二章 三話 カイトラの国
二章 三話 カイトラの国
遥か遠くに連なっていた高い山々が、険しい壁となって誠司の行く手を塞いでいた。
草木は青々とした自然の高波となって隙間なく山腹に生え、その丈夫な根は山を支えるように大地に張り巡らされている。
誠司とノエルは荷台に揺られていた。どうやって交渉したのか、ノエルは道行く行商に声をかけると、二人を荷台に乗せてもらうように頼み込んで了承してもらった。
今はシチーの町から発って三時間ほど。とても人馬では越えられそうにない山の裾に沿って進みながら、関所に繋がる道幅の広い山間の道を目指していた。
雄大な自然の景観が、見える限りに広がっている。どこからか水の流れる音と、鳥の美しい鳴き声が聞こえて、ノエルは心地よさそうに頬杖をついていた。
ノエルの視線は落ち着きなく定まらない。道端に艶やかな花が咲いていれば花に、頭上に白い翼を広げた鳥が飛んでいれば鳥に、獣が草原を駆けていれば獣にと忙しい。
しかし、誠司の方はというと、荷台に背を預けながらただ一点を見つめていた。
御者台の上、行商の男が握る手綱の先に、力強く大地を駆けている生き物がいる。
数時間前、ノエルはこの乗り物を馬車だと言った。
飾り気のない簡素な造りだが、御者台に車輪の付いた荷台は、たしかに馬がそれを牽いて進めば馬車と呼ぶのだろう。
ただ誠司には、わからなかった。
はたして二本脚で歩行する、トカゲのような頭を持った謎の生き物が牽いている乗り物を、馬車と呼ぶのだろうか。
「なあ……、これって馬車だよな?」
今一度確認するために、ノエルに訊ねてみるが、
「なーに? 田舎じゃ珍しい?」
「いや、都会でも珍しいっちゃ珍しいけど……。とくにこの生き物、なんなんだ?」
トカゲ頭の小型の恐竜のような生き物を指して、誠司が言った。
ノエルはその質問に興味がなさそうに、移りゆく景色を目で追いながら答える。
「あんたは、本当になにも知らないのねえ。龍馬ね、龍馬」
「ドラム……? 楽器の?」
「ハァ?」と、ノエルはうんざりした様子で、誠司に自らの手の甲の側を見せると、中指と人差し指、そして親指の三本を立てた。
「なんだよ、それ?」
「教えてあげる。“クソ野郎”って意味のハンドサイン」
「ああんっ!? なんで俺がクソ野郎なんだよ!」
誠司が怒って彼女の手を叩き落とすと、ノエルは心底おかしそうに笑っていた。
「アハハ! 冗談だよ、冗談! いや、ハンドサインの意味は嘘じゃないんだけど……」
ノエルはもう一度“クソ野郎”のハンドサインを見せつけてくると、三本の立てた指を一本ずつ折りながら言葉を交わす。
「龍馬と角馬と髪馬、この三種類の馬が主に荷台を牽くことが多いわね」
ノエルの説明に呼応するように、御者台に座る商人の男が一瞬誠司に目線を送った。
「なんだ、お兄ちゃん。龍馬を見るのが初めてなのかい?」
「あっ、はい。初めて見ました。こんな生き物、いたんですね」
誠司が反応して、すでに向き直ってしまった商人の背中と会話する。
「へへっ、バカ言っちゃいけねえよ。俺たち行商にとって、馬ってのは相棒だよ。とくに龍馬は、髪馬と比べて脚こそ速くないが、とても勇敢で主人の身の安全を守ってくれるからねえ」
商人の男が、わずかに馬の顔に視線を傾けて笑っていた。
その間も、龍馬は力強く地面を踏みしめながら駆けている。誠司の知る馬とは似つかわしくない牙を剥き出しにして、たまに口角から涎を垂らしていた。
人の頭など丸ごと齧り取れそうな、立派な顎と牙の持ち主である。
「番犬みたいなものですよね。ここら辺は、そんなに危険なんですか?」
言うなれば小型の恐竜を従えるほど、治安の悪い地域なのだろうか。
誠司の純粋な疑問であったが、
「ここは関所に向けた大通りだから、比較的安全だよ。ただ、カイトラは山国だからね。どうしても人通りの少ない山道をひとりで進まなきゃいけないこともある。とくに今のカイトラは国内が不安定で、田畑の片手間に山賊稼業をする村人もいるなんて恐ろしい噂もあるくらいだ。備えるに越したことはないだろうな」
「さ、山賊……!? 村の人が?」と、誠司が声を上擦らせた。
国によっては、いるのだろうか。
だとすれば、相当に治安の悪い国であることは間違いないだろう。
「まあ、それは極端な例だがなあ。今のカイトラは、田畑だけ耕していれば食っていけるような生易しい国じゃないってことだ。なにせ山国。ただでさえ農耕面積が狭い上に、国土の4割近くがウェンスギー国の所有物で、小作人には重苦しい税金が掛かっている。それに加えて、お国自慢の錬金術師は年々減少傾向で、アトン学術所の研究費も減っているときた」
商人は一息に喋ったかと思うと、大きく息を吐きだしたあとに続けて、
