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一〇、好みを得るには

「マスターは休むことはあるのですか」

 相変わらずボトルを拭きながら杉岡は、カウンターの端の席でパソコンをいじっている碑に尋ねた。碑はキーボードを打ちながら答えた。

「用事がある時には休むけれどな」

 その言葉は素っ気なく感じられた。

「でも店のホームページに休みの予定とか書いていないじゃないですか」

「まあ、休まなきゃいけない用事ができたら休むよ」

 杉岡は何度かホームページを見たことがあるが、定休日はなく、次回の休みという欄には今まで予定が刻まれているところを確認したことはなかった。

 碑はいつになく真剣にキーボードを叩いている。何か年始に特別にやるべきことがあるのか……。杉岡はそんな事を考えながらも、再びバックバーからボトルを取り出して、ラベルの情報を頭に入れながら拭き出した。

 白い扉が、恐々と開けられた。そこには二〇代後半と見られる男が立っていた。

「すみません、バーに入るのははじめてなのですが、良いですか」

 男は緊張の面持ちであった。言葉の通り、未知への体験という感じである。

「どうぞ」

 碑は立ち上がり、カウンターの椅子を勧め、パソコンを事務所へと片づけた。

 その間に杉岡がおしぼりを出した。

 肩の力が抜けない男は、椅子に座ると店内を見渡した。

「こんなに酒ってあるのですね」

 緊張の中にも興奮という感情が見て取れるようであった。

「そう思いますよね。私もバーにはじめて入った時に、酒の多さに驚きましたよ」

 杉岡は親近感を持つように答えた。

 そんな話をしているうちに、碑もカウンターの中へと入ってきた。

「バーははじめてと言っていましたが、どのような酒を飲みたいですか」

 碑としてはいつものように聞いているようでも、バーにはじめてきた男としては何を言っていいのかわからないと言った感じであった。

「何かお勧めはありますか」

 杉岡は碑が言うことが手に取れるようであった。

「お勧めという物はないのですよ」

 ほらきた……杉岡は思っていた台詞が発せられて少し満足したようであった。

「えっ、バーに行ったらお勧めと言えばいいって、友人が言っていたのですが」

 男はそうしたらどうしようと、驚きを隠せなかった。

「そういう風に聞いていたのですね」

 碑は笑顔で返し、頷く男を見てから再び言葉を出した。

「本来、飲食店の世界にお勧めなんて言葉は存在しないのですよ。

 よほど信用度が高く、コース料理などで、この順番にこの商品を食べてほしいなどという店であればそういう事もあるでしょうが、一般的な店舗でお勧めなんてありませんよ。

 私が考えるお勧めというのは、知らない土地に行った時に、地元でしか手に入らない物などや、旬の物を聞く場合だけだと思っています」

 碑の言葉を納得するように聞くが、男がその後に出てきた疑問をぶつけた。

「じゃあ、どのように注文したら良いのですか」

 碑は一呼吸置いて、話はじめた。

「あなたがこの店に来たのがはじめてなのであれば、私もあなたに会うのははじめてです。

 好みも何も知らない人に、勝手に店が出したい物を勧めるなんて乱暴な事を私はできません。

 病院でも色々な問診を経て、症状を探り、それに見合った処方をします。

それと同じでその方が望む物を聞き、それに近い物などを提案していく。そうすれば自らの好きな物に行きつく可能性は高くなります」

「バーがはじめてなので、何を頼んだらいいのか」

 男は自信なく、肩をすぼめるように言った。

「そういえばイェス、ノークイズという物をやったことはありますか」

「よく雑誌などにあるやつですか」

 男は思い出すように答えた。

「そうです。所謂二択問題です」

「ありますけれど……」

 それがどうしたと言わんばかりの表情で男は答えた。

「二択問題で、答えに行きつかない人は、ほとんど見たことがありません。

