十章 四話 二つの影
十章 四話 二つの影
何かを約束した覚えはないが、そう告げられたのは二度目である。
しかし。誠司はきっぱり首を振るわけにもいかず、自身なさげに返した。
「俺には覚えがない言葉です。約束の一族とか……声を聴くものだとか……」
「その二つは同じ意味なのですよ。神域の者は一族という概念の中に自らを置いているので、他の者を呼ぶ時も何かの一族と呼ぶことが多いのです。なので意味としては複数の者を差して一族と呼んでいるわけではなく、約束の人――という意味で貴方をそう呼んだのでしょう」
「誰かと約束をした記憶はないですが……。それが声を聴く者ということなんですか?」
「そうですね」
「本当に僕のことなんでしょうか」
「貴方でしょう……。ですが、それは貴方を縛る言葉ではありません」
「つまりそれは、俺があなたに自分が元居た場所に帰る方法を聞いてもいいということですよね」
「もちろんです。私は自ら売る言葉を選びません」
ただし、と彼女は言葉を付け加えて、
「教えることはできても、それを行うことは容易ではありませんよ」
「……どういうことですか?」
目を伏せた彼女を覗き込むように、誠司が問いかける。
ルティンいわく、彼は誠司を帰すべき場所が分からない。だから誠司の帰るべき場所が空間軸と呼ばれる座標で判明できれば、帰すことができるのだと言っていた。
だからこそ、この世の全てが記憶されているという『時の記憶』を探し出せと伝えられたが、それが根本的に間違っていたというのだろうか。
言葉売りの彼女は、そんな誠司の考えを先読みするように首を振った。
「理論的には可能ですが、術式に使用するアトンの総量が不足して失敗するでしょう。おそらくですが、貴方がこちらに召喚された時には、術式は貴方の故郷のアトンを利用する形で発動しました」
「そんなバカな。俺の住んでいたところにはアトンなんてものは存在しませんでしたよ」
「代替できるものがあったのでしょう。何にせよ、そこを解決しないことには実現しません」
「そう……なんですか」
誠司はがっかりしたように肩を落とす素振りを見せたが、どこかその事実に心の底からは絶望していない自分がいることも感じていた。いわば演技じみていると自分ながら感じていた。
それは楽観的というよりも、ここ最近の充足感がもたらしたのかもしれない。
お笑いを辞めてからは目的もなくふらふらと生きていた誠司にとっては、久しくなかった感情であった。
「どうしますか? 選ぶのは貴方ですよ」
だからこそ、あらためて彼女が問い掛けてきたときに誠司は即答していた。
「わかりました。ルティンの目的を教えてください」
そのあっさりとした誠司の返答には、思わずイブラムが割って入って来るほどだった。
「おい、いいのかよクロノ?」
「いいんですよ。そもそも最初からそれを聞くつもりでしたし」
「だけどクロノ、お前には『時の記憶』とかいうものに関する情報が必要なんだろう?」
「厳密には、俺の故郷の場所……空間軸というらしいですけど」
「なんにせよだな……、それをこの占い師に聞けばいいんじゃないのか?」
「そうですけど、それだけでは解決しそうにないことも教えてもらえました。だから今はルティンを探しましょう。それが終わったら……必死に帰る方法を探します」
その口調には、わずかに名残惜しさが滲み出ていた。
帰りたいという想いと、帰りたくないという想いは、矛盾しないからだろう。
ただ誠司には、あの無味なる日常にもやり残したことや未練があるのだ。それがノエルやイブラムたちとの別れを意味することにもなるとしても、放り出してはおけないのだ。
「では、もう一度、額に手を……」
そんな誠司の複雑な感情を拭うように、言葉売りの女は再び額に手を当てて来た。宝石のように澄んで輝く彼女の瞳が怪しく光ると、今度はすぐに掌が離れた。
彼女はまるで誠司の記憶に耳を澄ますかのような様子であった。そして何かを理解をしたように大きく頷いたかと思えば、落ち着いた口調のまま視えたことを言葉にした。
「なるほど……ルティンの目的は分かりました……。彼の目的は、一度失敗した魔術式を再度試みることでしょう。それはアレクサンデル王たっての願いであり、彼は最初からその願いを代行するために動いているからです」
「ちょっと待ってください。王様が自分を殺すように命じたということですか?」
「そういうことになりますね。彼らは大きな思い違いをしていたようですが……」
「思い違い……?」
「はい。ルティンは事前にアレクサンデル王と約束を交わしていたのです。王がとある行動を起こした時には、魔術式の情報を持ち出して逃げるという計画です。そして逃げた先で魔術式を使用することで、彼らは自分たちの望む結果が得られると思っていたのでしょう」
しかし、彼女が言うにそれは机上の空論どころか、想像の中でしか知らなかった果実を躊躇なしに口に運ぶような行為だったという。
――神魔の召喚術
彼女はその果実の名前を口にして、彼らの思い違いを指摘する。
「それは古に信仰された神の名……。彼らはその神を呼び出すことで、自分たちも見えない敵の力に対抗できると思ったのです」
それはつまり抑止力であり、誠司の予測の中の一つではあったが、
「見えない敵に対抗しようとすることが、なぜ王様を殺すことになるんですか」
「長年の腹心であった国内の家臣たち……その心が操られている恐れがあるというところまでは、彼らも突き止めていたからです。それだけにアレクサンデル王はいつかは自分にもその力が及ぶ可能性があると考え、事前にルティンと共有していました」
