三章 一話 ハドリア・ヌスレイ
三章 一話 ハドリア・ヌスレイ
誠司は部屋に通されて、両袖机の奥に腰掛けるハドリアという男の前に立たされた。
部屋は簡素に装飾されていたが、一つ一つの木製家具が光沢を帯びている。
窓から漏れる明かりに照らされながら、ハドリアが口を開いた。
「村役のハドリア・ヌスレイだ。君には訊きたいことが幾つかある。いいかな?」
開口一番、ハドリアが誠司に言った。
断れるような雰囲気でもなく、誠司も正直に答えるつもりである。
ハドリアは一枚の紙を、両袖机の上に広げると、拳でこつんとその紙を叩いた。
「これは昨日の夕方に緊急で出回ったルティンの手配書だ。時間の関係上、恐らくシエドの国では夜に紹介所に入り、今朝に出回ることになったはずだ」
ハドリアは手配書の端を持ち上げて、誠司に突き付けるように見せつける。
「知っていますよ。俺たちも、その手配書を見て、ルティンの情報を集めに来たんです」
誠司は、自身がこの部屋に連れられた理由がわからなかったが、なにかを追及されている空気だけは感じていた。こうなれば、正直に答える他はない。
ハドリアは大きな溜息を吐いて、誠司に続けて言葉を返す。
「それがおかしな話だということだ。だいたい町の紹介所が開く時間は同じようなものなのに、君たちは誰よりも早くこの村に着いてルティンの情報を集めようとしている。それもその様子から、今厳重に警戒されている関所は通らずに山を迂回してきたとみえる。早朝に町を出なければ、説明がつかない。どこから情報を仕入れた? 場合によっては、領主の元に連れていく」
ハドリアの眉が吊り上がり、その言葉は叱責に似た感情がこもっていた。
だが、それでも誠司は正直者を貫くだけだった。
「ハドリアさん……ですか? なにを怒っているのか知りませんけど、困っているのは俺のほうです。俺はルティンに誘拐されて、気づいたらシチーという町にいたんだ。見知らぬ土地で、言葉だけは通じるけど、とても困っている。だからルティンを捕まえて、どういうつもりなのか問い質したかっただけなんだ。連れの友人は……まあ、賞金目当てみたいだけど、俺は賞金なんかよりもルティンという男に文句がある。あなたも友人なら、少しくらい協力してくださいよ」
ハドリアは、誠司の言葉に胸を貫かれたような衝撃を受けたようだった。
「ルティンが……誘拐? いや、それよりも最近までシチーの町にいたのか!?」
「シチーの町の近くの山小屋で、俺はルティンに会いました。どうやらルティンの目的は、この国の王様の命を奪うことらしいですが、なぜ俺を連れ去ったかは知りません」
「国王を……!? そんな、バカな話……」
ハドリアはひどく混乱した様子で席を立つと、誠司の右腕をつかんで袖を捲る。
「まず君がどこの誰なのか、話はそれからだな」
ここ数日の短い間ですら、幾度も確認された右腕の“身分印”を、ハドリアは探した。
だが、これまでと同じように、誠司の腕にそのようなものは見つからない。それをまたハドリアにも説明しなければならなかった。
「俺はこの国の人間じゃない。身分印といかいうやつはない」
「身分印がない……?」
驚くハドリアに、誠司はすでに慣れた対応だった。
「国外から海を越えてルティンに攫われたんだと思います。だから俺にはそんなものない。だけど、ルティンに攫われた日から、こっちの腕にはなにかあるみたいですけど」
もう好きに調べてくれ、とでもいう風に誠司が反対の腕を見せた。
「アトン式のストックか……。ルティンが君に授けたものだとでも言うのかい?」
ハドリアは法螺話にでも付き合うように、誠司が差し出した左の腕を嘲笑しながら確認したが、すぐにその顔から血の気が引いた。
直後には、押しつぶされるほどに強く握られた誠司の左腕から、赤く光る文字が宙に飛び出して部屋を埋め尽くした。
ただ、初めてのことではない光景に、誠司も落ち着いていた。
直前にノエルも同じようなことをして、誠司の左腕にルティンの影を見たからだ。これはいわば、誠司とルティンを繋げる証拠でもあった。
しかし、このハドリアにノエルと異なる点があるとすれば、彼はルティンの友人であり、古くは共に神童と謳われた男であったことだろう。ハドリアの赤い文字を目で追う所作が、誠司にはノエルと違うように見えた。
