忘れられない味 ①
「……あ、美味しい」
着席して5分は過ぎたか、まずおかきは卓上に提供された水を恐る恐る舐めてみた。
タメィゴゥの翻訳によると提供される料理は決まっているという事なので、手持無沙汰をごまかすためだったがこれがなかなか美味い。
どことなくハーブの香りが立つ水はうっすらと甘酸っぱく、緊張で火照る身体を冷やしてくれる。
水そのものも水道のカルキ臭さなどまるでなく、自販機で売られている天然水ともまた格が違う質だ。
口当たりが柔らかく、舌の上に爽やかさだけを残してさっぱりと消えていく。 おかきは初めて飲んだ「美味しい水」というものに驚愕し、同時にこのレストランの腕前に期待を膨らませた。
「あちさみせさたも」
「えっ? あ、はい、ありがとうございます?」
おかきが感動している間にやってきた電球頭のウェイターは、銀色の丸い蓋が被せられた皿をテーブルにサーブする。
そのまま流麗な所作で開けられた蓋の下から湯気とともに料理が現れると、おかきは大いに首を傾げた。
「これは……卜垣さんが説明できなかったのも納得ですね」
湯気とともに立ち上る香りは炭火の香ばしい匂い、しかし皿の上に乗っていたのはコーヒーゼリーに似た光沢をもつ黒い煮凝りのようなものだった。
うっすら透き通る煮凝りの中には照明の灯りを受けて輝く粒が散りばめられ、さながら夜空をそのまま切り取ったような美しさだ。
煮凝りを中心に平皿へ塗られた赤と緑のソースを見るかぎり、ともすればこれはテリーヌに近い料理なのかもしれない。
「いるっくよg」
「ごゆっくり、と言っているぞご主人」
「前菜……でいいんですかね? まあ、一緒に食べてみましょうか」
ウェイターはおかきのものより一回り小さい皿をタメィゴゥの前に置くと、軽く一礼を残して厨房へ戻っていく。
湯気が立っているところから温かいうちに食べる料理なのは間違いない、冷めてしまう前におかきはフォークとナイフを手に取り、煮凝りを切り分ける。
見た目はツルリとしているが、サクサクと瑞々しい野菜を切るような手ごたえだ。 そして刃は手入れが行き届いているのか、少ない力ですんなりと切り分けられる。
「ううむ、不思議ですね。 タメィゴゥ、そちらも切り分けますか?」
「問題ないぞ、ご主人の手を煩わせるわけにはいかない」
タメィゴゥは殻の隙間から伸ばした触手を操り、器用に料理を切り分けていた。
一口大のサイズまで切り分けると、そのまま殻の内側に放り込んでムシャムシャと咀嚼する。
殻に隠れて顔色は分からないが、おかきにはタメィゴゥが喜んでいるように見えた。
「うむ、うむ。 美味しいぞご主人、これならご主人でも食べて安心だ」
「そんなことを気にしていたんですか、怒りますよもう」
「むぅ、なぜだ」
たしかにこの煮凝りは食べていいものなの気になっていたが、タメィゴゥを毒見役にするほどのことではない。
いったいその自己犠牲精神は誰に似たのか、憤りながらおかきも煮凝りを一つ口に運ぶと……
「……んむっ!? 美味し……美味しい? いや美味しいですよこれ」
舌の上に押し寄せてきた混乱に怒りなどどこかに吹き飛んでしまった。
まず驚いたのは見た目とは裏腹にサクサクとした触感だ、ナイフで切り分けた時と同じように瑞々しい歯ごたえが心地いい。
噛みしめるほどにじみ出す旨味のスープは見かけの体積を超えて溢れ、口から零れそうになるほどだ。
一口だけで満足感がすさまじい、だがまた次の一口が食べたくなる。 まさしく卜垣が説明できなかった未知の味わいだ。
「……これ、まだ前菜なんですよね?」
「うむ、“終わった星の型焼き”という料理らしいぞ」
「焼き料理なんですねこれ、でもどういう材料が使われているんだろう……」
「――――お気に召していただけましたか?」
湧き上がる食欲をこらえながら、しげしげと料理を観察するおかきに声が掛けられる。
それは電球頭のウェイターが話していた不明瞭な言葉ではなく、はっきりと聞き取れる日本語だった。
「ああ、申し訳ありません。 わたくしこの店のオーナーのキムンと申します、人の言霊を介せるスタッフが不足しておりまして」
「それはわざわざオーナー自らご親切に……えっと、藍上おかきと申します」
「ナンカノ・タメィゴゥだ」
キムンと名乗り、深々とお辞儀するオーナーの頭部はクマだった。
愛らしいキャラクターとして描かれることも多い動物だが、人の身体の上にクマの頭が収まっている姿は異様としか言いようがない。
だがその目には肉食獣のギラギラとした攻撃性はなく、理性的で柔らかい光が宿っていた。
「恐れ入ります。 当店に人が訪れる機会は少なく、対応が不親切で恥ずかしい限りです……卜垣様のご友人でお間違いないでしょうか?」
「はい、彼女からこのお店の噂を聞いて探していました」
「左様でございましたか、わざわざお越しいただき誠にありがとうございます。 当店は忘れられしお客様の憩いとなる場所故、普段は身を隠しております」
「忘れられた……?」
「はい。 卜垣様は不運によって活躍の機会を失い、人々の記憶から存在が薄れていたところでございました。 ゆえに当店にたどり着くことができたのでしょう」
「…………なるほど、そういうことでしたか」
一度は部長であるロスコとともに舞台へ上がる大役へと抜擢された卜垣。
部内の期待度も高かったはずだ、しかし不運なケガによって主役を降板。
代わりを務めた役者に皆の注目が集められた結果、一時的に卜垣の影は薄いものとなってしまった。
「つまり卜垣さんがこのお店にたどり着いたのは私のせいであると……」
「気にするなご主人、この店から邪悪な気配は感じない。 きっと本人にとっても良い巡り合わせだったはずだぞ!」
「そう考えたいですね……そして私がこの店にたどり着けたのは、“早乙女 雄太”のおかげですか」
藍上 おかきとして生活するほど、かつての肉体だった早乙女 雄太の存在は薄まっていく。
SICKの情報処理もつつがなく終わった今、以前の職場でもだんだんと存在を忘れられていてもおかしくはない。
卜垣同様忘れられた者としての条件を満たした結果、偶然この店へたどり着いたのだ。
「職場関係は良好だと思っていたんですけどね、複雑な心境です……」
「我々がついているぞご主人!」
「タメィゴゥは優しいですね……それでキムンさん、私に話しかけてきた理由は?」
「それがお客様の求めるものでしたので」
たしかにおかきがこの店を探していたのは、卜垣の依頼兼SICKとしての調査が理由だ。
ただ料理を食べて帰るだけでなく、この店に関する様々な情報を持ち帰る必要がある。
こうしてオーナーと対面し、質問を交わせるのはこれ以上ないチャンスといってもいい。
「次の料理が提供できるまで少々お時間をいただきます、その間わたくしが応えられることであれば――――なんでもお聞きください、藍上様」




