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一、弟子との出会い

 一一月に入ったばかりの夕方は、少しずつ寒さが増してきているようであった。風が吹いている今日ような日は、更に寒さを感じ、秋という短くなった季節を感じさせた。

 繁華街を抜けきった、寂しそうな暗い路地に、その白い建物は存在していた。そして外界と繋ぐ白い押戸の扉……。よく見なければただの長方形の平屋の小さな家にしか見えない。扉の目線あたりに、小さな表札のような物がついていた。

 そこには【BAR秘密の井戸】という店名が刻印されたプレートのような物が存在していた。

 扉を開けると、ウナギの寝床のような、建物を見たままの長方形の店舗が広がっていた。

少し暗い照明の下には、一〇席ほどのカウンターがあるのみであった。そのカウンターの長さとほぼ同じ長さのバックバーには、酒が満員電車に揉まれる人のように、ぎっちりと詰められていた。奥行はそれほどないが、三列は並んでいるようだ。それを落とすまいと、チェーンが全てに張り巡らされていた。

 カウンターの中には短髪に白髪の混ざった、蝶ネクタイをして、黒いベストを着ている男がいた。近年はネクタイを締めているバーテンダーも多いのだろうが、その男は昔からこのようなスタイルで営業をしていた。

 少し背伸びをして、バーテンダーである碑は、客に見えない位置に置かれている時計を確認した。過去に客からもらったガラス製のフクロウを模した片目に埋め込まれた時計は、もう二三時を示していた。

【今日は終わりかな】

 もう来客が望まれないと思うと、カウンター内の一番奥に鎮座しているレコードとプレイヤーの置かれている場所へと碑は動いた。目線より少し下に置かれているプレイヤーの下には、ぎっちりと縦置きにされたレコードが置かれている。それは、ざっと五〇〇枚はあるのではないかと推測できた。

 その中から一枚のレコードを取り出し、プレイヤーへと置き、ゆっくりと針を下ろした。

DL―103Rの針が、接触音を立てて、レコードの溝を捕らえた。サンスイのアンプで増幅された音が、JBL―4311から流れ始めた。

ジャズ・ボーカリストであるカーメン・マクレエのアズ・タイム・ゴーズ・バイは、碑お気に入りのレコードである。 

 一切ワインの入っていない小型のワインセラーの中から、ドミニカ産の葉巻を取り出すと、両切りのギロチンを出し、葉巻の吸い口を作った。そして火力の強いターボライターで、葉巻を焦がさないように注意深く着火し、その葉巻をゆっくりと口腔内へと導いた。

【もう少しして客がこないようであれば、一杯飲んで帰るかな】

 碑は誰も開くことがなさそうな扉を一度だけ見てから、煙を空へと飛ばした。吐き出された白い煙は、ゆらゆらと漂い、いつの間にか空気へと馴染むように消えていった。

「ガチャ」

 碑の予想を裏切るように扉が開いた。一一月になったばかりだというのに、冷気が入ってこないのは、今年は暖冬だと思わせるようであった。

 若い男が一人、おっかなびっくりという感じで中を覗き込んできた。

「まだ営業していますか」

「やっていますよ。どうぞ」

 碑は葉巻をシガー用灰皿へと置いて、席へと案内するように手を差し伸べた。来客の男が終わりかと思ったのは、きっと悠長に葉巻をくゆらせている碑を見ての事だったのだろう。

 招かれた客は、ハイカウンターの真ん中あたりの席へと座った。その男には黄金比というのか、座面からカウンターの高さはちょうどよいと感じられた。

「いらっしゃいませ」

 碑はおしぼりを客の前のカウンターの上へと置いた。

「ありがとうございます」

 客は温かいおしぼりを手にすると、一瞬落ち着いたような表情を見せ、バックバーをゆっくりと見渡した。

「一応メニューもありますが、ごらんになりますか」

「いえ、一杯目はジントニックをお願いします」

「かしこまりました」

 碑は一応手が届くところへとメニューを置き、ジントニックを作り始めた。

 六分の一にカットしたライムを絞り、そのままグラスの中へと入れ、氷を入れる。ジンはビフィーターの四〇度である。ハンドメジャー―で注がれるジンの後に、氷になるべくトニックウォーターが当たらないよう注ぎ、グラスを満たしていく。そこへすっと氷を避けるようにバースプーンを入れ、下から煽るように数回、少し荒く感じるようにかき混ぜると、炭酸が少しだけ顔を出した。最後に一度だけバースプーンを回転させ、回した勢いのまま、バースプーンは音もなくグラスから抜け出した。

