三章 洋墨染みの思い出
衝撃はあった。あった、と思う。その証拠に、私はそとあとアルレットとリディとマリオンにどのような別れの挨拶をしたのかも、そのあとどんな風にして家に帰ったのかも覚えていないから。それとも十二の頃の思い出なんて、そんなものなのだろうか。ただ、その日の夢はよく覚えている。おばあ様のお部屋で、優しいおばあ様のお顔を見つめながら、真面目な顔をして声を潜めて、幼い私がお喋りをしている夢だ。
「あなたは、クロード様のことが好きなのね」
ふかふかのクッションに私を招いたおばあ様が、私の髪を優しく撫でながらそう聞くと、夢の中の私はとろけるような笑顔を浮かべて、頷いて、言う。
「ええ、だいすき!」
私はあんな顔をしていたのだろうか。夢の中の私の顔が、今の私の顔に重なって、微笑みが深くなる。それは、恋する少女の顔だった。いつの間にか、少女の前に座っていたはずのおばあ様は、王子様へと姿を変えていた。王子様は、フレデリク殿下は、私の手を取って優しく引く。気づけば周囲は、あの白薔薇の庭園に変わっていた。夢特有のとりとめのなさで風景が変わっていく。殿下に手を引かれた私は軽やかな足取りで、庭園を駆けていく。あの『お茶会』の時には履くこともできなかった可愛らしいハイヒールで、軽やかに。まるで、羽でも生えたように。
あの日の夢の記憶は、今でも不思議なくらい鮮明に覚えている。どこから夢で、どこまでが現実なのかもわからないくらい鮮やかな夢だった。実際、おばあ様とのやり取りは、現実に起きたことだったはずだ。どうして忘れてしまっていたのだろう。おばあ様のお葬式の時に、泣いて、泣いて、泣いて、次の日に熱を出して寝込んでしまうくらいに泣くまでは、覚えていたような気がするのに。
「……エステル?」
部屋でぼんやりしていた時、お母様がそんな風に私に呼び掛けた。
「どうしたの、エステル? あなたがペンを持ったままぼんやりするのは珍しいことね」
「え……あっ」
ぼたり。
羊皮紙に大きなインクの染みが広がって、私は小さく悲鳴を上げた。半分くらい文字で埋まった羊皮紙に、じわじわとインクが広がっていく。先程まで書いていた一文が黒々とした染みに飲み込まれていくのを呆然と眺めて、大きくため息をついた。
「あらあら、やってしまったわね」
呆れたように笑ったお母様が、すっかり冷めきった、カップに注がれたままの紅茶をちらりと見て、私の傍の椅子に掛ける。その向こうには、気づかわしげなメラニーが見える。もしかしたら、メラニーがお母様を呼んだのかもしれない。
「もう随分と本とにらめっこをしているらしいわね、エステル? 根を詰め過ぎるのはよくないわ」
「そんなことは……」
ありません、と言おうとして、窓の向こうの日差しがもう随分と赤いことに気づいた。私がここで書き物を始めたのは、お昼が終わってすぐのことだったはずなのに。
「ある、って顔をしているわね?」
「そのよう、です……」
ああ、しまった。やってしまった。せっかくの休日だったから、自宅の書庫から数冊抜き出した専門書を写してしまおうと思ったのに。オルティア学舎にもない珍しい専門書の、前半部分だけでも写してしまえば、学舎の誰かの役に立つかもしれない。そう思ったのに。
「あなたたちは本当に兄妹ね。イリエスもあなたくらいの年のとき、熱心に写本をつくっていたものよ」
「お兄様も?」
「ええ。自分よりも幼いのに、自分より余程賢い子がいる。ここにしかない本があるなら、彼らもそれを読むべきだ、って」
私とよく似た動機に、一瞬だけ息が詰まった。その間を縫うように、お母様が問いを重ねる。
「でも、それにしもね、あなたが羊皮紙を前に考え事なんて」