 三択でも間違える人はいますし、四択は国家試験などでも使われるように、ひっかけなども含めて行われるものです。

 それなので、酒も二択で進んでいくと、飲みたい物がある程度絞れてきます」

 碑はそれでもまだ理解が及ばない客の表情に笑顔を返して、話を続けた。

「それでははじめて行きましょう。

 まずはカクテルが良いですか、それとも他の物がいいですか」

「カクテルを飲んでみたいです」

「次にロング・カクテルがいいですか、ショート・カクテルがいいですか」

「ロングとかショートとか、良くわからないのですが」

 男は慌てた様子で言葉を返した。

 碑はボトル棚の下部から、カクテル・グラスを取り出した。ショート・カクテルのグラスと、コリンズやゾンビと言われるような長いグラスである。

「こちらがショート・カクテルのグラスです。そして長い物がロング・カクテルに使用するグラスです。

 ロング・カクテルは氷を入れて作ります。ショート・カクテルはそのまま液体が入ります。

一般的にはロング・カクテルはソーダやジュース類などで割ることがほとんどなので、アルコール度数が低めの物が多いです。ショート・カクテルは弱い物もありますが、酒と酒を合わせただけの物もあるので、アルコール度数が高い物も存在します。

 そして先ほども言ったように、氷が入る、入らないという問題もあるので、ショート・カクテルは冷えているうちに飲んでもらいたいので、時間も短くという事になります」

「それで違いがあるのですね。それであれば一杯目という事もあるのでロングの方がいいです」

 男は少しだけ感覚がわかってきたようで、楽しそうな声をあげた。

「かしこまりました。

 では炭酸を入れた方が良いですか、それともない方がいいですか」

「炭酸はあったほうがいいです」

「カクテルは甘めですか、甘くないほうがいいですか」

「甘くないほうがいいです」

 そこまでの問診をすると碑はバックバーを見た。そしてストーン・ジンジャー・ワインのボトルと、ルクサルド社のマラスキーノのリキュールを手に取った。

「この辺りのリキュールをソーダで割るものや、ジンフィズやボストン・クーラーと言ったカクテルも良いと思うのですが……」

 男は何かを思い出したように、口を開いた。

「ジンって言われましたよね。それを飲んでみたいです」

 男は先ほどまの迷っていた表情とは異なり、イキイキとした笑顔を見せた。

「それではジンフィズをお作りいたしましょうか」

「はい、お願いします」

 杉岡はすぐさまジンフィズの材料を作業台付近へと準備した。

 碑はシェイカーへ材料を入れ、シェイクをしてから氷の入ったコリンズ・グラスへと注いだ。そしてソーダを入れ、バースプーンで下から押し上げるようにして混ぜた。

 そのグラスが男の前へと差し出された。

 男ははじめてバーで飲む酒に、心臓の鼓動を早くしていた。

そしてグラスを手にすると、ためらうことなく口元へと運んだ。

 喉がゴクリと唸った。

「おいしい」

 思わず言葉が出た。

「それならば良かったです」

 碑は男の笑顔につられるように、頬を緩めた。

「お酒がこんなにおいしいのであれば、もっと早くバーにくれば良かった」

 男はグラスを見つめて呟いた。

「お酒に嫌な思いでもあったのですか」

 杉岡は心配するような表情で男に問いかけた。男は顔を上げて、話をはじめた。

「社会人になって、先輩や同期と飲みに行く機会があるのですが、どうしても酒をおいしいと思えなくて……それにうちの会社の人は飲むと騒ぐ人が多いので、一緒にいても落ち着かないというか……。

 もしかしたら酒なんて物は存在しないで、麻薬なんじゃないかと思ってしまって……。

 でも一度バーでお酒を試してみて、それでもおいしくなかったら、もう飲むのを辞めようかと思っていました」

 杉岡もただ酔うために飲んでいる友人などを見ていると、確かに嫌になってしまう時がある。それよりも極端な考え方かもしれないが、飲まないという男の意見に対して納得してしまう部分があった。

