山の怪 ③
「ただいま戻りましたー……って、何やっているんですか?」
「おうお疲れさん、なかなか帰ってこぉへんからそろそろ理事長締めあげようとしてたで」
「ンフフフ、間一髪ですねぇ」
日が完全に沈んで門限も怪しくなったころ、寮へ帰還したおかきたちを出迎えたのは、玄関ホールに吊るされた理事長とそれを取り囲むウカたちだった。
各々の手には多種多様な凶器が握られ、今まさにスプラッタが始まろうとしている。
「おかき、無事だったのね。 飯酒盃先生も」
「ガハラ様? ボクは?」
「あんたは別に死にはしないと信じてたからいいのよ」
「えっ、ガハラ様が素直に褒めてくれた。 泣きそう」
「ゴキブリ並みの生命力を綺麗に言いなおしてるだけやで」
「泣きそう……」
「あのー、それより藍上さんたちが帰って来たならそろそろ解放してくれません?」
簀巻きのまま逆さ吊りにされた理事長がブランブラン身体を揺らす、なぜ彼の頭からシルクハットが落ちないのかは誰にもわからない。
それはそれとしておかきたちが無事に帰ってきたならこれ以上責められる謂れもない、ウカと忍愛は渋々といった面持ちで理事長のロープを緩めようとするが……
「ところで理事長、あなたのご友人から面白い話を聞いたのですが」
「おっとその話は後で聞かせてもらいますね、さあ早く私を解放してください天笠祓さん早く早く」
「それが事前に理事長から聞いていた話と相手の主張に大きく食い違いがありまして」
「ほうほう、どういうことかしら理事長?」
「ぐえっ」
おかきの調査報告に甘音が緩みかけていたロープを再び締め上げる。
苦しそうにあえぐ理事長はいまだうすら笑いを浮かべているものの、その頬にうっすらと流れた冷や汗をおかきは見逃さなかった。
「それにかなり命の危険を感じる依頼でした、とくに飯酒盃先生なんて……」
「ん、ンフフフ……藍上さん、その話はオフレコでお願いできませんか?」
――――――――…………
――――……
――…
「さて、ここなら込み入った話も出来ますね。 やっと縄からも解放されて安心安全です」
「へー、ボク理事長室なんて初めて入ったよ」
「忍愛さん、勝手に触ると何があるかわかりませんよ」
「ンフフ、お気になさらず。 客人に噛みつくようなものはその辺に飾っておりませんので」
「逆に隠れた場所には噛みつくようなもの置いてあるの?」
「ゴホンッ。さて、依頼の件でしたね」
強引な咳ばらいで話題を変えた理事長は、ソファをきしませながら長い脚を組みかえる。
寮のホールで話せるような内容ではないため、おかきたちが案内されたのは学園中央塔にある理事長室だった。
調度品、絨毯、大理石のテーブル、その上に置かれた湯気立ち昇るティーカップ。 おかきの審美眼ではどれもこれも値段の想像もつかず、思わず背中が丸くなるが、気持ちで負けられる状況ではない。
「どうでしたか、彼は? 元気でやってましたかね、私が出向くと最近じゃ顔も合わせてくれなくて」
「ええ、とても元気でしたよ。 飯酒盃先生の身体を乗っ取るほどに」
「おやおや、そんなことが」
あまりにも白々しい理事長の態度には、おかきも思わず眉をひそめる。
依頼報告のためこの場にいるのは当事者であるおかきと忍愛だけだが、きっと直情的なウカがいれば胸ぐらへ掴みかかっていたはずだ。
「それで飯酒盃さんはいずこに? 何か後遺症がないか心配ですね」
「お酒が切れたショックで自宅へ直帰しました、今頃家中のビールを開けているのではないでしょうか」
「酒……ああなるほど、ンフフフフそういうことですか。 実に面白い」
“あの”飯酒盃が酒を切らしたというわずかな情報から何が起きたのか察したのか、理事長は隠しきれない含み笑いをこぼす。
終わってしまえばたしかに笑い話かもしれないが、当事者からすれば命の危機に瀕するほどの事態だったのだ。 おかきには理事長の能天気な態度が許せなかった。
「新人ちゃん、どうする? やっちゃう?」
「……いえ、今のところは物騒な真似は控えておきましょう」
