一章 白い薔薇の思い出
彼と私が出会ったのは、我がベルナール家の遠い縁戚にして、クレール王国が王家ルクレールの外戚、ルデュック公爵が主催したお茶会の席だった。公式ではなくあくまで私的な会であるものの、それは王太子として公の場への顔見せを控える当時八つの王子の、公式な場での振る舞いをおさらいする、いわばリハーサルのための会。昼間に行われたそれは、形式は完全に立太子の礼そのものだったらしく、大人たちは幼い王子の一挙手一投足に注目し、さぞ気を揉んでいたのだろう。
というのは、私はその『お茶会』には参加していないから、それらすべては後から聞いた話である。当時あと少しで四つになるかくらいの私が、そんな重要な場に出させてもらえるわけもなく、しかし滅多に訪れることも敵わない王都を見せてやりたいと考えた父母の計らいで、祖母アドリーヌと共にかの屋敷の裏庭で、小さなお茶会ごっこをさせてもらっていた。よくそんな重要な場の裏側で、そんな我儘が通ったものだと尋ねれば、当時のルデュック家当主に溺愛されていた夫人は、お母様の幼馴染で親友。お母様の願いを夫人が聞き入れ、夫人が夫にねだればこの通り、とのことらしく、それでよかったのかと聞けば、「あら、いいのよ」とおっとり笑うお母様の胆力には舌を巻いた。
それは、その二年後には亡くなってしまったおばあ様と大の仲良しだった私の、最初で最後の王都旅行だったことを、お母様はきっと言いはしないだろうから、私もそれ以上は何も言わない。
そんな、おばあ様と乳母のメラニー、そして幼い私だけのお茶会も終わりかけ、最後から二つ目のマカロンを、おばあ様に見守られながら齧ったそのとき、予想外の闖入者に見舞われた。
棘の抜かれた薔薇の茂み、白い薔薇の中から、白い薔薇よりもまばゆく光る金の髪が現れたと思ったら、花びらを髪飾りの代わりに乗せた小さな頭が飛び出して、その下からは薔薇の葉っぱよりも深いグリーンの瞳がまたたく。いつもは穏やかなメラニーが椅子を蹴倒すほど慌てたのを、私は生まれて初めて見た。金色の髪に緑の瞳の男の子が飛び出してきたことよりもメラニーが慌てたことに驚いた私に、その男の子はにっこり笑って言った。
「失礼、プリンセス、ごいっしょしても?」
今思えばたどたどしい発音も、当時三つの私には年上のお兄様のエスコート。当時知り得るすべてのマナーの知識を総動員して、こう返したと思う。
「ごきげんよう、もちろんですわ」
彼はにっこり笑って、私とおばあ様、メラニーのいるテーブルに近づいてきた。メラニーはいまだ慌てふためいていたが、周囲には私とおばあ様、メラニーだけ。おばあ様はただ目を細めるだけで、何を言うこともしなかった。
このわがままはあくまで母のわがまま、この屋敷のメイドたちは皆、当然ながらこの国一番の貴賓の世話に用事にかかりきり。メラニーの唇が震えているわけもわからなかった私は、おばあ様と視線を合わせた後、メラニーに聞いた。
「メラニー、どうしたの?」
そこで私は気が付いた。このお茶会には椅子が足りない。メラニーが慌てている理由がそれだと思った私は、メラニーと新たなお客様を見比べて、
「メラニー、おきゃくさまはわたしがおあいてするわ。だいじょうぶ、ひとりでもおもてなしできるもの。だからね、メラニーは、いすをひとつもってきてくださる?」
その言葉に、メラニーは酷く驚いて、私を見て、それからおばあ様を見た。おばあ様は何も言わなかったけれど、ゆっくりとメラニーに頷いて見せ、メラニーはごくりと唾を呑み込むような仕草をした後に、決死の覚悟を決めたかのような顔で、ゆっくりと頷いた。今ならその理由ははっきりわかるのだけど、当時の私はその理由も仕草の意味もわからないまま、ただにっこりと微笑んだ。初めてのお茶会を主催する高揚感と、幼子ならではの全能感は、今思えば考えられないほど、幼い私をお姫様にした。メラニーがそろそろと、お客様にカーテシーを行ったとき、私はまだまだうまくいかない自分のカーテシーを思い出して、まだれんしゅうがひつようねなんて思っていたものだ。今その場にはそれどころではない事態が起きていたというのに、幼さとは恐ろしい。