「それは、その……、本当は植物紙を買いたかったのですが」
明後日の言い訳を口の中でもごもごと回しつつ、ペンをペン置きに置いた。
「何かあったの? オルティア学舎ではうまくやっていると聞いているけれど」
「カルリエ先生ですか?」
「ええ。お父様に手紙が来ていたわ。やんちゃなイリエスと違って、品行方正な生徒ですって」
兄と私、兄妹を揃って指導する、白髭を蓄えた老教授の顔を思い出して、くすりと笑った。
「学舎のことでないのなら、何か他に心配事?」
気づかわし気なお母様の瞳が、夢の中のおばあ様の微笑みと重なって、息が詰まる。
私は少しずつ、言葉を選びながら、お母様に、これまで考えていたことを、あの夢の話を、ひとつひとつ話した。大人たちの笑い話になっていた『お茶会』の話、そこで『おうじさま』に出会ったこと。その『おうじさま』のことを、おばあ様と話していたこと。十二歳の時のお茶会の話、そこで三人の幼馴染と喋った初恋について、そして、その初恋が、自分にとって……
「それで」
気付けば夢中になって話していた。
でも、それで、その初恋が私にとって、フレデリク殿下だったと、そう続けようとして言葉が詰まった。
こんな、十五歳にもなってこんな夢のような夢の話を。
冷水を浴びたようにすうっと体が冷えていく。頬は猛烈に熱い。それは恋の熱ではない。羞恥心による炎だ。十五にもなった貴族の娘が、初恋だの、なんだの。それも相手は王太子たるフレデリク殿下だ。お母様の顔が、まともに見られない。どうしよう、と、嫌な音を立てる心臓の鼓動が耳にまで響く。視界は自然と落ちて、自分の手しか見られない。人差し指の先にインクがついて、うっすら汚れた指先が微かに震えている。
「エステル」
母の声がする。鼓動の音をすり抜けて。
「素敵ね」
顔が跳ねた。視線が上向いて、お母様の顔と、メラニーの顔が、同時に視界に飛び込んだ。二人とも、……ふたりとも、とてもやさしい顔をしていた。
「やだもう、あなたとこういう話したことなかったから。メラニー、メラニー? ねえあなたもこっちに来て座って。お茶会をしましょう? 娘の恋のお話、私ももっと聞きたいわ。アドリーヌ大奥様も、あのお茶会で起きたことを聞いてもにこにこ笑って教えてくださらなかったのだもの。そんな素敵なことがあったのね!」
興奮したお母様の声に急かされて、メラニーがばたばたと椅子の用意をする。
「ねえ、エステル。アドリーヌおばあ様のお葬式の時にね、あなた、まわりが、あなたを死んでしまうんじゃないかって心配するくらい泣いたのよ」
覚えている。おばあ様の眠る白い薔薇の棺も、それに縋って二晩泣き続けたことも。
「お葬式が終わって、埋葬も終わって、あなた、倒れるように眠って、三日三晩熱を出したの。覚えてる?」
覚えている。少しずつ引いてきた頬の熱を散らしながら、頷いた。
「ベルナール領のお医者様も、ルクレール学術院のお医者様も、みんな原因がわからないって頭を抱えて、お父様なんてもう、顔色が真っ白になって」
お母様が思い出すように目を伏せると、メラニーがその言葉の後を続ける。
「奥様も、三日間の間にどんどん御痩せになりました」
「あら、メラニーもでしょう」
「その節は、ご心配を……」
ほとんど薄れた記憶の中に、その記憶はあった。といっても、その日を境に私の記憶はあやふやだ。おばあ様が亡くなったのは私が六歳の時で、あのお茶会はその二年前のことだから、四歳の記憶なんてそんなものなのかもしれないけれど。それでも、すっぽり抜けた記憶の中に、お母様やメラニーのこともあったのなら、それはあまりに薄情だ。私は断腸の思いでうめく。
