八章 五話 智慧の湖
八章 五話 智慧の湖
それは鏡のようにくっきりと、水面は切り取られた景色を映し出していた。
ただ鏡と異なるのは、その景色が単純な光の反射ではないということだった。
どこか別の場所を、誰かが意図して映し出しているのだろうか。
水に落ちないように、そっと近寄って覗き込んでみる。
湖面に映る何者かの姿は——褐色の肌に、深い青色の長髪を持った男の姿であった。
「ルティン……? こいつはルティンじゃないか!」
覚えのあるその容姿に、誠司は思わず水際まで爪先を伸ばして叫んだ。
誠司の背に覆いかぶさるように、ノエルも一緒になって湖面に視線を落とす。
「たしかにルティンに見えるわね……。これどこなんだろ」
湖面の中、ルティンは大きな岩に腰を下ろしてどこかの川を眺めていた。
いつまでも動く様子もなく、まるで魚を待つ釣り人のようであった。
「なにか目印になるようなものがあれば場所がわかるかもしれないけど……」
この国々に土地勘のない誠司とっては、どこにでもありそうな川端にしか見えなかった。
そんな川辺で、ルティンは悠長になにをしているというのか。
もどかしい気持ちで眺めることしか出来ない誠司に、不意を打つように背後から声がした。
「その男はルティンというのか……」
「えっ……っ! だ、うわあぁ!」
あまりの驚きにバランスを崩して、誠司は湖に頭から飛び込んだ。
その際にノエルの袖を引いて、水の中に一緒に引きずり込んでしまったせいで、水から顔を上げた後にもう一度水の中に投げ飛ばされてしまう。
「ぶへぇ! 投げることないだろ!」
「うっさいわね! 女を巻き添えにする男がどこにいんのよ!」
ノエルは叱りながらも、声の主への警戒を強めて身を構えた。
「その女子さんには、私の言葉がわからないだろう。お主が上手く伝えてくれ」
声の主は湖畔に数多散らばる丸い石の上に座りながら、驚く誠司たちをよそにひどく落ち着いた声色で語りかけた。
澄んだ青い瞳は、遠く対岸を見据えていた。ぼんやりと光っているような白い体毛が、その存在をまるで神霊のように際立たせていた。
戦闘態勢を取ろうとするノエルを止めて、誠司は一定の距離を保ちつつ言葉を返す。
「あんた何なんだ……? こう言っちゃ失礼だが、俺には猿にしか見えないぞ」
「……うん? そりゃあ、そうだろう。私は見たままに、猿以外の何者でもない」
「猿が言葉を使うのか?」
「むしろなぜ人の子だけが言葉を使うと思うのだ。自分たちだけが高尚で智慧が回ると思っているのは、昔から人のよくないところだ。そうやって口先では平和を語りながら、何千年も優劣を比べては争いを起こす。私からしてみれば、とても賢い種族のすることではないな」
「耳が痛い話だが……俺が訊きたいのはそんなことじゃない。あんたからすれば傲慢に聞こえるかもしれないが、俺は人間以外の生き物が言葉を使っているのを見たことがないんだ」
「なあに……。きっかけさえあれば、生きとし生けるものはみな進化の奇跡に巡り合うのだ」
そう言うと、白い猿は湖を指差して語り出した。
「オスワの中心にあるこの湖は、かつて智慧の湖と呼ばれていた」
湖面は透明な水に戻り、水底を彩る綺麗なエメラルドに染まっていた。
「この大陸には、地中深くにアトンが流れる大きな脈がある。その脈……分かりやすく人の子の身体で例えるなら血管であり、その心臓に当たる部分が、この湖であった。アトンとは、この世の全てを構成する最小の粒とされているが、実のところその濃度によって万物への働きは天と地の差があるのだ」
誠司は脇に抱えていたずぶ濡れになってしまった本の水気を取りながら、白い猿に問い掛けた。
「湖の水が人に力を与える……。これはただの童話かもしれないが、そう描いてありましたよ」
