一一、待ち合わせはBARで
開店してまだ間もない時間であった。碑は早い時間に派手な曲を流すことがまれにあった。今日の音楽はまた軽快だ、と杉岡は思った。グレン・ミラーのベストアルバムが壁に飾られている。その中の茶色い小瓶の音楽を耳にしながら、碑は帳簿をいじっていた。
杉岡はシェイカーに氷と水を入れ、カクテルを作る練習をしていた。その音は、何となくビックバンド・ジャズに合わなくもなかった。
白い扉が開き、四〇代後半と思われる女の客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
杉岡がバー秘密の井戸に修行に着始めてから、これほど早く来店する客はいなかった。杉岡自体も、一軒目からバーに行くという行動を取らないせいか、もう飲んできているのではないかと考えてしまったほどである。
おしぼりを受け取った女は飲むものを決めているようで、そのまま杉岡へと注文をした。
「クロンダイク・ハイボールを」
「かしこまりました」
と返答したものの、杉岡はそのカクテルを知らなかったので材料を出すことができなかった。
カウンターの中へ入ってきていた碑は、ドライ・ベルモットとスィート・ベルモットを出した。両方ともロタンというフランスのベルモットである。レモン・ジュース、砂糖、ソーダも準備した。ソーダを出すという事はと思い、杉岡はコリンズ・グラスだけは準備することができた。
シェイカーの中へと材料を入れ、小気味良く碑はシェイカーを振った。いつもと同じ振りなのであろうが、音楽がそう思わせるようであった。
ソーダを加えられたグラスは、女の前へと差し出された。
「ありがとうございます」
女は言うと、グラスを見つめた。そして一瞬微笑んでから、液体を口腔へと流し込んだ。
「ああ、久しぶりに飲んだ」
思わずため息が漏れた。碑はその表情を見て少し頬を緩めた。
「もう飲まれてきたのですか」
杉岡が女へと尋ねた。女は笑顔で返す。
「そんな事ないわよ。これが今日の一杯目」
「そうでしたか、余りにも早い時間だったので、もう飲まれているのかと思ってしまいました」
杉岡は先ほどの自らの考えが間違いであったことと、思い込みは良くないと知らされた気がした。
「最近はバーに早い時間からくる人は少ないのかしら」
「いない訳ではないですが、やはり少ないですね」
碑が取って答えた。
「私が若い頃も、早い時間にバーで飲んでいる人は少なかったかな。
でもそれが良かったのだけれど……」
女は含みを持たせるようであった。
「人がいないバーがお好きだったのですか」
「そういう訳じゃないけれども、落ち着いていられるじゃない」
杉岡の問いに答えてから、女は再びグラスに口をつけた。
「確かにそうですが、それは遅い時間でも変わらないのでは」
「そういうバーもあるでしょうけれども、賑やかなバーもあるからね。
やはり早い時間が一番いいかな。
しかもバーテンダーを独り占めできて話し相手になってくれるから、時間を気にすることもないし」
「そういう考えもありですね」
「そうね、今は情緒がなくなっているから、時間を潰すのに簡素な物を使うでしょう。
私が二十歳くらいの頃は、携帯電話もまだ出始めで通話しかできなかったからね」
「携帯って、電話だけだったのですか」
杉岡は驚いた。知らない時代とはいえ、それしかなかったのかと、そしてそれがどのような物であったのかも想像がつかなかった。
「場合によっては小型のトランシーバーくらいの大きさがあったからな。
スマートフォンしか知らない世代としては驚きなのだろうな」
「いや、かろうじてガラケーも使ったことがありますけど、それほどしないでスマートフォンになりましたからね
でもそんなに大きかったとは思いませんでした」
碑の言葉に杉岡はさらなる驚きを感じた。そして進化とは恐ろしいものであると思えた。
「私は最初の頃は携帯を持っていなかったから、待ち合わせはバーですることが多かったのよ」
