一章 クロノセージ
一章クロノセージ
古びた六畳一間のアパートの一室。今日で23歳の誕生日を迎えた黒野誠司は、実家に帰って就職活動でもしようかと迷いながら、自分の腕を枕に寝転がって天井を見上げていた。
「実家……かぁ……」
誠司は思わずため息を漏らしつつ、その選択肢にかれこれ一週間ほど踏み切れずにいた。
実家はこの古アパートから駅にして二つほど離れているだけで、帰ろうと思えば今日にでも帰れる距離にある。
貯金もほとんどない誠司にとって、家賃も光熱費も食費もしばらく考えなくていいその場所は、就職活動に集中するにはあまりにも条件の良いものであったが、
「お義父さんに……迷惑かけるのもなぁ……」
ふと頭によぎるのは、義理の父の顔である。
幼い頃に父を亡くして、誠司が十五歳のときに母と再婚したその義理の父は、とても誠実で真面目な男性であったが、誠司にとっては三年ばかり一緒に過ごしただけの他人という気持ちがどうしても拭えないままでいた。
「困ったら、いつでも帰っておいで」
そう言ってくれた義理の父の思いやりに満ちた言葉を思い出すが、その言葉をそのまま受け入れらえるほど、誠司にとって義理の父親は心の距離が近い存在ではないのだ。
それに昨年、不幸なことに母親もすでに亡くなってしまった。
もう誠司と義理の父を繋いでいたかすがいも消えて、いよいよ顔を合わせるのも気まずい。
「いっそどこか知らない土地にでも移り住もうかな……」
ぼそっと誠司が愚痴のように呟いたときだった。
天井に吊るされていた電灯が、突如太陽のごとく輝く光を放って降りそそいだ。
「……あんっ? なんだっ! 電気が壊れたのかっ?」
眩いほどの光に包まれて、誠司は視界が真っ白になる。
なにが起きたのか――誠司の判断がつかない間に、すぐに強い光は止んだようだった。
光に眩まされたぼやけた視界のなかで、誰かの声だけが誠司の耳に届いて来る。
「ルティン! 本当に、本当に成功するのか……!?」
「わからない! ただもう時間がないんだ! 国のほうにも、どうやら私たちのことを嗅ぎつけられている! 今日やらなければ、明日にはチャンスがないかもしれないんだ!」
「しかしだな……俺には、これが不完全なやり方に思えてならない! 術式の解読はしたものの 不可解な点が多かった。あくまで、お前が予測で完成させた術式じゃないか」
「うるさい、なにを今更っ! すでに一人の命を犠牲にしているんだぞ、引き返せるものか!」
「……そうだな、すまない。なにかあっても、俺たちの命だけで済むように祈ろう」
焦燥を含んだ、男たちの切羽詰まった会話が聞こえていた。
男たちの会話を聞きながら、誠司はそっと細めていた目を開けた。
「ルティン……。これは成功、なのか?」
「……わからない。俺だって神魔を呼び出すのは初めてのことだ」
ルティンと呼ばれる男は、誠司をじっと見つめながら話しかけてくる。
「俺はカイトラの国のフェミマール・ルティンという者だ。一人の命を対価にして、お前と契約を結ばせてもらうために召喚術を使わせてもらった。俺が願うのは、ただ一つ。カイトラの現国王である、アレクサンデル王の命を絶ってもらいたい……」
「……命を?」
――なんだって?
