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「お帰りなさいませ、ハインリヒ様」
屋敷へ戻るとフォルカーさんもアンナさんも、いつもの主人への挨拶だけするとハインリヒ様のコートとスケート靴を受け取り、早々に玄関ホールから居なくなってしまった。
アンナさん辺りには今日の報告を聞かれるかもと思っていたのだが、私は空気のように存在を無視されたままだった。
「ティアナ、俺の部屋に行こう?リボンをつけて」
「あ、勿論です」
ハインリヒ様に手を引かれ私は二階の彼の私室に入った。
「あ······櫛。わたしの部屋からとってこないと」
「携帯用のでいいよ。いつも持ってるだろ?」
「わかりました」
バックから携帯用の小さめの櫛を出し、ゆっくりと丁寧に、アイスブルーの長く美しい髪を梳かす。椅子に座っているハインリヒ様は静かに目を閉じた。
「今日は楽しかったですか?ハインリヒ様」
「ああ。楽しかった。ティアナと二人で沢山笑い合えた」
「ふふ。スケート沢山転びましたからね」
髪を肩の横で緩く束ね、買ってきたばかりの紺色に金色の刺繍のリボンを括った。
「お誕生日、おめでとうございます。ハインリヒ様」
「有り難う」
ハインリヒ様はゆっくりと振り返り、立ち上がって私の手を取った。
「ティアナ」
優しく私の名を呼び、瞬きを一度すると、髪と同じアイスブルーの長い睫毛が上下に揺れて切れ長の眼にふわふわと乗っているのが見えた。
「お前がこの屋敷に来てもうすぐでまる2年だ」
「はい」
「俺はこの2年、お前の扱いにいつも困っていたんだ」
「へへへ。ごめんなさい」
「始めは随分疑っていたんだ。『贄の魔女』は召喚魔法陣で呼ばないといけないと聞いていたのに、突然弟子入り希望してきたんだ。ノエルが俺の元に来た時は本当に驚いたんだ」
「ああ。そうでしたね」
ハインリヒ様は静かに片手で鳶色の私の髪を撫でた。
「すぐに師匠に手紙で相談をしたけど、『魔女の自由にさせてやれ』と言われ、俺は致し方なく弟子としと屋敷に置いたんだ」
「え、そうだったんですね」
「元々他の魔術師の元に行かせないようにするため以外に、お前を手元に置いておく理由なんて、本当は無かったんだ」
「そんなことも言ってましたっけね」
瞼をそっと閉じると長い睫毛の影が白く美しい肌に落ちた。
「なるべく関わらないようにしようと思ってたんだよ、始めは·······それなのに」
「······ハインリヒ様?」
開けられた瞳は濃紺の宝石みたいに小さな光をたくさん孕んで輝いている。
「お前ときたら、弟子希望の癖にまるで勉強しないし、馬鹿みたいに手はかかるし、しょっちゅう俺のそばに引っ付いてくるし」
「うんうん。我ながら悪行三昧でしたね」
「人の心に土足で入って荒らしても片付けないし、かと思うと魔法で俺の気持ちを鷲掴みにするし」
「ああ、聞けば聞くほど酷いですね」
「······初めての『審判』に一人で向かった時、俺は怖くて怖くて震えていた。お前に相談も出来ないまま俺はあの仮面を被ろうとしていた」
「········そう、ですか」
「現場まで来て、立ちすくむ以外何も出来なかった俺の前にお前が現れた時······俺の前で『審判』の仕事を一人でこなすお前を見たとき、俺は初めて思ったんだよ。『贄の魔女』が助けに来てくれたと。歴代の当主の言い伝えは、決して嘘では無かったと」
「················」
ハインリヒ様はゆっくり屈んで掴んだ私の手を自身の額にあて、また瞼を閉じた。
「俺は、王子であった頃から何でも一人でこなしてきたんだ。元々、王太子からは程遠い第5王子、後見も無くいつかは王城を出ていく必要があることもわかっていたから。何でも一人で出来るつもりでいたんだ。そのつもりで努力もしていた」
まるで懺悔をするかのように、彼は語り続けた。
「魔術師になっても誰かを頼るつもりも無かったし、誰かを信じるつもりも無かった。『贄の魔女』の召喚について師匠から聞いたときも、絶対に召喚などしないと決めていた。自分達の仕事の為に、可哀想な女性を無理やり呼びつけるなんてあんまりだと思ったから」
ゆっくりと瞳を開けると、眉を下げ、彼は私の顔を見つめた。
「審判のあと、お前言ったよな『一人で泣かないで』って。『あなたの涙は私が受け止める』って。俺はお前に何の相談もしなかったのに。お前のこと何にも信じていなかったのに。勝手に魔女は可哀想な女性だと決めつけて、いざとなったら自分じゃ戦うことすら出来なかったのに。涙も止められないぐらい不安と恐怖に押し潰されていた俺を、支えて助けてくれたのは、救ってくれたのは、紛れもなくティアナだった」
少しだけ潤んだ瞳が午後の陽光で反射し輝いて見える。首を傾げて私を見るハインリヒ様の髪が肩からさらりと落ち、着けたばかりの紺色のリボンが少し揺れていた。
「··········私は·····」
「一緒に過ごすうちに少しずつお前に対する意識が変わったよ。だけど、お前は一貫してハチャメチャなことばかりしでかして、俺を困らせてばかりだったけど」
「······そうですね」
「こんなにも自由で、素直で、俺を振り回す人間を初めて見たんだよ。気がついたら、俺にとってのティアナは、魔女という存在でも弟子という存在でもなくなっていた」
「·········?」
「愛しい······恋しい女性。毎日触れたくて、恋い焦がれて、うまく言葉にも出来なくて泣かせるまで抱き締めていた」
「·········ハインリヒ様······?」
「好きなんだ、ティアナ。押さえられないくらい、お前が好きで、恋しくてたまらない」
頭が真っ白になり、目の前のよく知っていた筈の彼が、全く知らない誰かに見えた。
掴まれた両手の先に、静かにハインリヒ様の唇が触れたのを感じた。
「ティアナ、俺の恋人になって」




