13 ギルの傷
稀代の歌手と呼ばれたのはいつごろだっただろう。
ギルは静かに窓を開けて、揺り椅子に腰掛けていた。
ここでたくさんの本を読んだ。
ギルの部屋にある天井まである大きな本棚には、いくつもの本が詰まっていたけれど、その全てをもう最低でも三回は繰り返し読んでしまった。
高尚な戯曲も酒場で飲み交わされるような民の歌も、ギルにとっては等しく大切だった。
楽しいという感情が発端となって始めた歌には、少しずつ多くの人間が集まるようになった。
あるときは管弦楽とのコンサートで。
あるときは野外の広場で。
そしてまたあるときは、王宮に呼ばれて歌った。
あの平和を愛した王子と、自分との間には確かに友情めいたものがあったのかもしれない。王族のくせにのんびりとしていて、芸術には詳しいのに、戦や政治にはてんで興味が無かった。笛が上手で、時々思い立ったようにギルの前でそれを吹いた。
王子なのだから、もう少し国政のことに気を配るべきだった。
だから、反乱があったときに真っ先に粛正させられてしまったのだ。
王子はギルにとっては初めての、音楽を通した友人だった。
ギルの心にはあれからずっと、薄青の靄がかかっている。
広場で晒された王子の首を見たときから、しばらく声が出なくなってしまった。ストリクスとこの屋敷に場所を移して、生活をするようになってからも、少しずつ声が出るようになってからも、ギルの頭のどこかには靄がかかっていた。ピアノを弾いても、一人で好きな曲を歌っても、何をしていても、その薄く青い靄がどこかにあった。
その涙さえ出ない感情を哀しみというのだと、ギルは十年かけてようやく悟った。
しかし、フランが屋敷にやってきてから、ギルの世界は少しばかり色を増やした。朝に、目を覚ますと優しい味のスープができている。ピアノを弾けば、隣で興味深そうに聴いてくれる。ギルの考えたこともないような組み合わせで食材を使って、料理や甘いデザートを作ってくれる。畑を耕して、愛情を込めて野菜を作る。そしてギルを急かさず、責めずに、ただ隣にいてくれる。
ひとりぼっちだった自分は、精霊のストリクスに世話をされて生きてきた。
精霊はギルと魔力の根源の部分で繋がっている。
フランはギルとは全く違う生き物だった。
生きることに図太いのに、無力で、だけどくるくると表情を変えて、ときどき屈託無く笑う。
そのフランの『普段通り』が、どれだけ救いになっているのだろう。
ギルは窓の外を見た。
フランとストリクスが何か話をしている声がする。
木の葉のさざめき。
風に窓枠が揺れる小さな音。
虫の声と鳥の鳴き声。
ギルは目を閉じた。
安らかな自分の息づかい。心臓の鼓動。
体温を感じるような温かい音。
ギルはふと思った。
こんなに安らかな気持ちでいるのに、薄く青い靄は消えない。
おそらくこの先だって、ずっと消えることはないのだろう。
でも、その透明な靄ごと、ギルは存在しているのだった。
脳裏でのんきな王子が微笑む。
ばかだなあ、こんなに簡単なことに何十年も気付かなかったのかい?
彼ならきっとそう言うだろう。
ギルは一人、口元を緩めた。
失った哀しみを歌うなんて、同情を金にするのかと軽蔑していた。
だが、そうではない。
この青い靄は、ギルが王子を想っていた証だ。
(ならば、それごと歌おう。お前との懐かしい思い出を、私がいつか忘れてしまう前に。この靄ごと、世界をもう一度愛せるように)
自室の窓は大きく開け放たれている。
木々の影から青く済んだ空が見えた。
遠くまで届くと良い。
あいつの魂に聞こえるくらい遠くまで、響くように。
ギルは立ち上がり、息を吸い込んだ。