誠司は聞き返しながら、落ち着きなく辺りを見回していた。
ここで自室でないことだけはすぐに理解したが、記憶のない場所に戸惑っていた。
飾り気のない部屋の中だった。
ただでさえ汚い板張りの床に、赤い文字で精密に作られた時計のような落書きがされている。
目の前の男たちにも見覚えがない。なぜこの男たちは、いきなり自分に頼みごとをしているのだろうか。それも、誰かの命を、あーだこーだと、物騒な話である。
「一人の命で足りなければ……、この隣にいる男の命もくれてやってもいい」
ルティンという男は、わずかな稚気もなく真剣な口調で言った。
ただ誠司には、なぜそれを自分に頼むのか、ここがどこだかもわからない。
「ちょっと、ちょっと! 俺を誰かと間違えてないですか? あなたたちとは初対面ですよ」
ルティンは、もう一人の男と顔を見合わせてから、「もちろんだ」と誠司に返して続ける。
「お前を呼び出したのは、俺たちだ。禁忌とされているなかでも禁忌、神魔を呼び出す召喚術を危険を承知で使わせてもらった。どうか願いを聞き届けて欲しい……」
「願いをって……言われても、なぁ……」
誠司は自分が立っていた謎の時計のような落書きから歩き出して、すぐそこにあった窓の外の景色を覗いてみた。
目の届く限り、穏やかな自然の色で埋め尽くされている。辺りを木々に囲まれ、山か林か、どこかに孤立した一つの小屋のようだった。
「あれ……」と、誠司はとある憂慮に苛まれる。
もしかして、自分は誘拐でもされたのではないだろうか。
自室のアパートで唐突に放たれたと思えた眩しい光も、それはこの犯人たちによる閃光弾などで目を眩まされて、あげく気絶でもしているうちに、この山林のなかの小屋に運びこまれたのではないだろうか。自分に誰かを殺めるよう、洗脳するために――。
誠司は顔に恐怖の色を浮かべながら、窓の景色から男たちに振り向いた。
今この瞬間にも、言うことをきかなければ襲われるかもしれない。
しかし、そんな誠司の憂慮は、男たちの反応によって間違いだと気づかされる。
「お……おいっ、ルティン! 話が違うじゃないか! 神魔はこの術式から出ることができないはずだっただろ! なのに……なのに、あっさり出ているじゃないか!」
ルティンの隣にいた男が、怯えるように誠司から距離を取って後退りしていた。
ルティンと呼ばれる男も問い詰められて、顔を青くしながらどうにか言葉を紡ぐ。
「貴殿は……神魔じゃないというのか? いったい俺は、何を呼び出してしまったんだ……?」
先程の落ち着き払った男とは打って変わって、目の前のルティンは見るからに小心者のように縮み上がってしまっていた。
誠司は二人の男が驚く理由がわからなかったが、とにかく男たちも混乱しているようである。
ここは一つ自己紹介でもして、改めて落ち着いて会話をするべきだと口を開いた。
「まあ、知ってか知らずなのか……、俺は黒野誠司っていう者だ。たぶんあなたたちは勘違いしているんだろうけど……どこにでもいる、ただのフリーターなんですよ」
だから攫ったとしても、身代金はおろか、人を殺す勇気だってありはしない。
なにかの誤解だろう――誠司はそう言いたげに男たちを説得するつもりであったが、
「時の(クロノ)……魔術師……だと?」
ルティンが驚愕の様相を浮かべて、腰から床に転げ落ちた。
「や、やってしまった……! 神魔を呼んで願いを叶えてもらうはずが……間違って古の魔術師を呼んでしまったというのか――!」
ルティンは叫びながら床を一度ばかり強く叩くと、直後には目を鋭くさせて立ち上がっていた。 そして足が震えて動けなくなっていた相方の男を軽々と肩に担ぐと、出入り口の扉を壊す勢いで開け放ち、山林のなかに飛び出して瞬く間に消え去ってしまった。
誠司は声をかける間も、追いかける暇さえも与えられなかった。
「おーい! ここどこなんだよ――!」
できることは、とっくに消えたルティンの背中に叫びかけるだけである。
ひとり見知らぬ土地の小屋に取り残されて、寂しく山道を下りることにした。
「……ったく! 誘拐するにも責任くらいは負ってほしいもんだぜ」
身勝手なルティンという男に文句をこぼしつつ、誠司は雑草が踏みつぶされて地面が剥き出しになっただけのけもの道を下りながら、人気のありそうな場所を探しはじめた。
草木は生い茂り、空気は澄んでいる。
空は天候にも恵まれて、歩くのには快適な日であった。だが、とんでもない山奥に連れて来られていたらどうすればいいものか。
しばらく歩くうちに、誠司は段々と不安に押しつぶされそうになっていたが、そんな憂いを吹き飛ばすように、やがて木々が割れて景色が開けた。
視界に空が広がって、緩やかな勾配の下に人々が住んでいそうな街並みを見つけた。
「よかった! 町の近くだったんだ!」
誠司は山から抜け出した足で、町の中へと駆け出していった。
荒れた土の道から、綺麗に舗装された石畳の道に踏み出した。
石造りの壁に漆喰を縫ったような白色が、経年によって濁った色合いをした家並みが多い。