「お待たせいたしました」

 客の目の前にあるコースターへジントニックを乗せると、碑はコースターごとカウンターの半分くらいの位置まで押し出した。

「ありがとうございます」

 男はあまりバーに慣れていないのか、少し緊張しているようにも見えた。その緊張のままグラスを取り、ジントニックを一口飲んだ。喉が液体を体内へと流していく。男はそれでやっと落ち着いたのか、大きく息を吐いた。

「こんな遅い時間だと、もう結構飲んできたのですか」

 碑はゆっくりと声をかけた。男は一呼吸置いてから答えた。

「はい、今日は卒業式だったので、みんなで飲んでいました」

 爽やかに答える男の答えに不思議そうな表情で碑は言葉を返した。

「卒業式ですか……ずいぶんと季節外れですね」

「ああ、バーテンダースクールの卒業式だったので、一般の卒業シーズンではないですね」

 男は笑顔を見せて答えた。

「そうでしたか、バーテンダースクールですか」

「はい、僕はカフェレストランで働いているのですが、そこではカクテルも作ることがあるので、ちゃんとスクールに通おうと思って通っていたのです」

 そのような店であれば、別段先輩に習った程度で済ます人間も多い中、わざわざスクールに通ったという話を聞いて、碑は感心した。酒に真摯に向き合う人間は好きだからだ。

「こういうオーセンティックなバーに来るのは初めてだったので、少し緊張しています」

 男は恐縮するように小さく頭を下げ、ジントニックへと再び口をつけた。

「初めてで緊張をするという人は多くいらっしゃいますが、言ってしまえばただの酒場ですから、気にしないでください。

 ただカウンターを他の方と共有するのがバーですから、他の方に迷惑をかけたりしなければ、特に問題はないですよ」

「そうですか、ありがとうございます」

 とは言っても、男の緊張はまだ完全に取れたとは感じられなかった。

「オーセンティックのバーってこんなにお酒があるのですね。うちだとそれほど多くないものですから、圧倒されています」

 男にとっては、ボトルに見守られているというよりも、凝視されている感覚なのかもしれない。だからこそ余計に緊張の色が見られるのだろう。

「そうですか、まあバーですから、それなりですよ」

 碑は嫌味なく、笑顔を見せて答えた。

「こんなに多いと、何を飲んだらいいのか迷いますね。

ちなみにバーテンダーさんの一番好きなお酒は何ですか」

一番と言われ、碑はありがちな質問に対して、いつもと同じように答えた。

「一番ですか、一番はないですよ」

 男は思ってもいない返答に、一瞬表情をなくした。酒場で働く誰もが、好きな酒があると思っているからなのだろう。言葉の出ない男を確認してから、碑は続けた。

「色々な酒が好きですから、一番なんて決められないですよ。

まあすぐに一番はこれなんて答えられる人は、私は信用しないですね。

 その時の気分や雰囲気で選択するのが良いと思うので、その時によって飲みたい酒が変わるのですよ」

「そうなのですね。確かにそうですよね。そうじゃなければこんなに酒がなくてもいいわけですからね」

「はい」

 碑は笑顔を見せた。それにつられるように、男は顔を緩め、ジントニックを体内へと流し込んだ。

「あの、もし良ければ、一緒に一杯飲んでもらってもいいですか」

 恐縮するように言った男の言葉に、表情を緩めたまま碑は応じた。

「よろしいですか、では一杯いただきます」

「みんなで飲むのは楽しかったのですが、初めてこうやってオーセンティックなバーに来たのに、一人で飲むのはもったいないと思いまして……」

 男は再び恐縮するように、理由を告げ、頭を軽く下げた。

 碑は何となくバックバーをチラリと見た。そして少し間をおいてから一本のボトルを手にした。それはスコッチだった。シングル・モルト・ウイスキー、スペイバーンの一〇年である。

