九章 二話 赤い眼の一族
九章 二話 赤い眼の一族
まるで夢から覚めたかのように、誠司たちは元の場所へと戻っていた。
しばらく眠っていたのだと誰かに聞かされたのならば、わずかにそちらのほうが納得できてしまうほどに、誠司は先程までの出来事がにわかに信じられないでいた。
あの幻想的な光を降らす木々や、宝石のように輝く湖が余計にそう感じさせたのかもしれない。
今はあの淡い優しげな光は失われて、陽光が遮られた暗い山の中である。
正確な時間はつかめなかったが、もう日は傾いて来ているようだった。訪れた時には上から差していた日が、色を濃くして山の向こうから照らしているように感じる。
「なあ……、あれは夢じゃなかったんだよな」
誠司は自分だけが見た夢の記憶ではないかと、思わずノエルに訊ねていたが、
「どうでしょうね。でも、ほらそれ」
足元にオスワの絵本と辞典が落ちていたのに気がつくと、拾い上げて山中に目を向けた。
オスワの国へ移る前、誠司たちを案内してくれた大きな鳥はどこかに消えていた。
誠司とノエルは間もなく来た道を見つけて辿ると、山林が完全に夕闇に飲まれる前に神域と呼ばれる山の中を恐々と引き返し始めた。
「ザタンさん、どうなっただろう……」
気掛かりなのは、敵中に飛び込んで別れたイブラムのことであった。
「元はと言えば、あの男が勝手に飛び出したからいけないんじゃない」
ノエルはあっさりとして興味がなさそうだったが、誠司にとってはこの世界で数少ない頼れる人間である。
「そうだけど……あそこで飛び出すのがザタンさんなんだから仕方ないだろ」
「意味わかんない。バカってこと?」
「お前は口が悪いな! 飛び出すような人だから、ここにも来てくれたってことだよ」
「あははっ! あれはいかにも悪運が強そうだから大丈夫でしょ!」
「悪運の固まりみたいなやつが言うと説得力あるもんだな」
誠司は皮肉で言ったつもりだったが、なぜかノエルは誉め言葉として受け取ったのか、鼻歌を口ずさんでいた。
ノエルの鼻歌が山にこだまする。まるで呑気な女だった。
オスワの国を含めて、この神域と言われる山の中が聞いていた印象とは違って、静かなものであったせいかもしれない。
しかし、やがて道も大半ばを過ぎて森を抜けようかという頃であった。
草木を踏みしめる音が、二人の足元よりも離れたところから聞こえたような気がした。
「待て……ノエル」
誠司が一旦足を止めて、耳を澄ませる。
わずかに遅れて足音が無くなった。これは反って答えのようだった。まるで狩りに手慣れた獣と駆け引きしているようである。
全力で走るべきか、待ち構えてみるか。
正体のつかめない何かに緊張を走らせながら、誠司は足音の聞こえた方に言い放つ。
「誰だ……いるなら出て来い」
思い過ごしであってくれと願う間もなく、声が返って来てしまう。
「キキキッ……。お兄さん……勘が良さそうだな」
見つかったと分かれば、足音の正体は素直に姿を現した。
赤い眼を光らせた猿が数匹、誠司たちの側面から草木を掻き分けて顔を出す。
「また喋る猿か……」
しかし、オスワの国で会った白い猿のような神秘性や穏やかさは感じさせない、むしろ野生が剥き出しになったような、尖った気性を刃物のように向けられている気分だった。
一匹の赤い眼の猿が、口角を上げたまま質問を投げつけて来る。
「俺たちの言葉を遣うということは……お兄さんもオスワの民ということかな?」
誠司は肯定も否定もせずに、赤眼の猿の言葉を引き出そうとした。
「だったらどうだって言うんだ?」
「いや……それなら襲うわけにはいかない。なぜ神域に来たのだ? 理由によっては、我々も協力を惜しまないぞ」
「協力だって……?」
赤い眼の猿の意外な提案に、誠司はふと緊張の糸を緩めかけたが、
『耳を貸すな若人』
突如として木の陰から、新たな人影が姿を見せた。
これには赤い眼の猿も驚いた様子であったが、その人物を一目見て、すぐに顔見知りであるらしい態度に変わった。
「ヒヒッ……。牙の一族ですか。私たちの邪魔をしようというのですか?」
牙の一族と呼ばれる男は、向けられた敵意を真っ向から受け止めて言い返した。
「場合によってはな。ここはどちらの縄張りでもない。命を落としても文句は言えないぞ」
「強がりを言いなさるな。アトンが薄いこの神域の浅瀬では、そうやって立って話しているのが精一杯のはずですよ」
「ほう、試してみるか?」
