二章 五話 ノハラの村
二章 五話 ノハラの村
誠司の関心事は日に日に増えていく。
ノエルと川を渡ってから、誠司は自分の足に服の袖を千切った布を巻いた。村が近いと彼女は言っていたが、これ以上裸足で歩くわけにもいかない。
川を渡った先の開けた草原で倒木に腰かけながら、一時的で簡易な布の靴を拵えた。足の甲で作った結び目を強く締めながら、誠司は遠くの山を見上げるノエルに声をかけた。
「お前があんなことできるだなんて……思わなかったよ」
ノエルは山を見上げたまま、自信たっぷりに笑った。
「十八歳から今まで、あれ一つで食べてきた……。音速っていうのは嘘だけど、独自のアトン式っていうのは本当なんだよ。アトン式を自在に書き上げるほどの頭はないけど、下働きのときに他の職人から見て盗んだものを幾つも組み合わせてみては試したの。たまたま上手くいったのね」
ノエルの遠い山を見上げる目が、過去を懐かしむような念を滲ませている。
「アトン式……ね。俺にはよくわからないけど、この国では一般的なものなのか?」
誠司が話を過去から現実に引き戻す。
ルティンを知るには、このアトン式という言葉も避けては通れないのだろう。
ただノエルは一言、
「田舎者……」と、誠司を嘲笑して歩き出してしまった。
ようやく山裾を辿った、平らな道に戻ってきていた。木々が雲海のように広がる自然の景観のなかを、整備されている道が人の営みを匂わせていた。
傍から見る山並みはなだらかで、ここまでの自分たちの苦労が嘘のようである。
誠司はノエルに追いついて、茶化してくる彼女の左手首をつかんだ。
「もう田舎者でもなんでもいいよ! アトン式ってのは、岩を飛ばせるのか?」
ノエルはつかまれた左手を振り子のように揺らした。
「そんなもの式によって様々でしょ。岩も飛ばすし、明かりも灯すし、金属も作り出すよ」
「そうか。便利なもんだな? それじゃあ、つまりはノエルの腕には、岩を飛ばす科学的な技術が埋め込まれているってことなんだよな?」
「科学……?」
ノエルは途端に怪訝な表情を浮かべると、
「あんた……それは魔術と同様に禁忌ってもんでしょ。あたしをなんだと思ってるの?」
「ぐっ……いや、ほら! 俺は田舎者だから! 田舎者っ! なにもわからないから!」
誠司は謙りながら、ノエルに一から説明するように求めた。
「いくら田舎たって……貴族や領主くらいはいるでしょうに……」
ノエルはあらためて誠司を頭からつま先まで嘗め回すように観察すると、その存在を怪しんだ。
しかし、誠司に訊ねられることがあまりに常識的で、本当に子供でも知っているような知識であるだけに、ただの馬鹿なのだろう――と、哀れみを寄せて教えてやることにした。
「そうね。三つの違い……まず科学っていうのは、一般的には自然科学のことかしら。自然現象や物理現象を理論的に解き明かしたものよね?」
「うーん……。たぶん、そんな感じなのかな? そうだと思う」
「そう……それはわかるんだ。じゃあ、次にアトン学ね。アトン学は……一般的に魔法学のことを指すけど、科学と違うところは血の重要性でしょうね」
「血……? 血って……血のことか?」
誠司が空いている手の脈を見せつけて返した。
「そう、それが絶対的な違いなの。科学は同じ工程を踏めば、誰がやっても同じ結果になるんでしょう? でも、アトン学は違う。同じアトン式を使っても、血に混じる“三つの力”の分配と総量で結果が変わるの」
「うん……? う~ん!?」
「そして最後は、魔術ね。これは、どちらとも言えないかな。一般的には“魔術”という超常現象が存在すると言い伝えられているだけ。魔術は大陸の法律で一般の人間が研究することを禁止されているから、研究者以外は誰も詳しいことはわからないの」
ノエルが一息に喋り終える。誠司は隣で唸っているばかりだった。