「なんだって!?」
ここまでは、たかだか占いだと高を括って白けていたイブラムであったが、話の内容が具体的になるにつれて、彼女を見る目が変わっていった。
イブラムは顔を曇らせながら叫んだが、これらの会話が周囲の人間に聞こえないように努めて小声になって呟いた。
「アトン式は時間や精神、生命には干渉できない……そういう意味か」
「えっ……」
彼女に問い質すようにして、イブラムが早口になって説明する。
「アトン式の限界項目と呼ばれるものだ。つまりもしカイトラの三騎が心を操られているというのであれば、それはアトン術式によるものではない。魔術だったということだろう。そして王様にもその予兆が現れてしまった……」
イブラムの中で、嫌な予感がとめどなく溢れて来る。まさかカイトラの三騎と呼ばれる忠臣たちに、そんな魔の手が伸びているとは予想外であった。
そして長年忠臣と呼ばれてきた三騎の心が王家から離れていったのが魔術由来だとすれば、たとえ内戦を起こして勝利したとしても、次の標的がこちら側の別の誰かに移り変わってしまうだけではないだろうか。
そうなれば、永遠に勝つことのできない内戦が続くことになる。
三人の囁くような会話は市場の喧騒に紛れて誰の耳にも届かなかったが、まさか通り掛かる誰一人として、この国の大事がこんな小さな椅子の上で語られているとは夢にも思わないだろう。
誠司は半ば他人事でもありながら、粟立つ肌に汗が滲むのを感じていた。
「だとすればルティンは……事前の約束通りに王様にその兆候が見えたために、魔術式の情報を持ち出して逃げ出した……んですかね?」
「恐らくはな。そしてルティンは、王に魔術を掛けた相手が、自分たちよりも先に神魔の召喚術に手を出して成功させたと考えたんだろう。だからルティンは操られた王を殺めなければならなかったし、敵に対抗できる力も必要だったんだ」
「でもややこしいことに、魔術式はルティンの思っているようなものではなかった……」
「ああ、そこが意味がわからない。なぜ敵だけが的確に魔術式を使えているんだ? 各国、魔術への研究機関はあるはずだが、秘密裏に実験を繰り返していた国があったのだろうか……」
イブラムは思わず取引の約束を忘れて、彼女に訊ねてしまう。
「なあ、占い師さん。もしかしてあんた、魔術にも詳しいんじゃないか?」
薄々と誠司も思っていたことを、イブラムが直接口にした。
彼女は誠司の記憶を見ただけにしては、その語り口が色々なことに詳しすぎるような印象があった。それに彼女が今までに記憶を覗いたのは、誠司だけではないのだろう。様々な人間から、様々な記憶を引き出しているのであれば、普通の人が知り得ない情報の一つや二つ、持っていても不思議ではなかったが、
「それにお答えする義務は私にはありません。ですが、一つだけ思い出させてあげましょう……」
彼女は誠司の方に振り向いて、彼らがすでに知っていることについてはサービスだとてもいう風に教えてくれるのだった。
「貴方は知っているはずですよ。ルティンが行おうとしていた術式の内容を」
「術式の……内容?」
誠司は混乱する頭をゆっくりと整理しながら、一つの記憶を手繰り寄せる。
それは神域で “白眉” と呼ばれる魔術師から聞いた、あの術式の正体である。
「古の魔術師の魂を……蘇らせる、魔術……?」
ルティンはその術式に失敗して、誠司をこの世界に呼び出したという。
だとすれば――もし、成功してしまったとすればどうなるのであろうか。
その答えは、単純で明快なものではないだろうか。
誠司はイブラムと顔を見合わせ、次の一歩の踏み出し方を逡巡するように、一時の沈黙を迎えるのであった。
――同時刻、とある国。
空気の濁る暗がりに、弱々しい火が灯っている広い部屋の中だった。
足元には上質な糸で織った深い真紅の絨毯が敷かれ、わずかな明かりに照らされている。揺らめく灯は、数本の蝋燭が作り出すだけの小さな炎であった。その炎は二つの人影を壁に映して、まるで影絵の物語のように、そこに居た二人の様子を静かに映し出していた。
影の一つは、肩を揺らしながら笑っているようだった。
やや猫背に見える、壮年の男である。声ばかりは幾ばくか高く、気品よりも狡猾さを感じさせる声色を持っている。
「もう少しで長年の……いや、我々の幾星霜の時を超えた、壮大な計画への一歩がまた踏み出されますなぁ」
男の問い掛けに、もう一人の影がゆるりと動いた。
「ああ……。長く、辛かった夜はじきに明ける。世界が大きく変貌していたせいか、実に様々な障壁が我々を阻んだが、それももうすぐ払われるはずだ」
その男の声は、対して低く重厚感のある貫禄を漂わせた。また影も一回り大きく、この遣り取り一つだけでも、この二つの影の主従を聞く者に読み取らせるようである。
「カイトラが我々のものになったとき……、晴れて神域の祖国も我々の手中に……」
「智慧の湖……あれが無ければ、我々の計画は実行に移すことはできない。現代で大掛かりな魔術を行うに足るアトンの量が確保できるのは、あそこしかないだろう」
「この枯渇した大地では、人一人を操るだけでも苦労します。むしろ今となっては、我々が無事にこの時代にいることが奇跡と言えるでしょう」
「それもこれも神魔の導きよ……。神魔は我々を見捨てなかったのだ」
そう言いながら、大きな男は蝋燭に息を吹きかけて部屋の灯りを消した。
「フフフ……。だとすれば神魔は、この時代の人々は見捨てたようですな……」
不穏な一言が暗闇に響いて、男たちは部屋から去っていった――。




