九章 一話 枯れた大樹
九章 一話 枯れた大樹
小脇に抱えていた二冊の本がずり落ちて、ノエルがそれを拾ってくれた。
ここまで黙っていた彼女が、誠司の重苦しい様子にようやく口を開いた。
「ねえ、あんたそこの猿と会話していたの?」
「そうだけど……、やっぱりお前には俺たちの会話の内容はわからないのか?」
「当然でしょ。あんたはともかく、猿の方は急に知らない言葉を遣い出すんだから」
「猿が知らない言葉を?」
誠司は眉を寄せて、覚えのない事実に困惑しながら白い猿との会話をノエルに伝えた。
疚しいことはないのだが、無意識に囁くような小声になっていた。
元よりこの世界に生まれたノエルにとっては、白い猿の語った内容は誠司よりも驚きが大きかったことだろう。
「面白い話だけど、それを信じろっていうの? なんで誰も知らない大昔の話を、よくわからない猿が知っているのよ」
そして一層に白い猿の存在を不気味に思ったのか、ノエルは誠司も気になっていたことをひそひそと耳打ちして来たが、
「信じろとは言わない。しかしお前たちにとっては、ここオスワでさえ神話のような存在だろう」
白い猿には筒抜けだったのか、もっともらしい言い分は即座にもっともらしく返された。
「なに!? またなんか言ってるけど、あの猿」
ノエルが過敏に怖がりながら訊ねて来るので、誠司は白い猿との通訳に追われた。
「オスワの国でさえ本当にあったんだから、今さら信じるも信じないもないだろうってさ」
「それは実際にこの目で見たものじゃん! あの猿の話とは別でしょ!」
「だから信じろとは言わないってさ。でもよ、嘘をつくメリットもないだろう?」
「そんなこと猿の立場にならないとわからないでしょうが! ここに呼び寄せたのがそこの猿だって言うなら、なにか目的があるに違いないんだから」
「それについては、俺たちに予言を伝えるために呼んだって言っているけど」
「予言なんて一番胡散臭い騙し文句じゃないの!」
「別になにも騙されちゃないだろう! 俺たちは好きにすればいいんだから」
二人の口論にはまるで興味がないように、白い猿はすっと立ち上がって歩き出していた。
流石の誠司も、詰め寄るノエルの肩をつかんで追いかけるように促した。
「どこへ行くつもりなんだ!」
「ちょっと、なに逃げようとしてんのよ! こっちはまだ聞きたいことがあるんだから!」
もちろん白い猿は逃げるわけでもなく、なにも答えずにただ二人がついて来るのを確かめながら、誘導するようだった。
徐々に湖の方からも離れて、再び木々に囲まれる道に戻っていた。
昼とも夜ともいえない淡い光が照らす緑に囲まれて、白い猿の足がぴたりと止まった。
そうして白い猿はおもむろにまた自らの白い毛を抜くと、それを宙に吹いて舞い上がらせた。白い毛は瞬く間に妖しく光りながら飛ぶ虫となり、猿の周囲を回り始める。
「こちらに来るなら、この国のことをもう少しだけ教えてやろう」
光の虫に包まれながら、白い猿は抑揚もない声で誠司に問い掛けたが、
「行ったろうじゃないの!」
なぜか言葉の分からないはずのノエルが返した。
ここまで慎重になっていた態度が百八十度変わり、今度は猛烈に突き進む猪のようだった。
「なんなんだよ、お前は?」
「だって! ここで引き下がる手はないでしょ!」
「そりゃそうだけど」
誠司も言いながら、彼女の胸中に共感する部分があった。
慎重になったり、勇んだりと、彼女もこの状況に振り回されているのだと思うと、誠司の心にも一片の余裕が生まれてくる。
それは自分と同じようにノエルの揺れ動く感情が人間味に溢れているからで、いつものようにぶっ飛んだ思考のまま誠司を引っ張ろうとするのであれば、逆に不安になっていただろう。
誠司は自然とノエルの手首をつかんで、一緒に白い猿のもとへと歩み寄っていた。
「どういう腹積もりかは知らないけど、一緒に行かせてもらいましょう」
白い猿は答えだけを聞いて、必要以上には話すことはしなかった。
そうして二人と一匹は、再び虫の放っている強烈な光の中に溶けていく。
文字の通り瞬く間に、眩んだ瞼を恐々と開く頃には、すでにがらりと景色が変化していた。
「ここは……」
誠司は隣にノエルの姿を確かめてから、辺りを見回した。
膝まで伸びた草原の中だった。天へうねるような一本の大木が誠司たちを見下ろしていた。
大木は諸手を広げるように枝を伸ばし、近くに建っていた一つの建物を守るように根を張っていた。不思議なのは、青々とした草原に比べて大木を彩る数々の葉は、燃え尽きたような灰のような色になっていることである。
建物は、特別大きいものでもなかったが、その神秘性だけは一目でわかった。
飾り気のある四つの円い柱が、唐傘を差すように色褪せた紺色の屋根を支えている。正面に構える入り口は、建物に対してやたら大きく造られていた。
その入り口は開くことを禁ずるかのように、青と白で編まれた縄によって封じられている。
ただ白い猿は、そんな建物ではなく、大木を見上げながら何かに想いを馳せる風に、
「嘘か本当か……。この大木は、大陸中に根を張るという言い伝えがある」
ぼそりと独り言のように呟いた。
誠司も一緒になって大木を眺めながら、黙って白い猿の言葉を待った。
どこからともなく穏やかな風が吹いて、草原がさらさらと小波のような音を奏でている。
「そう言われる理由は、大陸のどこかでアトンが乱れるとこの大木から生気が失われていき、葉の色に現れるからだ。遥か太古の昔には、この大木の葉は常に海のような深い青色をしていた。しかし各地のアトンが乱れて枯渇してからは、ずっと白藍のようなぼんやりとした色になってしまったわけだが……」