ショット・グラスを出し、そのボトルからハンドメジャーでウイスキーを注いだ。三〇ミリリットル、量らずとも手がその量を覚えていのである。

「ではご一緒させていただきます。卒業おめでとうございました」

 碑はショット・グラスを手に取ると、目線の高さまで杯を上げて、会釈した。つられるように男はグラスを軽く持ち上げて、そのまま口元へと運んだ。

「あの、うちの店ではお客様にお酒をもらうとビールを飲むことがほとんどなのですが、バーテンダーさんはウイスキーなのですね」

 男の不思議そうな視線に答えるように、碑は小さな笑顔を見せた。

「そうでね、私はウイスキーを飲むことが多いですね。体に合うという事もそうですが、やはり自分の今の気分で酒は飲みたいですから……。

ビールが好きならビールでも良いのでしょうが……」

そんな碑の一言に関心するように男は二、三度頷いた。

「何だか、ただ飲んで売上にしようと思っている店とは違うのですね。私なんかもそんな感じで飲んでいました」

 男は自らの行動を思い出し、少し気落ちしたような表情を見せた。

「そういう店が決して悪いわけではないですが、私はやりません。

 だって酒が好きで始めた商売ですからね」

 碑は今日一番と言わんばかりに、表情を崩した。男はその表情を見た上で、一度考え込むように口を真一文字にしめた。その表情を見て碑は少しだけ離れるようにして、次の言葉が出てくるのを待った。

 しばらくすると男はある程度考えがまとまったのか、ジントニックを一気に飲み干した。そして潤った口を開いた。

「あのこの店は、従業員は雇っていないのですか」

 注文がくると思っていた碑は、思ってもない言葉に、一瞬戸惑いを見せたが、すぐに平静さを取り戻した。

「うちは見ての通り、客がこない店ですし、狭いですから、一人で間に合っているので、従業員を雇う気はないのですよ」

 男は意を決した表情で碑を見た。鋭い眼光は、何かを決意していると思わせるような物であった。そんな思いを込めて男は口を開いた。

「週に一日でいいです。従業員というか、給料がなくてもいいです。

ここで勉強する機会をいただけないでしょうか」

 男は頭をカウンターへつけるような勢いで下げた。碑は今までそんな事をされたことがないので、驚き、そして思わず頭をかいてしまった。

「僕はさっきも言ったようにカフェレストランで働いていますから、休みの日に来ることしかできませんが、どうかここで勉強させてください」

 碑の返答がないので、男は更に言葉を続けた。

 碑は大きく、息を吐いた。そしてスライド制のグラス棚のガラス扉を開け、六オンスのグラスを二つ、棚から出した。

そして、そのグラスにブレンデッド・スコッチ・ウイスキーを二〇ミリリットルずつ注いだ。

「この二つのグラスに入っているウイスキーの量を確認してください」

 男は目の前に出されたグラスをマジマジと見つめた。同じグラスで液面はほぼ一緒であることを確認し

「同じ量ですね」

 と答えた。

 その返答を聞くと、碑は二つのグラスを手に取り、氷を入れた。

 一つ目のグラスへ、水を注ぎ、ビルドして男の前へと出した。

「まずはこのウイスキーの水割りを飲んでください」 

「はい」

 男は言われるがまま、ウイスキーを口腔へと流した。

「おいしいです」

 その男の言葉を聞き流すように、碑はもう一つの氷の入ったグラスにバースプーンを入れ、クルクルと回しはじめた。そしてグラスの一番下に添えられた手で、何かを感じ取ったのか、バースプーンを抜き出し、水を入れ、ビルドして男の前へと差し出した。