「ご冗談を……。小物の命とはいえ、互いの一族の不和のきっかけにはなってしまいます」
赤い眼の猿たちは丁寧な口調とは裏腹に、腹に一物あるような不気味な笑い声を響かせながら大人しく山林の中へと消えていった。
見知らぬ者だけが残り、互いに相手を窺うような視線が交錯した。
助けられた形にはなったのだろうか。
「ありがとうございます……。あの、あなたは……?」
ひとまず誠司は礼を口にしたが、相手は冷めた様子でこちらに近寄ろうともしなかった。
「神域に住まう牙の一族である。今は人の形に化けているがな。早くここから立ち去れ」
「えっ……?」
「迷惑なのだ。お前たち人間がここに足を踏み入れれば、神域の秩序が狂う」
「神域の秩序……?」
誠司は怒られている理由も曖昧なまま、こうも色々な神域の生き物と対話できることに喜びを覚えた。これは自分だけが成せる所業ではないかと、つい善かれと思って相手に踏み込んでみたが、
「俺たちはここを踏み荒らすつもりはないですけど、もしそんなものがあるなら話してもらえないでしょうか。近くの町やこの国の人間たちとも、神域の生き物と対話ができるのだと分かれば、互いに歩み寄れるかと思います。良ければ俺が間に入って――」
「軽々しく、歩み寄るなどと言ってくれるな!」
牙の一族と名乗る者からは怒気が発せられて、誠司が怯んだ。
「過去にはそんなこともあった! しかし、神域に災いを招いたのはお前たち人間なのだ。その神域への大罪を許さぬ一族も多い中で、もはやお前たち人間にできることなど、こちらに干渉しないことだけである」
迂闊に持ち掛けた言葉が、相手の琴線に触れてしまったようである。
「ちょっと! あんたなにを怒らせたわけ!?」
張り詰めた空気の中で、例によって誠司と相手の会話が読み取れないノエルが自分も混ぜるように求めて来た。
誠司は慌てて会話を要約してノエルに伝えると、すぐに彼女は声を大にして叫んだ。
「なるほどね……。ちょっとそこのあんた! 人間に干渉するなって言うけどね、こっちが干渉しないにも理由がいるでしょうが! 今の人間には過去になにがあったかなんて知らないんだから、黙って大人しくしてろなんてのはね、身勝手な人間には通じないのよ!」
ノエルの言葉を誠司が訳して、牙の一族の者に返した。
「伝えたとて……人はまた繰り返すだろうな」
牙の一族と名乗る者は諦観したように呟いたが、その口調には先程までの拒絶が薄れているような気がした。
誠司も食い下がって思いの丈をぶつけてみる。
「そうかもしれません。いつの時代も歴史は繰り返すと思います。でも、間違えては正すということも繰り返していくんだと思います。ずっと続けていくことでしか、人は秩序を保てません」
弱さと向き合うということだけが、人の持てる美徳だろう、と誠司は思う。
しかし、これは受け取り方によっては、いつか過ちを犯す人間の戯言にしか聞こえないかもしれないが、それが人間の本質でなくてなんなのだと、正直な気持ちで吐露した。
牙の一族の者も、ほとんど開き直りに近い誠司の言葉に呆れ半分といった表情であったが、まだ老獪な方便よりも、青いだけの真っ直ぐな態度がわずかに胸に突き刺さったようである。
端数になった一枚のコインを、気まぐれに賭けるような思いだろうか。牙の一族の者は、誠司に語りかけた。
「過去の大罪については知っているな? お前たち一族は、お前たちの言葉でいうアトン……神気の均衡を狂わせた。結果は見ての通り……。神域は異常な神気の乱れによってあらゆる生物に影響を与える地となった。だが、問題はそのあとだ。神気の乱れで異常な変化を遂げた生き物たちにとって、神域という場所はあまりに狭くなってしまった」
アトン中毒とも言える症状になったのは、なにも人間だけではないのだろう。
もし動植物も同じ状況に置かれたのであれば、神域の中で起きるのは小さな檻の中で自分たちの居場所を守る争いに違いない。
「お前たち人の子は、愚かにもその争いに負けてしまったが……。とにかく神域での縄張り争いに負けた生き物は、時に神域の外へと追いやられる。神域の生き物は必ずしも会話ができるほど賢いものばかりではない。外へと追いやられた結果、神気が薄くなった場所で中毒に苦しみ暴れて出してしまう者がいるからだ」
そうしてパニックになった生き物が、時に自分でもあらぬ方向へと走り出しては、人里に被害を出すことがあるという。