「いいえ、あなたは生きてくれたわ。それがどれだけ嬉しかったか。……でも、あの三日間が終わった後、あなた、あまり笑わなくなったでしょう? イリエスも真っ青なくらいお転婆だったのが、すっかり大人しくなってしまって、書庫でひっそり過ごすことが増えたわ。おばあ様のお部屋に本を持ち込んだりね。だから、こういう話をあなたは好むかも、私はよくわからなくって。でも、そう……」
お母様は、感慨深そうに目元を和らげた。
「私があなたくらいの頃はね、夢に夢を見たものよ。いつか王子様が、って」
「奥様、それは……」
「うふふ、お父様には内緒よ?」
可愛らしく笑って、お母様は人差し指を立てて見せる。お茶目な仕草に、私もつられて笑ってしまった。
「でもね、そうね、私はベルナールに嫁いだ身でしょう? だから、オルティア学舎には通っていないの。あなたやイリエスが、当然のように学問に熱中する中を、うふふ、恋物語を追いかけるのに費やしていた時期もあったわ。勿論、先生方のご指導はきちんと聞いていてよ?」
机に重ねられた専門書を、お母様の指がなぞる。
「それが必要ってわけではないわ。でも、やっぱりお母様ですもの。子どもたちの恋の話は聞きたいわ。イリエスだってね、大変だったのよ?」
「お兄様も?」
「ええ。フロリアーヌとは色々ね。私はフロリアーヌと同じ立場だから、彼女の気持ちがよくわかるけれど」
兄の妻であるフロリアーヌお姉様と仲の良い母の姿を思い出して、なるほどあれはそういうことかと頷いた。
「でも、あなたとはそういう話をほとんどまったくしてこなかったから。そう、王子様が……」
冷めかけていた頬の熱が、再び灯った。
「昔の話です。それに、立場は弁えておりますし、初恋なんて、叶わないと相場は決まっているし……」
後半はほとんど、自分への言い訳だった。芽吹いたことに気づく間もなく散ってしまった初恋に、今更どうこう思わない。大切な、可愛らしい思い出。それでいい。
「うふふ、でも、まるでおとぎ話のような初恋ね? ねえ、もっと詳しく教えてちょうだいな。おばあ様ばかりずるいわ」
お母様が身を乗り出した。その時だった。
お嬢様! と呼ぶ声と、エステル! と呼ぶ声が重なる。私のことを呼び捨てにできる人は、この屋敷では限られる。お母様はここにいるから、そうなると候補はお父様とお兄様だ。しかしそのどちらであったとしても、こうやって声高らかに呼ぶのは、余程のことではないはずだ。
お母様とメラニーと交互に顔を合わせて、私たち三人は立ち上がった。メラニーが小走りに扉に近づいて、開けてくれる。私とお母様が部屋から出ると、廊下の向こうから呼ぶ声がさらに鮮明になった。
「エステル!」
私をそう呼んだのは、候補二人のうち二人、つまり、お父様とお兄様だった。お父様の手には手紙が、お兄様の手にはそれを開いたのであろうペーパーナイフがあって、二人の顔色は二人とも真っ青だった。
「あらまあ二人ともそんなに慌てて。年頃の娘の名前をそんなに大声で呼ぶものではありませんわよ」
お母様がおっとりと窘める時間もなかった。
二人は足音すら気にする余裕もないほど速足にこちらに駆け寄ってきて、私とお母様を部屋に押し戻す。兄はメラニーに人払いを指示した。そして扉が閉まる音がして、二人は真剣な瞳で私を見据えた。
否が応でも緊張して背筋がこわばる私に、二人を代表して父が告げた。
「エステル。落ち着いて聞きなさい」
そう言われればなおのこと、落ち着けるはずもないだろうとは、流石に言える雰囲気ではない。
「クレール王家が第一子、フレデリク・ド・ルクレール王太子殿下が、お前に婚約を申し込まれるそうだ」