具体的に表現するのならば、それは理解できないものに驚くノエルと、理解した上で驚くハドリアの差かもしれない。
ハドリアは顎に手を当てながら、誠司に一つ一つ問いかけていた。
「君……そういうえば、名前は?」
誠司も一つ一つ、丁寧に答える。
「黒野誠司……一応、二十三歳」
「時の魔術師……? それは本気で言っているのか?」
「はい。俺にはそれのなにが冗談なのかもわかりません」
「そうか……。なら、いい。ルティンと以前に会ったことは?」
「一度もありません。たぶんすれ違ったことすら、ないと思います」
「ルティンには、どこで攫われたんだい?」
「自分の家です。気づいたら、山小屋のなかにいました。だけど、ここはとても遠い国だと思うから、きっと気絶でもしていたんだと思います」
「だとすると……なぜ言葉が通じるんだと思う?」
「えっ……? それは……」
すらすらと答えていた誠司の調子が淀んだ。
この質問だけ、むしろハドリアがその答えを知っているような口調であった。
ハドリアは宙に浮かんだ赤い文字を手で振るって消し去ると、再度椅子に腰掛ける。
「若い頃……私もルティンと共にアトン学術所の学生として過ごしていた」
ハドリアの口調が落ち着きを払って、いつの間にか誠司への猜疑心が消えているようだった。
自分の過去を語り出したのが、その証明かもしれない。
「昔は貴族の子供だけが入学を許されるアトン学術所だったが、カイトラは現在の王に変わってからというもの、積極的に平民からも才能のある者の入学を許可しはじめた。そして私たちは二人一緒に無事に卒業したのだが、私は村役の家を継ぎ、ルティンはそのまま研究者に……」
ハドリアは過去を懐かしむように笑うと、目を瞑って首を振ってから、
「すまない。話が脱線してしまったね。とにかくルティンは研究者として優秀な実績を積み上げると、国内でも極少数のエリートである“魔術研究職”に就いたんだ。魔術の基礎知識は、学生でも学ぶ。太古に存在した四人の魔術師が、大陸を激変させるほどの災害を起こしたと教えられる。ルティンはその魔術師ついて長らく研究していたのだが、その四人の魔術師というのが――」
時の魔術師、魂の魔術師、心の魔術師、無の魔術師
静かな昼下がりの部屋に、春の新鮮な山風が吹くようにハドリアの声が響いた。
「クロノ……セージ……」
自分の名前が呼ばれて、誠司はルティンの驚いた顔を思い出す。
「そう君の名前だ。そして偶然か否か、その名を持つ君は、ルティンの失態によって呼び出されてしまったのだろう。ルティンは恐らくだが……魔術によって王の暗殺という目的を果たそうとしたが、失敗した……。君がどこから呼び出されたかは知らないが、ルティンの被害者であることは間違いないのだろう。友人の私から謝罪させてもらう」
頭を下げるハドリアに、誠司は顔を上げるよう頼んだ。
謝罪など受けても仕方がない。問題は、ルティンが何に失敗して、なぜ自分がここにいるかを解明することである。
「ルティンは、たまたま俺を誘拐したってことですか!?」
今度は誠司が語気を荒らげて、ハドリアを追及するような立場になっていた。
「誘拐じゃない……。間違えて、呼び出してしまったんだ」
「呼び出した……?」
「古の魔術のなかに、神魔の召喚術というものがある。私たちが足を踏み入れることのできない神域に存在するとされる神魔を時空魔術で呼び出し、言葉が通じない神魔と心理魔術で対話し、願いの対価として人間が持つとされている“魂”を差し出す、一連の流れによる魔術だ。だが、ルティンはその一連の流れで何かをしくじって、君を呼び出してしまった」
「呼び出した……」と、誠司は何度も呟いていた。
呼び出した、とは何なのか。
それを言葉通りに受け取るならば、あまりに突飛な現実である。
人が人を――遥か遠くから呼び寄せた。あと数百年もすればそんな未来も訪れるのだろうか。少なからず、今の時代には考えられないことであったが、
「だったら、ルティンを見つけたら俺を帰してくれることもできるんですか?」
「無理だろう。君がどこから来たのかもわからないし、そもそもルティンの術式は失敗していた」
