取り出した。冷蔵庫からレモンチェルロとレモン・ジュース、そして作業台の下にある砂糖を準備した。

「だからバーのレモンサワーはこうなるだろう。あくまでも俺の意見だけれどな」

 碑は材料を入れ、シェイクを始めた。そしてヒマワリを思い出すような真黄色のカクテルがグラスへと注がれた。そしてそれを杉岡の前へと差し出した。

 杉岡は黄色い液体へと口をつけた。

「えっ、何ですかこれは」

 杉岡は驚きの表情を浮かべた。碑は表情を変えずに答えた。

「バーのレモンサワーさ」

 それだけを言うと、止まっていたコールマン・ホーキンスのレコードへと針を落とし、店内へと流し始めた。


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