メラニーは、先程まで自分が座っていた椅子に、新たなお客様を丁重にご案内し、再び最敬礼を取ってから、いつもよりもかなりの速足で向こうへ去った。今思えば、彼女が恥も礼儀もかなぐり捨ててその場を駆け抜けなかった理性はあまりにも鋼鉄のように固いものだったと思う。きっとあの時私がメラニーの立場だったら走っていた。後々になってメラニーにそう言ったら、メラニーは笑って、「あの時に私の寿命は五年は縮みました」と言っていて、つられて笑ったお母様が、笑いながら、それでも「冗談でも言ってはダメよ」と窘めていた。
メラニーの後姿が完全に見えなくなって、私がさてどうしようとティーカップを覗き込んだ時、彼は座ったばかりの椅子からひらりと飛び降りて、私の方へ手を差し伸べた。おばあ様はそれでも、何も言わずに私とお客様を見守っていた。
「はじめまして、プリンセス。ぼくは、クロード。詳しくは話せないのだけど、少しだけぼくといっしょにお散歩しませんか?」
私はおばあ様を見た。おばあ様は皺の刻まれたしろい顔で、私に優しく微笑みかけた。それから、椅子に深く腰掛けたまま、私が大好きでたまらなかったその優しい声で、
「クロード様とおっしゃるのね」
とだけ言った。私はそこではっとした。私も椅子から滑るように降りて、カーテシーをなぞる。上手くできたかとおばあ様を見ると、笑顔のままで頷いてくれて、私はほっと息をついた。
「わたし、わたくしは、エステル。エステル、ド、ベルナールともうします」
この時、お客様が、クロードという彼が、少し驚いた顔をした。それから、それまでの笑顔とは全く違う笑顔で、微笑みではなくまるで花が開くような笑顔で、にっこり笑った。私はその時、その顔に見惚れてしまった。どうしてかはわからない。少なくともその時はわからなかった。ただ、その笑顔がとても輝いていた、輝いているように見えたのだ。
「クロード様。わたくしの可愛い孫娘を、あまり遠くへは連れて行かないでくださいませね。そして、必ず、ここに連れてお戻りになられませ」
おばあ様はそう言って、持ち上げかけていたティーカップから手を放すと、私を手招いた。綺麗に編まれた私の髪を柔らかく撫でて、
「行っておいで、可愛いエステル。きっと素敵なものが見られるわ。戻ってきたらたくさんお話してちょうだいね」
私はおばあ様に許可をもらったので、すっかりうれしくなってしまった。そしてそれと同時に、これから始まる冒険譚を、すべて余すことなく大好きなおばあ様に伝えなければと意気込んだ。クロードと名乗った彼に向き直り、「ごいっしょいたします」と気取って言った。彼はその輝かしい微笑みを浮かべたまま、胸に手を当てて私に紳士の礼をした。見る人が見れば卒倒しそうな光景のはずだったのに、おばあ様はただ微笑むだけだった。それから、ああ、と、思い出したように、彼に向かってこう言った。
「私にならばいかようにでもなさって構いません。ですがどうかその子にだけは、嘘をつかないように、くれぐれも、よろしくお願いいたします」
彼の表情が驚きに見張られ、それから緊張した面持ちで、はい、と言うと、おばあ様はあの大好きな笑顔で、私と彼に手を振った。あの言葉の意図は、もはや今となってはわからない。差し出された手を取った私は、彼と共に薔薇の生け垣の中を進んだ。おばあ様に背を向けて。