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翌朝、私達はいつもより早起きをして支度を整えた。
朝起きるとハインリヒ様は部屋にはいなくて、リビングに行くとサミュエル様と話し込んでいた。ちゃんと睡眠をとったのか定かでない。
ハインリヒ様は午前中に半休をとることにしてイリスについてきてくださるという。
ぎこちない起床後の雰囲気を、手土産のコーヒーを皆に振る舞うと、強ばっていた表情が少しほどけるのがわかった。
サミュエル様は私には何も聞かなかった。昨夜は深夜までハインリヒ様と話をしていたようだが私が呼び出されることはなく、朝もいつものように明るく挨拶をしてくれた。
レナルドの姿は見えなかった。今日は一日休ませるという。連日の幽霊騒ぎでだいぶ心身に疲労が溜まっていたようだ。
「有り難うね、ティアナちゃん」
「·····ありがとう?」
昨夜の私は謎の幽霊に話しかけていた、頭のおかしな人間だったはず。気持ち悪いと捉えられていたと思っていたのだが。
「ああ。有り難う。感謝してるよ」
サミュエル様はそれ以上何も言わなかった。
◆◆◆
ハインリヒ様と私は馬車で一度ヴァンゲンハイム邸に戻り、レナルドの持っていた玉を処理するため私の部屋からノエルと三人でイリス海岸に転移した。
人気の無いエリアまで行き、彼女の名前が解らなかったので大きな声で
「約束どおり『眼』持ってきたよー!」
と叫んだ。
途端に周囲の音が一斉に消え、ゴポン····っと水の音がし、一瞬で居場所が変わった。水中に沈められたような薄灯りが揺らめく空間に私は居た。
「ノエル、ハインリヒ様?いる?」
いきなり視界が水の中になって、慌てて状況を確認しようと周囲をキョロキョロと見回す。
「いるよ。異界にチャンネルを切り替えられた」
ノエルの声が耳元で聞こえた。
「ティアナ、なんだここ······」
「あ、居ましたね。あまり動かない方が良さそうです」
ハインリヒ様は、動揺している。薄暗すぎるのと、波の揺れで二人の姿がはっきり見えない。
「魔女、『眼』を持ってきてくれて有り難う」
目の前に現れたのは七色の長い髪を揺らめかせた女性だった。手には鉾を持ち、右目は金色、左目はあのブルーとグリーンの波打つ玉が煌めいていた。
「どう致しまして。あなたの名前を聞いてもいい?」
「私はネーレーイス。あなたには前にも会っているわ。久しぶりね、魔女」
昨日よりもはっきりと彼女の声を聞いた。美しく滑らかな透き通る声だ。
「そうだったのね。忘れてしまってごめんなさい。私はもう前の私とは違うから······良かったら、昨日言っていた魔法を教えてくれる?」
「約束は守るわ。私が教えた前の魔法は忘れてしまったの?」
「うん。忘れちゃった」
「ならば思い出して。もう一度見せてあげるわ」
スッと掲げた鉾からブクブクと泡が吹き出した。視界いっぱいが泡だらけになった瞬間に深い深い海の映像が見えた。
静かな水。ポコンとひとつ、泡が見え、またひとつ、またひとつと泡が湧き出る。ぐるぐると渦が出来初めたと同時に上からキラキラと光が降り始め、ザバンと波を被った。冷たい波飛沫を体いっぱいに浴びて思わず目を瞑った。
ゴボゴボと音が聞こえてゆっくり目を開けると、明るい海の中にいた。色とりどりの魚がそこかしこを泳ぎ、日の光が入り込み辺りをユラユラと反射して照らしていた。
なんて美しいのかしら。
小魚が列をなしてダンスをしていた。黄色の魚はくるくると、青の魚は勢い良く、各々が飛び回り、自由に駆け巡る。海藻が揺らめき、珊瑚は海中の光で輝くようだ。
嬉しくて、心が弾む。この青さに。
ああ。何で忘れていたのかしら。この喜びを。
熱い涙が目尻から流れた。
「見た?魔女」
「有り難う。ネーレーイス、見たよ」
「約束は守った。私は行く。──魔女、まだソイツと一緒にいるの?」
「うん。ノエルと私は友達。今までも、これからも」
「私と友達に、なる?」
「ごめんね、ネーレーイス。友達はノエル一人だけなの」
「そう──。あなたなら、いつでも友達になってあげる。いつかまた私にもあなたの魔力を触らせてね。またね、魔女」
「有り難う、またね、ネーレーイス」
ネーレーイスは私とノエルをちらりとだけ見て、泡になって消えた。
目を閉じると、またゴボンと泡の音が聞こえ、そろりと目を開けると、イリスの海岸が目の前に広がり、波と風の音が聞こえた。