「俺の見立てでは、この先カイトラが生き残るには、南西に下ってスーガの国の港町であるココックを掠め取るくらいしかないだろうね。ただしそれは過去に、自国に一度大きな傷跡を残して失敗しているんだよ。だから次に失敗すれば……カイトラという国ごと消滅するだろうな」
商人の男が、再びわずかに振り返って笑いかけた。
「ハハッ、難しかったかい?」
「難しいでしょうよ。アトンも知らない田舎者には……」
なぜかノエルが怠そうに返事をする。
すっかり誠司は、世間知らずの田舎者の扱いだった。
誠司は意地になって、商人の背中に言葉を投げかけた。
「なるほどな……。話が見えてきたぜ……」
威勢を張って、顔を引き締めると、商人の話に大仰に頷いて見せた。
雰囲気を作るために、顎に指を当ててみたりもしたが、
「嘘おっしゃい」と、ノエルが小言を呟いたのを、誠司は聞き逃さない。
「ほう……? 頭を使うことが苦手な小娘には、この程度の話が理解できなかったか?」
「なあっ!?」
ノエルが足を伸ばして、荷台のなかで誠司を蹴りつけた。
「自分にはわかったような言い方するのね!?」
「だいたいわかるだろう?」
「なにがわかるの!? 言ってみなさいよ! 国の名前もろくに知らないくせに!」
「へっへっへ」
誠司は笑ってごまかそうとも思ったが、このまま引き下がってしまえば、いつまでも世間知らずの役立たずというレッテルを貼られることは覚悟しなければならない。
それだけに、誠司は必死に頭を捻って商人の男との会話を反芻した。
「カイトラって国は……山国だ」
「……あんっ? 見たままそうでしょうよ。だからなんだっての?」
ノエルの苛立ちの混じった横槍を受け流して、誠司は思考を展開する。
「おまけに村人が山賊にもなるってんだから、きっと貧乏な国なんだろう……」
そんな世間話が楽しいのか、商人の男はちょくちょくと誠司に振り返ってくれた。
「昔はそうでもなかったけどねえ。今でもアトン鉱は採掘できてるが、肝心の錬金術師が育たねえっていうから困ったもんだろうな」
「そう困ったもんだ! 困ったもんなんだ!」
誠司は語気を強くして、政治家のようにノエルに語りかける。
「だからカイトラの国ってのは、選べる手段が現状二つしかない! 従うか、戦うかだ……」
「そんなもん、どこの国でもそうでしょう?」
「ちがうぞ、ノエル! カイトラには、現状維持という、一番無難な選択肢が取れない! 情勢や機会を窺う余裕もないんだ!」
誠司は鼻息を荒くして、知った風なことを言ってみた。
ほらを吹いたようなものである。てっきりすぐに反論を受けると誠司は身構えたが、オッドに聞きかじったルティンの話を思い出したのか、ノエルは意外にも声を弾ませた。
「ああっ、わかった! だからルティンは逃げ出してまで王様を亡き者にしようとしたのね? 戦争を止めようとしたんでしょ? ねっ、これが正解でしょ!?」
貧困な国。商人の話では、生き残る術は隣国との戦争に勝つことだけ。時勢に焦燥する王様。そんな無謀な強行を止めようとするルティン――。
ノエルの思い描いた筋書きは、シンプルなストーリーを素直に紐解いたものであったが、誠司は首を捻って一言、
「それは……違うような気がする」
なぜか否定する言葉が口から出てきた。
それは意地を張っているわけでもなく、ノエルが無茶苦茶なことを言っているわけでもなく、誠司に確たる根拠があるわけでもないのに、誠司の口からは自然と否定の言葉が出てきていた。
ノエルも面食らって黙ってしまう。誰も正解など知るはずもないルティンの考えを、理屈も抜きに誠司が知っているような空気が漂ってしまった。
「いや……! あくまで、気がする! 気がするだけだ!」
誠司は重苦しくなった空気を払うように、努めて明るい口調に切り替えると、
「でも、ルティンっていう男は賢いんだろう? だったら俺たちよりも、ずっと考えたはずだ。ずっと考えた先に出した答えが、ルティンの行動の源であるはずなんだ。だから戦争を止めるために王様を亡き者にする……そんな衝動的な行動は、きっと取らない」
「うーん……。それじゃあ、今はなにもわからないってことかしら?」
適当に吐いた言葉が、妙な説得力を纏ってノエルを唸らせかけたが、
「まっ、そういうことだな」
「へー……! 散々わたしを頭の足りない女扱いして、今はなにもわからないって?」
「……へへっ! もしかしてさ、けっこう冗談とかを根に持つタイプ?」
「へぇー……!」
ノエルはそれ以外の言葉を返さなかった。
その代わりなのか、誠司に人差し指と中指、そして親指を立てた手の甲を向けてきた。
誠司は苦笑いを浮かべることしかできなかった。
商人の男は、このときばかりは馬車の操縦に集中していることを都合の良い口実にするかのように、口を挟まずに真剣に手綱を握って沈黙を守っている。
馬車は重苦しい空気のなかで、龍馬の足音だけを轟かせて山道を進むのだった。