誠司が見上げる今の木の葉は、もはや色が抜け落ちたと表現するのがしっくりくる灰であった。
「またどこかでアトンが乱れているということですか……」
「いかにも……。それは恐らくここから北東の地……」
「北東?」
誠司は呟いてから、ノエルを肘で突くと、ここから北東に何があるのかを訊ねた。
ノエルはここが神域と呼ばれる山林の中心辺りだと仮定して、一つの国名を口にする。
「ようするにカイトラの北東ってことだから……ウェンスギーじゃないの」
「ウェンスギー……」と、誠司はまるで一つ一つの証拠を繋ぎ合わせていく探偵のように、その国の名前が幾度も出て来ることに驚きを持たなかった。
白い猿は大木の枝葉をじっくりと観察しながら、これが根拠のある話であると語る。
「わずかな葉の濃淡で確かではないが、そちらの方角でアトンの乱れの兆候が感じられる」
誠司にとっても、それは自分の仮説を固めるための後押しになった。
どんな目的があるかは知れないが、カイトラを巻き込んだ魔術を中心とした謀略の裏には、ウェンスギーが潜んでいる可能性が濃厚になって来た。事の首謀者かは未だ断定できないが、少なからず無関係ということはなさそうだ。
誠司はここまでの情報を頭で整理しながら、ふと白い猿についても追及したくなったが、
「今一度お訊ねしますが、あなたは何者なんですか……」
「うん? 言ったはずだ……。ただの獣であり、それ以外の何者でもない」
「ただの獣が大昔のことを事細かに知っていて、魔術についても詳しいんですか」
「ここ数年のうちに予言の者が現れることはわかっていた。それ故に、その時が来るまで長く眠っていたのだ。魔術については、我らの時代の者であれば魔術式を知っていることはおかしくはない」
「眠っていたって……」
もはや眉唾な話も、幾つも折り重なっていくと、いちいち疑うことも馬鹿々々しい。
しかし偽りを騙るにしては、白い猿の口調が滑らか過ぎるものであることも確かだった。
「私が目覚めてから約一年ほどだろうか。その間に二回ほど強いアトンの反応があった。一つは先に述べた通り、湖面に移っていたルティンという男が起こした魔術式だ。このオスワの国は、今は高等な空間魔術式で大陸から隠されていて見つけることができないようになっている。それだけにルティンという男がどこから魔術式を知ったのかは知らないが、それは不完全なものであり、また今の大陸では発動に足るアトンの総量が足りなかったために失敗したのだろう。だが問題は、もう一つの方になる。そちらは私が目覚めて間もなくのことで、正確な情報が得られなかったが、この大樹の葉に影響を与えたことは間違いない。大陸にとって災いにもなり得る」
白い猿は助言めかしく言ったが、誠司には押し付けがましく聞こえた。
「そこまで知っていて、あなたはなにをするわけでもなくずっとここに?」
それは無関心とも言い難い半端な振る舞いに思えた。
長い時を掛けて、予言を届けるという務めを果たす。しかしその務めは、誰かの道を示すわけでもなく、伝えることだけが目的であるかのようなものに感じられた。
役目さえ果たせれば、予言を伝えた相手の行き着く先に興味はないのだろうか。
しかし、白い猿からすればそれは些末なことだとでもいうように、
「私は誰の味方でもない。頼まれた役目さえ終えれば、あとはただ時の流れを見守るだけの存在である。人々の行く末が善だろうと悪だろうと、私は見届けることだけだ」
あくまで白い猿は、己を過去と今とを繋ぐだけの伝言役だと割り切っているようだった。
白い猿からすれば、予言を届けるためだけにこの時代に目覚めたものの、自分が懸命に生きる必要があったのは己が生まれた時代だけであり、今はその結果をこっそりと知るだけの人生の残り香のようなものなのだろう。
ともすれば、誠司に向かって好きにしろと言ったことも一つの重みがあるが、
「とにかく、ようやく長い旅路の務めは済ませた。私から招いた手前、手ぶらで帰すのも悪いと思ってここへ連れて来たが、そろそろ送らせてもらおうか。ここは本来、今の人間が足を踏み入れるべき場所ではないのだ」
唐突に会話は打ち切られて、誠司は呆気にとられた。
「送る……? 待ってください。まだ聞きたいことが……」
しかし白い猿は首を横に振って、何もかも話すつもりはないようだった。
「助言はした。嫌な予感はするが……、私はこれ以上、誰の肩入れもするつもりはない」
どこからともなく、すでに見慣れた白く光る虫が周囲を飛び回っていた。
誠司は白い猿の正体もつかめないまま、客観的に見れば信じるに足らないおとぎ話のような話を聞かされて、この夢幻の国を去ることになるようだった。
「なに? またどこかに移動するわけ?」
ノエルも会話の中身がわからないなりに、誠司の腕に抱き着くようにして、この場を離れるだろうことを察していた。
「帰してくれるってさ……」
名残惜しむ間もなく、誠司の視界は白光に覆われていく。
いきなりの事に別れの言葉も思いつかなかったが、誠司は光が遮る最後まで、白い猿から目を離さないようにしていた。
白い猿の口元が、わずかに動いているような気がしたからだ。
「役目は終えたよ……、時の魔術師。私は残された時間を、この滅んだ国と一緒にゆっくりと過ごすとしよう」
その呟きは、静かな草原の風に紛れて誠司の耳には届かなかった。