「ンフフフ、助かります。 私も暴力沙汰は苦手なもので」
「こちらも乱暴な手段が必要ないことを祈っています。 そのために聞きますが、理事長はこうなることを知っていましたか?」
「はい」
「飯酒盃先生を危険に晒し、学園が消滅するとわかった上で私たちを利用したんですね?」
「はい、それが最適解だと判断したので」
理事長は簡単な足し算を解くようにつらつらと答える。
教員と生徒を危険に晒してもなお感情の底が見えない態度には、人間味というものが感じられなかった。
「自分で言ってしまうのも悲しい話ですが、私は彼に嫌われているので直接顔を合わせることすら難しいです。 山そのものを穿り返せば話も別ですが……先ほども言った通り、私暴力沙汰は苦手なもので」
「だからボクらに交渉を任せたんだよね、もっと簡単なお使いだと思ってたんだけど」
「そこは考え方の行き違いがあったようで、でもこうして全員無事に帰ってこれたでしょう?」
「結果論ですよそれは、全滅していてもおかしくはありませんでした」
「私は生徒を信頼していましたから。 それに……あなたはそうしなければならなかった」
「……?」
要領を得ない話し方におかきが一瞬言葉に詰まる。
その隙を見計らっていた理事長はちらりと窓の外を一瞥すると、テーブルのリモコンを操作して窓のカーテンを閉め切った。
「ンフフ、全自動でカーテンをシャーするやつです。 最近取り付けました」
「うわー、ボクらの学費がとても無駄遣いされてる気がする」
「ご心配なく、自費です。 それと山田さんは少し席を外していただけますか?」
「山田言うな。 んー……」
忍愛はしばし逡巡したのち、おかきへアイコンタクトを向ける。
おかきも1vs1の話し合いなら望むところだと強く頷いて見せると、忍愛の身体は陽炎のように揺らいでその場から姿を消してしまった。
「ンフフ、さすが忍者ですね。 音もなく消えてしまった」
「それで理事長、私にだけ話したいこととは何ですか?」
「では単刀直入に。 藍上おかきさん、今回の依頼はSICKからあなたを試すように指示されたものです」
「そうですか」
あまりにもあっさりとしたおかきの返答はさすがに予想外だったのか、理事長の反応が一瞬停止する。
再起動した彼はまず紅茶を一口啜ると、居住まいを正してからおかきへと向き直った。
「……さすが探偵、予想の範疇でしたかねぇ?」
「まあ、自分が異常な存在だという自覚はありますから。 信頼されてないのも納得できます」
「ンフフ、やはりあなたは面白いですね。 今回の結果は悪いようには伝えないのでご安心を」
「なんだか不正の香りがするんですけどいいんですか?」
「かまいません、私は愛する生徒と面白いものの味方です。 あなたはそのどちらにも属するので2倍味方をしますとも」
「あまり嬉しくない味方ですね……」
味方をするという言葉に、おかきの背中には悪寒が走る。
ある意味とても心強い味方だが、同時に決して目を掛けられてはいけない相手がこの理事長だ。
「それに“藍上 おかきに危険思想の兆候はなく、懐柔した山の神を悪用することもなく速やかに下山した”……この内容に間違いはありませんね?」
「はい、彼と交わした契約内容についてはこちらの書面をご確認ください」
「拝見しましょう。 ……ンフフ、これまた見事に保険と安全を何重にもかけた内容だ、欲の欠片も見えやしない」
「そんな余裕はありませんでしたからね、飯酒盃先生を助けるのに精一杯でした」
「よろしい、これなら私から余計な細工を施す必要はないでしょう。 それと個人的な忠告を1つ」
渡された契約書をテーブルに伏せると、理事長はシルクハットの下からおかきを見つめる。
帽子の影になっているはずの赤い瞳は、まるでルビーのように妖しい輝きを湛えていた。
「SICKに十全な信頼を置かぬように、あれはいつかあなたの敵となる。 ――――今のうちにできるだけ多くの味方を作りなさい、小さく儚い探索者さん」