「確かに、酔うためだけに飲む酒は麻薬と一緒ですよね。

煙草よりも酒をもっと規制してほしいという声もありますしね。煙の問題はありますが、煙草を吸って暴れた、なんていう話はありませんからね。

 自制心がない人もいますから、酒も免許制にすればいいと思うこともありますよ。

 一回警察に世話になったら停止、二回警察の世話になったら取り消しなんていうことでもいいと思います」

 碑の言う免許制などという極端な意見に、男は思わず目を丸くしてしまった。

「ただ酒はそういう人たちのためにあるものではないですよ。

 嗜好品として楽しむ人のためにあるものです。使い方を間違っている人たちを規制すればいいだけ、だと私は思います」

 碑は笑顔を返した。男は思わず頷いた。そしてジンフィズを勢い良く飲んだ。

「バーの酒はアルコール度数のわりに飲みやすい物が多いです。しっかりと混ざっているとアルコールの嫌な部分が隠れてしまうことがあります。

 何度か飲めば自分の許容量はわかるでしょうが、はじめてという事ですから、飲む量は気をつけてください。

 二日酔いなどになって、酒を嫌いになられては本末転倒ですからね」

 碑は自分が好きな酒を、同じように好きになってもらいたい気持ちだけであった。

「もう一杯くらいいただこうと思うのですが……」

 男はジンフィズを飲み干すと碑に尋ねてきた。

「どのような物がよろしいですか」

「そうですね。今度は甘いカクテルがいいです」

 男は何かを想像しているのか、人懐っこい笑顔で答えた。

「甘いですか。結構甘い方が良いですか、それともさっぱり甘いというか」

「ガッツリ甘い方がいいです」

「フルーツで好きな物などはありますか」

「フツールですか、余り食べないですが、バナナは好きでいつも朝食で食べています」

「それではバナナを使って、甘いカクテルをお作りしましょうか」

「お願いします」

 男の笑顔を受けて、碑は作業台にエギュベルのバナナ・リキュール、ゴディバのチョコレート・リキュール、そして生クリームを用意した。

グラスを冷やし、シェイカーの中に材料が入れられていく。

 シェイクはいつものように独特なシェイクである。そして振る回数も他の物とほとんど変わらなかった。

「何だかバナナシェイクみたいですね」

 カクテル・グラスに注がれた液体を見て、男は思わず言葉を漏らした。

「お待たせいたしましたチョコ・バナナです」

 差し出されたカクテル・グラスに男はすぐさま口をつけた。

「確かにチョコ・バナナです。縁日を思い出しますよ」

「そうですね。チョコ・バナナを食べた事をある人は大勢いるでしょうが、飲んだ人はそれほど多くはいないはずですよ」

 男は声を出さずに頷くと、再びチョコ・バナナを口の中に頬張った。

「好みを言えば、後はバーテンダーの方がそれに見合うカクテルを出してくれる。

 バーはそんなところなのですね」

 男は、今まで嫌いになりそうであった酒の楽しみを知ったからか、カクテル・グラスを嬉しそうに眺めた。

「できる限りですが、要望には応えられるようにしたいものです」

 碑は謙遜するように頭を軽く下げた。

「嫌な酒を飲んだ時は、最後においしい酒を飲みに一人でバーに来ちゃうかもな……」

 男はチョコ・バナナを満足気に飲み干して帰って行った。

 

 片づけをしながら、碑は思わずサリナ・ジョーンズの愛のバラードをターンテーブルへと載せた。そして頭出しをするために、溝を確認して、針を落とした。

サイモン&ガーファンクルの楽曲をカバーした曲が流れ出した。

【明日に架ける橋】である。

「ああいう方が、またいらしてくれるといいですね」

「そうだな、うちの店じゃなくてもいい。酒を楽しんでもらいたいものだ」

 碑はグラスを拭きながら杉岡の言葉に答えた。

 麻薬と嗜好品。アルコール飲料はどちらにもなることができる。

 そんな中で、嗜好品として楽しんでもらいたいものである。

 碑はそう考えていた。


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