おそらく丁寧に砕かれた説明だったのだろうが、誠司には科学とアトン学と魔術が別物だという理解しか及ばなかった。
つまり科学技術ではない力が岩を高速で飛ばし、山林を薙ぎ倒したというのである。
不思議な話であった。たとえノエルが勘違いをしていて、あの現象が科学技術で為されたものであっても、信じがたいものである。
だが、目にした以上は、起きたことに対しての事実を否定はできない。
少なくとも、ノエルは左の腕に岩を発射する大砲を仕込んだ人間なのだろう。
左腕に――。
誠司が不可解な面持ちでその左腕を見下ろそうとすると、彼女と目が合った。
「……どうした?」
「どうしたって……いつまで手、握っているのかなって」
ノエルがつかまれた左腕を主張するようにぐるぐると回した。
誠司は慌てて手を放した。
「いっ! あっ! 違うんだ! そういうんじゃないよ!?」
思わず照れくさくなってしまい、すぐそこに目についたものを適当に話題にした。
「ほら、水路が通っているぞ~~。もう村が近いんじゃないか~~?」
思いつきの言葉であったが、景観はたしかに変化していた。
木々に遮られていた視界も開けて、遥か遠くまで望めるようになってきている。
水路は青々とした水田に水を満たし、緑が萌えて風に揺らぐ光景が続いていた。
水田の先には家々が密集していて、シチーの町とは異なる文化のように、木造のログハウスが並んでいるのが特徴的だった。長らく一本であった道も、大木の幹から枝が広がるように、二股や三股へと分かれていく。
ノエルは敬礼のように額に手を添えると、遠くまで眺めながら呟いた。
「それなりに広いんだよなぁ……。二手に分かれて聞き込みしましょう」
「えっ……、俺ここの村初めて来たんだけど!?」
「わたしだって、前に一度通りがかっただけだよ。なにが心配なの?」
そう言われてしまうと、まるで自分ばかりが頼りのない子供のようだった。
誠司は強がりを含んで、少し先の道が二股に分かれる場所を指差した。
「ノ、ノエルが大丈夫ならいいんだ……。だったら、あそこで左右に分かれよう」
「そうしましょう。それにしても……綺麗な田んぼね。シエドの国だと、畑といえば麦だから水田は珍しいな。秋になったら稲穂をつけるんでしょう?」
ノエルの関心が水田に移っていた。
「そうだろうな。古くから人の歴史は食に左右されるって……よく友達が言っていたよ」
誠司は相方だったヒデの言葉を思い出しながら、懐かしむように言った。
ノエルと一緒になって、波のようにそよぐ青々とした稲穂に見惚れていた。これが色づくのはまだ先の季節であるが、見る分には青田もまた美しい。
二人で心地の良い沈黙を過ごして、二股の道で分かれた。
「日が暮れる頃に落ち合えばいいよね? わたしが探すから、好きなところを周ればいいよ」
「そうか、助かるよ。じゃあお互い好きに周ろう」
誠司は爽やかに返して、ノエルの背中を見送りながら、
「さて……どうすればいいんだ?」と、独りで困り果てることになった。
聞き込みといっても経験なんてないし、もちろん知り合いもいない。
言葉が通じることだけが唯一の救いであったが、文化は異なる人々であった。
「ノスタルジックではあるけどさ……」
誠司はひとりで呟きながら、青田に挟まれた道をゆっくり歩いていく。
しかし、水田が広がっている光景には多少なりとも安心感を覚えた。これで言葉も通じるならば、国境というものも気の持ちようかもしれない。
そんな風に思って、誠司はたまたま通りすがった村の人に手を振ると、気軽に声をかけてみることにした。
着古した布服を腰の帯で結び、足に脚絆を巻いた中年の男が足を止める。
「すみません。ここは……なんだっけ? そうだ、ノハラだ……ノハラの村ですか?」
男はあからさまに誠司を不審がるように、目を顰めていた。
「そうだけど……お前、ずいぶんと汚い格好をしているなぁ……。どうしたんだい?」