携帯の話から、早い時間のバーの話へと戻ってきた。
「喫茶店なんかで待ち合わせをしていると、何もすることがなく、時計ばかりを気にしてしまって、相手が遅れてくると必ず喧嘩をしていたわ」
女は何となくその当時を思い出すような表情を見せて、グラスへと口をつけた。
「でもバーにくると違っていたわ。
マスターと話をしながら酒を飲んでいて、相手が遅れる時には店に電話をもらって……
じゃああなたの奢りでもう一杯なんて話をしてね」
記憶をたどっているのか、その表情は少しだけ少女のように見えなくもなかった。
「確かにそういう時代はありましたね。
たまに行けなくなったからなんて言うと、相手のツケにして、たらふく飲んでいく方もいらっしゃいましたよ。まあツケなんてやっていなかったので、その方が結局は支払っていかれるのですが……」
碑が同じような記憶を蘇らせた。
「そうか、携帯がなくて連絡が取れないから、どこかの店に入れば連絡が取れるし、一人で待たなくていいからバーを利用したのですね」
「そう。まあ相手がそういう人だったからね」
「何だか恰好良い人ですね」
女は杉岡の言葉に思わず微笑んだ。
その時に、女のスマートフォンが電波を掴んだ。鞄の中からそれを取り出すと女は画面を見て、そのまま鞄の中へと放り込んだ。そしてクロンダイク・ハイボールを一気に飲み干した。
「マスター、三〇分遅れるって、時間にルーズなのは嫌いなのよね」
碑は状況を察し、笑顔で答えた。
「それではもう一杯飲みながらお待ちになりますか」
「そうね、どちらにせよここで待ち合わせだからね、何にしよう」
女は頭の中のメニュー表を開いた。だがそれを碑が遮った。
「こういう時はマルガリータでしたっけ」
その言葉に女は思わず驚きの表情を見せた。
「マスター、もしかして私の事を覚えているの」
「たぶん二〇年くらい前ですよね。あの時も待ち合わせでよくクロンダイク・ハイボールを飲んでいらっしゃいましたよね。
そして相手が遅れてくる時は、マルガリータだったような」
少し記憶の曖昧な碑は、探りを入れるように言った。女の表情が思わず明るくなった気がした。
「すごい、じゃあ誰と待ち合わせをしているかもわかっているのよね」
「もちろんです」
碑は満面の笑みで答えた。
その間に杉岡は、エルドゥーラ・シルバーのテキーラ、エギュベルのホワイト・キュラソー、そしてレモン・ジュースを準備した。その後、バックバーの下のグラス棚からいつものカクテル・グラスではなく、ソーサー・シャンパン・グラスを取り出した。
続いてレモンを半分に切ると、グラスの淵へとレモン果汁を着けるために、滑らせるようにレモンへとつけた。そしてグラスの淵へ塩をつけ、女の前にセットした。
材料を入れたシェイカーが振られ、ソーサー・シャンパン・グラスの上部を少し開けるようにへと注がれた。スノースタイルと称したグラスの淵に塩つけられているので、あえていつものカクテル・グラスではなくソーサー・シャンパン・グラスが使われた理由がここであった。
女はグラスの淵へとついた塩と共に、液体を流し込んだ。
「若い頃、気取ってマルガリータを飲んだのよね」
「そうだったのですか」
杉岡が取る。
「そう、このスノースタイルが恰好良いって思ってね」
女は見とれるようにマルガリータの入ったグラスへ視線を移した。
待ち合わせの相手は、マルガリータを飲み終わるまでには現れず、女はもう一杯のカクテルを所望した。次に頼まれた物は、ジントニックであった。
そのジントニックを三分の一ほど飲んだ頃であろうか、白い扉が開かれた。
「申し訳ない、どうしても仕事が終わらなくて」
入ってくるなり、謝りながら女の横へと座ったのは神代であった。
「いらっしゃいませ」
碑がおしぼりを置いて言った。
「マスター、ジントニック」
「かしこまりました」
碑はすぐにカクテルを作り始めた。
「いやぁ、お前から連絡をもらったのは何年振りだか」