「日本ですよ! 日本から来たんです! 地図さえ見せてくれれば、俺が場所を教えますよ!」
誠司が両袖机を叩いて、強く主張する。
ハドリアに八つ当たりしても仕方がないことはわかっていたが、一向に故郷への帰路が見えないことにはストレスを感じていた。帰る手立てが見つかるまでの間くらいは、物事を楽観的に捉えようと努力はしていたが、無責任なルティンへの苛立ちを友人のハドリアにぶつけていた。
ハドリアは迫られて、渋々といった風に戸棚の引き出しから地図を取り出す。
机の上に広げて、誠司に故郷を訊ねた。
「ここが私たちの住むカイトラの国だ。君は……どこの国の生まれだって?」
ハドリアが指差す地図を、誠司は隅々まで見渡した。
日本はおろか、五大陸にも似つかない大きな大陸のなかに、カイトラという国は存在しているようだった。
「国内の地図じゃなくて、世界地図を見せてください!」
誠司はハドリアの引っ張り出してきた地図を、世界のほんの一地方だと仮定して否定したが、
「これは紛れもなく世界地図だよ。この大きな大陸を中心に、あとは小さな周辺諸島と、海を越えた東西南北に人の住まない未知の大陸があるだけだ」
「未知の……そんなわけっ! アメリカは? 中国は? ヨーロッパもインドもアフリカも、いったいどこにいったんですか?」
「なんだい、それは? 地名かい? かつて私も学術所時代には、ある程度大きな国の書物は幾つも目を通したが、どれも聞かない名前だね」
ハドリアに断言されると、誠司は背筋に冷たいものを感じた。
やはり、何か変だった。電話もテレビもパソコンもないけれど、机の上の地図は精巧で美しい。町や村に居並ぶ建物も丈夫で飾り気があり、道は山中でなければ凡そ平らである。
文明のレベルは高く、互いの国々の情報も行き来している。そして極めつけに、ハドリアの地図から推測されるシチーの町とノハラの村の体感距離からいっても、この大陸は相当に大きい。
「ヌン大陸……」
聞いたこともない大陸の名前を口にして、ハドリアの言葉を思い出していた。
――間違えて、呼び出してしまったんだ。
間違えて、呼び出した。遥か遠くから。遥か、遠く。
誠司は不意に、小さい頃に読んだ童話の記憶が脳裏に蘇った。
小さな女の子が家ごと竜巻に飛ばされて、辿り着いたのは魔女が存在する不思議な王国。
その愉快な冒険譚の内容はさておき、誠司は童話の小さな女の子と自分が重なってしまった。
誠司の額から、汗がぽたりと一粒地図の上に滴った。
「……あっ、す、すみません」
服で拭いながら、誠司は目の焦点をどこに定めるわけでもなく地図に落としていた。
まるで空中にふらふらとさまよう誠司の思考を、ハドリアが引き戻す。
「クロノ君……いや、クロノ・セージ殿。我が友、ルティンのせいで不幸に見舞われていることを重々承知しながら、君に勝手なお願いをさせてくれないだろうか?」
ハドリアの唐突に要求に、誠司は顔を上げるだけで精一杯だった。
彼は続けて矢継ぎ早に、誠司の言葉を待たず、その肩に手を置いて力を込めながら、
「勝手な願いだとはわかっているが、ひとつ頼みがある。どうかルティンから、この事件の真相を聞き出してほしい。ルティンは現在の国王を敬愛していた。きっと私たち民には見えない何かが、ルティンを凶行に走らせている。それを突き止めてくれないか?」
肩を揺さぶられ、誠司は戸惑った。
ルティンという名の小石が水面に投げられて、その波紋が徐々に大きくなる様子を眺めているようだった。ルティンは捕まえるつもりでいたが、段々と話が大きくなってきている。
本当に身勝手な話であった。なぜ今日会ったばかりの、それも誠司を困らせている男の友人の頼みを聞かなければならないのだろうか。
そんな葛藤も半ば誠司の胸中にあるなかで、ハドリアの双眸がわずかに笑みをたたえて、
「もちろん、それなりのお礼はするつもりだ。成否に拘わらず幾らかの契約金に、成功した際の報奨金。この村で揃えられる限りの持ち物、食料……そして――」
ハドリアは、ここまで並べたお礼が些細なものとでもいうように、一旦の間を置いてから最後の報酬を口にした。
「君の左腕の二つのアトン式……その正体と使い方を教えよう」
ハドリアの触れていた誠司の右腕が、薄っすらと赤く光った。