ただし――飲み過ぎてはいけないとも。
誠司は白い猿という語り部に付き合うように、まずは絵本について訊ねた。
白い猿は目を細めて、誠司の持っていた絵本を一瞥してから溜息混じりに口を開いた。
「懐かしいものを……。その本に書かれていることがすべてだ。たしかにアトン濃度の高い湖の水には生物を活性化させる効力があったが、大量に摂取してしまうと毒にもなる」
「毒に? アトンが?」
誠司の素直な驚きに、訳知り顔の白い猿は言葉を続ける。
「太古の昔にこの国は、大陸中に流れているアトンの脈の均衡を狂わせた。アトンの濃度が高いほど生物には恩恵が与えられ、高度な術式も性能を高めるだろうと考えたこの国の人間たちは、無理矢理にアトンの脈を広げて自国のアトン濃度を高くしようとしたのだ。そして長年の実験の結果、その試みは成功したが、同時に取り返しの付かない事態をも招いてしまった」
――アトンが巡る脈の均衡が崩れ、脈を広げたこの国以外の大陸全土でアトンが枯渇する事態に陥ったのだ。
「生き物というのは繊細で脆い。環境に適した身体を持って生まれて来るが、それは裏を返せば別の環境では容易に生きていけないことを意味する。アトンが薄くなった地域では徐々に人々に異変が起き始めた。頭痛や吐き気から始まり、日が経つに連れて意識を失う者、記憶が曖昧になる者まで現れる始末だった……」
ある日突然、訳も分からずそんな事態が各地で起きれば、世界はさぞ混乱したことだろう。
当時の人々の恐怖は知る由もないが、誠司はこの美しい湖がその原因だと思うと、まるで自然というよりも人間の咎の溜まり場に感じられた。
白い猿がどう思っているのかは知れないが、ただ口調からは大きな落胆も憤慨もないようで、
「やがて国も事態の収束に向けて動き出したが、そこで自らも毒に侵されていることに気がついたのだ。アトンが濃くなってしまった都から、濃度が薄くなってしまった地域へ調査に行った者たちのアトン中毒ともいえる被害が、元よりその地域に住んでいた民よりも遥かに大きいものだったのだ」
「そうか。身体が濃いアトンに慣れてしまっていたんですね……」
「そう……、そして世界は崩壊しかけた。事情を知らない他の国の人々は原因も分からないままに倒れ、生き残った者も記憶が曖昧になっていった。まさにこの世の終わりを見ているようだった」
「だけど、今この大陸の人たちは平穏に暮らしています」
「ふむ……。他の国でも、この湖のようにアトンの濃度が高い特別な場所を持っていた地域は最悪の事態を免れた……ということもあり、残された人々は徐々にその環境に適応していくことができたのだ」
白い猿はどこを見るわけでもなく、虚空を見つめていた。
誠司のノエルを制止する腕が、彼女に強く握られていた。ノエルは、一人と一匹の訳の分からない不気味な会話を、どうにか大人しく聞いていた。
生易しい世間話でないことは、白い猿の雰囲気からもノエルに伝わっていたのかもしれない。
白い猿は、まるで当時を知るように寂しげにオスワの歴史を語るのだった。
「しかし……、オスワの国はそうはいかなかった。アトンが薄くなった他の土地に適応できなくなったオスワの民は、この智慧の湖から離れられず、またアトンの濃度が高くなったことで独自の進化を遂げた自然とも戦うことになってしまった」
オスワの国は、頑強な身体と長寿を得るため、多くのものを引き換えに失った。
今までの農法では過剰に成長する草木と共に作物を育てることが難しく、他国との交易も途絶えては生きていくのに必要なものさえ手に入らなくなった。
いつしか山林を闊歩する鳥獣は知能が発達して、十数年のうちに本来の大きさより一回りも二回りも上回る巨躯を得たという。