男の反応は当然のものかもしれない。誠司の旅装は泥に塗れて、酷い箇所は破れていた。靴は片方を履いておらず、一時的に布を巻いただけの、誰が見てもみすぼらしい姿である。
だが、誠司のほうは引け目もなく、素直に会話を返した。
「どうしたって……ああ、これですか? ハハッ、長いこと山の中を歩いていたら、こんなんになってました」
その邪気のない落ち着いた様子に、かえって村人は警戒を強めて、
「山の中を……ねえ。それは大変だったな? すると、ここらの人間じゃあないんだろう。道にでも迷ったのか?」
「いやぁ、どうなんでしょう。シチーというところから友人に付き添って来たんですけど、まともな道じゃなかったから、あれはきっと迷ったんでしょうね」
「シチーから山のなかを通って、この村に……? 馬鹿正直に話すんだなぁ。そいつは堂々と関所を破ったって言ってるようなもんだろう?」
「えっ……? いや、破ってはないです。回り道をしただけです……」
――道と言えるかは怪しいところでしたが。
誠司がそう真面目に返したのが余程面白かったのか、村人は警戒をわずかに薄めると、大きな口を開けて笑いはじめた。
「なっはっはっは! 面白いやつだな! でも、うろうろされるのはたまったもんじゃねえ。なんの用事でこの村に入ったんだ?」
「用事……ですか? そりゃあ、この村の出身だっていう、ルティンっていう男の……あっ!」
誠司は言いかけてから、ノエルとの会話を思い出した。
ルティンを捕まえようとする者に、村の人は素直に情報を渡してくれないだろう。
だが、ここまで言ってしまえば村の男もすぐに勘づいた。
「ルティンのことか……。すると、もうシエドの国までルティンの逃亡が広まっているんだな」
「えっ……いや、どうでしょうね」
「隠したってしょうがねえだろう? お前みたいな能天気な野郎まで知っているとすれば、その噂は国中に伝わっているに違いねえ。当たり前だが、大事になってるんだな……」
男は表情に影を落として考え込むと、能天気呼ばわりされて沈黙していた誠司を呼び寄せた。
「ついて来い。能天気な野郎だといっても、ここまで怪しい人間を好き勝手に村のなかで歩かせるわけにはいかないからな」
男に腕を取られて、半ば強引にどこかに連れられる。やがて男は周囲の村人にも声をかけると、誠司は計五人の男に囲まれて、逃げ場もなく水田の先にある家並にまで連行されてしまった。
男たちは、そのなかでも一際大きい家の前で立ち止まる。その家も、他と同じように丸太を構造材として建てられたログハウスであったが、他と比べて外装の飾りが美しく立派で、ほとんどが木材の素材のままの色合いである家々に対して、窓枠や入り口の扉が純白に染められ、一目で特別な場所だとわかる造りであった。
一人の男がその家に出入りして、なにか家主と話し合っているようだった。
誠司は家の前で少し待たされてから、男たちに家主と引き合わされることになった。
「なんですか、ここは?」
誠司が入口の扉を前にして訊ねると、
「村役である、ハドリアの家だ」
「ハドリア?」
「ルティンの幼馴染だよ。二人はこの村で、百年に一度の神童と呼ばれた天才だったんだ。ルティンのことを訊きたいんだろう? お前の処分のついでに、好きなだけ聞くといいさ。教えてくれるかは知らないけどな」
男たちに背中を突っ張られて、家のなかへと押し込まれた。
扉を潜ると、優しい木の香りに包まれた。深緑の絨毯が真っ直ぐに敷かれ、その先にまた一つあった扉がゆっくりと開いた。
扉の陰から、くせ毛の短い黒髪で、浅黒い肌の男が顔を覗かせた。
「関所を破ったであろう怪しい者が、村をうろついていると聞いた。なんでも国法を犯して国外に逃亡中のルティンの情報を探っている者だとか……。若いな……君か? 入りなさい」
誠司は状況も飲み込めないまま、奥の部屋へと招かれた。
なんだかルティンに近づく一歩々々が、深い底なし沼のようであった。