だが牙の一族の者は首を横に振って、ここ最近の出来事に限ってはそれを否定した。
「しかし、それは通常そう多いものではない。この頃やたら山が騒がしいのは、また別の理由だろう。何者かが神域を荒らしているに違いない」
「何者かって、何者なんでしょうか」
「それがわかれば苦労はない。ただ、裏でこそこそと良からぬことを考えるのだとすれば、恐らくは外から来た人の子か……赤眼の一族か」
「赤眼の一族というのは、さっきの……」
「遥か昔……人の子と共存していた神域の一族の一つである。猿の仲間であり、その名のままに赤い眼を有する。神域の種族の中でもとくに知能が高く、魔術を使える者もいるほどだ」
赤眼の一族が去っていった方角へと目を向ける。すでにその姿はなかったが、その瞳には好ましくない感情が含まれているのが見て取れる。
「赤眼の一族は、長い時代を神域に閉じ込められたことに憤っている。そのために神域に足を踏み入れた人間を襲っては、その者の術式を確認して知恵を得ようとしている。神域を抜け出す智慧を、外から来た人の子から奪おうとしているのだ」
しかし悲しいことに、赤眼の一族は術式という道具を扱うことはできても、一から作り出すことは不得手なのだという。もはや神域を抜け出すために何代にも渡り繰り返される人間への襲撃は、大海の中で一粒の真珠を探すような気の遠い所業であろう。
「つまり人の子さえ神域に足を踏み入れなければ、赤眼のような不純な企みを持つ者たちに余計な力を与えることはないのだ。先程はお前たちが運良く古の言葉を使えたために、利用しようと近づいて来たのだろうが、本来はいきなり襲いかかって来る」
「だとすれば、その赤眼の一族とやらにだけ気を付ければ、神域は安全なんですか」
「それは違う。耳を澄ましてみるのだ」
会話に集中して気づかなかったが、近くで複数の羽音が聞こえることに気がついた。
草木の間を、複数の影が黒い風のように流れていた。大量の羽虫が、まるで一つの生き物のように集団で宙を舞っている姿であった。
「虫の一族だ。彼らは話など通じないぞ。今は私がいるおかげでこちらを窺っているだけだが、お前たちだけではすぐにでも襲いかかって来るだろう」
そう言って、牙の一族の者が神域の入り口まで案内してくれることになった。誠司たちは元来た山道を無事に引き返して、切り開かれた道の上にまで戻ることができた。
「アトンが薄くなって来たな……。これ以上は、私は遠慮させてもらおう」
「ありがとうございます。やはり神域を抜けると、神域の生き物は辛いのでしょうか」
「種族と個体にもよるが……、通常は三日ほどで身体に支障が出る。五日目までに戻れなければ、命を落とす者がほとんどだろう」
「五日ですか……。なにか俺たちにできることがあればいいんですが」
それは傍から見て、土地に掛けられた呪いのようでもあった。
誠司はお節介ながらにも、どうにか助けられないかとも思うのだったが、
「勘違いしてもらっては困る。神域に深くは踏み入るな。今回のことにしても、其方が偶然にも我々の縄張りの近くで碧眼の白眉殿に招かれたところを見たばかりに、助けてやっただけだ」
碧眼の白眉――それは推察するに、あの白い猿のことだろうと思った。
只者でないことは察していたが、本人は頑なに自らを明かそうとはしなかった。
「白眉殿というのは……何者なんでしょうか」
「白眉殿は碧眼の一族の長であり、神域の一族全ての相談役であった御方だ。人間の魔術師たちと深い信仰があったと聞くが、我々にとっては言い伝えの中の存在になるほどに、深い眠りについて長らく姿を現さなかった。太古にはまたの名を、『空間の魔術師』とも呼ばれていたという」
「空間の……魔術師?」
また新しい名前の魔術師を耳にした。どうやら魔術師というのは複数存在していて、高名な者には特有の呼び名があったのかもしれない。
ただ人間以外の者が魔術師であった事実は、これまでにない情報であった。
――自分たちだけが高尚で智慧が回ると思っているのは、昔から人のよくないところだ。
ふと白眉殿と呼ばれる者が口にしたことを思い出して、その意味がわかったような気がした。
神域の秩序、オスワの国、智慧の湖、過去の大罪――。
過去と未来が、今日この場で交錯して、誠司はその渦の中心に飲まれたかのような想いであった。
誠司は牙の一族の者に深く頭を下げると、急ぎモカツ砦の方へと足を急がせるのであった。