一時だけ咲く花のように短い繁栄は枯れ果てて、楽園は衰退の一途を辿ることになった。
――誰のせいでこうなったのか。
こうなってしまえば、人間は誰かを責めずにはいられないのかもしれない。
民の怨嗟の行く末は、とにもかくにも今までに光が当たっていた者たちに向けられたのだという。
「そうして事の責任を追及される形で、四人の魔術師が糾弾された……。お前さんも名前くらいは聞いたことがあるだろうか。太古に生きた四人の大魔術師」
時の魔術師、魂の魔術師、心の魔術師、無の魔術師
「彼らは国に流れるアトンの脈を乱した罪により、災厄を招いた者として裁かれた者である。実際には国に命じられた形ではあったが、責任の所在は彼らに押し付けられた。そして彼らは……、事態の収束を条件にその罪に対する三年の執行猶予が与えられたが、魂の魔術師、心の魔術師は半年後に死体として見つかり、無の魔術師と時の魔術師は誰に知られることもなく国から姿を消したのだ」
もはや民がいなくなった滅んだ国の中で、ただ彷徨う亡霊のように存在する一匹の猿が、なぜここまで詳しい事情を知るのかはさておき、ふと誠司は、恐らくこの白い猿の手によって、ここに招かれたのだということを思い出した。
「なぜそのような話を俺にするんですか」
誰かに聞いてほしかったという訳でもあるまい。
しかし、白い猿は大真面目な顔を崩さないまま、
「時の魔術師が国から姿を消す前に予言を残したのだ……。我らの言葉が失われて幾星霜の後、この地に我らの声を聴く者が現れる。その者が我らの過ちを雪ぎ、我らの無念を晴らすであろう、とな」
まるで作り込まれた詐欺師の台本のように、唐突に今日出会ったばかりの誠司に思わぬ役割を託すかのようだった。
「我らの声を聴く者……」
誠司にしてみれば身勝手な願いだった。遥か昔の、それも縁も所縁もない人間の無念を晴らすために行動するつもりなど毛頭なかったが、ただ白い猿はそのことは承知のようだった。
「お前さんは自分の思うがままの道を進めばいい。ただ一つ……湖面に映っていたあの男と因縁があるのであれば、止めたほうがいいだろうとだけ忠告しておく」
「湖面……、ルティンのことですか? 止めるって何を止めろと言うんですか」
「そのルティンという男……、古に失われた我らの言葉を用いて、とある術式を発動しようとしたはずだ……。運の良いことに失敗したようだが、その術式は本人が思っているようなものではない」
と、白い猿が指す術式とは、誠司をこの世界に呼び出した術式のことだろうか。
未だその原理は不明だが、この世界には“アトン”という概念が一つの理として、それに伴う数々の術式が存在しているが、どうやらルティンが手を出したのは常日頃語られるその『アトン術式』というものではないらしい。
この大陸では禁忌とされる、魔術――言うなれば『魔術式』であった。
か細い記憶の糸を手繰りつつ、誠司はルティンとの最初の邂逅を思い出しながら、
「そうだ……神魔の召喚術。とある村で教えてもらいました。ルティンはその召喚術を使おうとしていたんです」
だが、その術式の失敗の副産物として、誠司が呼び出されたという。
これはノハラの村でハドリアに聞かされた事の顛末であったが、白い猿は首を横に振った。
「神魔? バカを言うでない……。神魔とは我々の信仰する神の名前だ。しかし、その術式で呼び出すことができるのは神ではない。湖面の男が使おうとした術式は、現世の人間の身体を器として、古の魔術師の魂を蘇らせるための術式なのだ!」
「古の魔術師を……?」
頭の中を色々な出来事がぐるぐると回って、額に手を当ててしゃがみ込んだ。
誠司は目の前に広がる静かな湖に、どうか世界の全てを教えてくれないかと、吐き出してやりたい気分になっていた。