「先ほどのウイスキーはどうでしたか」

「はい、おいしかったです。いつも飲むような水割りでした」

「ではこちらを飲んでください」

 差し出された二杯目のグラスを手にし、男は口の中へと水割りを入れると、思わず口元を抑えた。

「これって、同じウイスキーですよね」

「はい、目の前で作ったので、わかっているとは思いますが……先ほど確認してもらった通りです」

 男は再び一杯目の水割りを飲み、確かめるように二杯目の水割りを口にした。

「どこでも飲むような水割りが当たり前だと思っていましたが、二杯目に出してもらった水割りは、ウイスキーの味が濃いというか、しっかり感じられます」

 碑は男の言葉に頷いて、笑顔を見せた。

「こうやって比べてみるとわかるのでしょうが、一杯目の水割りは、ほとんどウイスキーの味がしなく、アルコール感が強いと思います。そして二杯目の水割りは、ウイスキーの香も甘味もしっかり出ている。

 ちゃんとしたバーで出てくる水割りはこういうものです」

 碑の笑顔の中に、しっかりとした自信を男は感じ取っていた。

「何が違うのですか」

 好奇心旺盛、勉強熱心、さまざまな言い方があるのだろうが、碑は男が興味を示したことに感心した。

「一杯目は、ウイスキー、氷、水を入れて、そのまま作ったもの。

 二杯目は、ウイスキー、氷を入れた後、割り物である水の温度にウイスキーの温度を近づけてから水を入れて作ったものです。

 ウイスキーと水の温度が一定になると、物質として混ざりやすくなり、ウイスキーの味がしっかりと出るようになります」

 男は碑の説明を聞きながら、改めて二つのグラスに作られた水割りを飲み比べた。そして先ほどと同じように明らかな違いを感じてた。

「水割りなんて簡単だし、ただ混ぜればできると思っている人も多いのかもしれないですが、こういう事が仕事をするという事です。

 一杯目のようにウイスキーの味が出ていないという事は、ウイスキーの価値を下げた物です。本を買ったのに、文字が書いていない事のようなものです。

だから本来は原価よりも安い金額で提供するような物になるのですが、そういう事を考えずにできていると思って客に提供している店も多いようです。

 比べてみないとわかりにくいのですが、比べるとその差は歴然だと思います」

「確かに、今までどこに行っても一杯目のような物ばかりだったので、これが当たり前だと思っていました。けれども今比べてみて、明らかに違うということがわかりました」

 男の目は、碑から見ると輝いているように見えた。

 ここまで興味を示せるのであれば……。碑はそう思い口を開いた。

「うちは一人でもやっていける店です。

 先ほど言ったように従業員を雇う気はありません」

 その言葉を聞いて、男の表情が一瞬曇った。碑はそんな事など気にせず、更に言葉を続けた。

「ただ私も年が年になってきましたから、一人くらい弟子を作ることもありかと思います。

 私と同じようなユニフォームは自分で買ってきてください。

 あと入れる日が決まったら連絡をください」

 碑はレジの横に置いてある名刺を取り、そっとカウンターの上を泳がせた。

 先ほど落胆の表情を見せた男の顔が、驚きに変わった。

「じゃあ、ここで勉強をさせてもらえるんですね」

「はい、とりあえずユニフォームを調達して、連絡をください。

 先ほど言ったように雇う気はないので無給ですが」

「はい、わかりました。ありがとうございます」

 男はとびっきりの笑顔を見せ、頭を下げた。

「そういえばまだ名前を聞いていませんでしたね」

「あっ、すみません。杉岡です。

 マスター、今後ともよろしくお願いいたします」

 杉岡と名乗った男は、重ね重ね、深々と頭を下げた。

 

 そんな杉岡が帰った店内で、碑はカーメン・マクレエのアズ・タイム・ゴーズ・バイを少し大きな音で流した。

 そしてショット・グラスにウイスキーを注ぎ、蝶ネクタイを無造作に取って、カウンターへと座った。

 バックバーに陳列されているボトルを目に、耳にはジャズ・ボーカルの声を入れながら、手に持っている葉巻を一口吸った。

 葉巻の香りが口腔内を埋め尽くしていく。そこに、一口のウイスキーを流し込んだ。

「弟子か……。

 今更だなぁ」

 碑は大きく天を眺め、再び四〇度をゆうに超える液体で、喉を湿らせた。



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