まだ落ち着かないのか、神代は少しだけ胸を上下させて言った。
「そうね、やっぱり二〇年くらい前になるのかな」
女は少女の顔をして、ジントニックを飲んだ。
神代の前にジントニックが出された。それを軽く目線に持ち上げて、神代は一口飲んだ。同じように杯を上げて女が続いた。
「元気にしていたか」
「ええ」
神代の問いに女は軽く答えた。
「ずっと実家にいるのか」
「そう」
女が答えるとしばらくの無言があった。碑も杉岡も二人の話に入ることはしなかった。いや入れないというほうが正しいのかもしれなかった。
女が過去を思い出すように、哀愁の滲む表情を見せて口を開いた。
「長距離になっても、もう少し辛抱ができていればね」
「でもそうは行かなかったな。お互い若かったから、相手が目の前にいないってだけで難しかったのだろうな」
懐かしむ二人の顔が、碑には当時と同じように感じられた。
「母の看病で帰ったけれど、結局は何もできずに母は亡くなり、その時支えてくれた同級生だった旦那と一緒になって……
何だかありきたりだね。
でもやっぱり身近にいてくれる人が一番だって」
女の視線は、遠い過去を見ているようであった。
「まあな。でも何で今更俺に連絡を取ってきたのだ」
「ちょっと子供に用事があってこっちにくることがあったの。
そうしたら思い出したのだ、あなたの事」
「……」
神代はその言葉に何も返せなかった。
「ずっと携帯に残っていたあなたの電話番号にまさかつながると思わなかった」
女はグラスについた水滴を人差し指で拭った。
「俺は番号をずっと変えていないからな」
神代は頬を一瞬緩め、ジントニックを口にした。
「それに久しぶりにあなたと良く待ち合わせをしたバーが未だにあるのか気になっていたのだ。
ここには色んな思い出があったから……」
「そうか」
受け止める訳でもなく、突き放す訳でもなく、神代は答えた。
しんみりとした時間がしばらく続いた後、女は店と共に、過去を後にした。神代は飲み代を出すと言ったが、女はそれを受けなかった。
「今日は喧嘩別れじゃなくてよかったですね」
碑はジントニックを飲み終えた神代のグラスを下げながら言った。
「喧嘩別れか、あいつが実家に帰るって言った日だったな。
結局は言い合いになって終わったのだな」
神代は遠い日を思い出していた。そして思いついたように、注文をした。
「マスター、スピリタスはあるかい」
「今はもう置いていないですよ」
「じゃあこの店で一番度数の高い酒を……」
碑はバックバーを振り返り、一本のウイスキーを取り出した。
ケイデンヘッド、ヘブンヒル1995年。ボトラーズのバーボンである。
碑は何も言わずにショット・グラスへ六三度あるウイスキーを注ぎ、神代の前へと差し出した。
しばらく、自分と話をするかのようにグラスを見つめた神代は、意を決したかのようにそれを一気に胃の中へと落とした。
「マスター、勘定」
碑は金額を提示して神代へと尋ねた。
「これからどこかへ行かれるのですか」
神代は代金を払いながら答えた。
「ちょっと行きつけのスナックにでも行ってくるよ。
今日はジャズじゃない。中村雅俊かな」
そう言うと神代は、何かを吹っ切るように店を出ていった。
店の営業が終わった時、碑は一枚のCDを出した。中村雅俊のざっくばらんというアルバムである。
レコードの端にちょこんと置いてあるCDプレイヤーへ入れ、カップリング曲を選曲した。君の事を想うよりも君に逢いたいが流れてくる。
着替えを終えた杉岡には想像もつかない、神代がマイクを持っている姿が脳裏に写された。
碑はヘブンヒルをショット・グラスへ注ぐと、カウンターへ座り、それを一口飲んだ。
神代だけではない、もしかしたら碑にもそのような、昔に対する感情はあるのかもしれない。
待ち合わせでバーを使う時が、自分にも来るのかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら、杉岡は店を出た。