誠司はそこらを歩く人に、誰でもいいから声をかけようと様子を探っていたが、
「あれ……なんか変な外国人ばっかりだ。参ったな」
すれ違う人、入れ違う人々の、どこを見ても日本人のような容姿が見当たらなかった。
ある人の瞳は青かったり赤かったり、ある人の髪の色は金色だったり白色だったり。
誠司は外国の言葉というものが、義務教育で習ったはずの英語ですら怪しいものだった。だから安心して話しかけられそうな人間が見つからないのは困った状況である。
「ええ……俺、外国まで連れ去られたのかぁ……?」
思わず脱力して、ふらふらと歩いていると、一軒の店先に下げてある一つの看板が目に入った。
「ああ……クソ、終わった……」
誠司は看板に寄り掛かるように膝をつきながら、大きな溜息を漏らした。
看板の文字が、何一つ読めないのである。見たこともないような文字で書かれていた。
「ああ……終わった……」
繰り返し絶望の言葉を口にする誠司に、店の扉から顔を出した店主が声をかけた。
「なにが終わったか知らねえけど、うちの看板を隠されちゃあ邪魔だよ。どいてくれ」
「ああ……すみません……」
それは悪いことをした。今から営業するのだろうか。
誠司はがっくりと肩を落としながら、店主の営業の邪魔にならないように、行く宛もなく歩き出そうとしたが、
「……ん? あれええぇ! 今あんた、日本語喋ったよな!?」
店の中に戻っていった店主を追いかけるように、店の扉を開けて叫んでいた。
誠司は殴り込みのような勢いで店内に突撃する。店主は驚きのあまり、テーブルを拭き掃除していた手をぴたりと止めた。
「びっくりしたぁ~~、うるせえやつだな。まだ営業前だよ」
店主は手をひらひらとさせて、誠司を追い出そうとするが、
「そうじゃなくて……日本語! 日本語喋ったでしょ? ってか、喋ってますよね?」
店主の素振りも無視して、誠司は嬉しくなって居座った。
「なんだよ? ニホンゴ? 知らねえよ。開店準備中なんだ。出て行ってくれ」
店主は誠司を哀れな頭の持ち主だと思いながらも、腕を引いて店の外に誘導しようとした。
しかし、誠司は必死に食らいついた。ここで諦めては、わずかな希望が絶たれてしまう。
「待ってくれよ! 電話を貸してくれるだけでもいいんだ! それか大使館に連絡してくれ! 誘拐された日本人が困ってるって!」
「ゆ……誘拐だぁ? お前、どっかから誘拐されたのか?」
誠司の思いが通じたのか、店主は誘拐という並々ならぬ危険な言葉に反応を示した。
とりあえず誠司を店のテーブルにつかせて、向かい合って話し合うことにした。
「気がついたらここにいたんです! 二人の男に連れられて!」
「まあまあ落ち着けって……。まずお前はどこから来たんだよ?」
「えっ……ああ、俺ですか? 俺は日本から来ました。日本、わかるでしょう?」
「ニホン……ねえ。すまない、俺はこの国から出たことがねえんだ。聞いたことがないな」
「なんでだよっ! おかしいだろ!」
誠司は芸人の癖が抜けていないのか、自然と強烈にツッコンでしまっていた。
ただこの店主がおかしいのだから、仕方のない話である。日本なんて聞いたことがないという惚けた台詞を、臆面もなく日本語を喋られた日には、ツッコミ待ちかとさえ思えてくるのだ。
だがあくまで店主は真面目な顔を崩さずに、穏やかに会話を進めるようだった。
「しょうがないだろう!? 知らないものは知らないんだ!」
「なっ……! わかった! わかりましたよ! じゃあ日本は知らない、と! だったらここはどこの国で、あなたの喋っている言語はどこのものですか?」
「そんなもんヌン語に決まってるだろう。ここはシエドの国だよ。あまり訛りはないだろう?」
「ヌン語……シエドの国……」
ふざけているのだろうか。バカにされているのだろうか。
どちらにせよ、相手にするだけ時間の無駄なような気がした。誠司は半ば投げやりな態度で、店主に向かって手を伸ばした。
「なんだってんだ?」
「電話を貸してください。家族に電話したい。シエドの国っていうのを調べてもらう」
「デンワ……?」
「電話だ……。貸してくれれば、出て行くよ」
「デンワ……? どんな感じのものだ?」
店主の疑問に、誠司は歯を食いしばりながら手を叩いた。
「……オーケー、オーケー! 冷静になろう! 電話がなにかって話だな? 電話は人と連絡を取るためのもので、普通は誰の家にでもあるものだ! わかってくれましたかね!?」
「なんだ……つまり、家族と連絡を取りたいってことか?」
「そう! そういうこと!」
ようやく話が通じてくれたと、誠司が大げさに反応した。店主は嬉しそうに店の奥へと引っ込んで行くと、すぐに陽気にテーブルに戻ってきた。
「聞く限りでは、上流階級の生まれなんだろう? 腕に刻んである身分さえ明かしてくれれば、俺が当面の生活費も手紙を運ぶ飛脚も用意してやろう! さあ、好きに書いてくれ」
店主は満面の笑みで、一枚の紙と、万年筆とインクを誠司の前に置いた。
誠司は冷めた表情で身体がすっかり固まってしまったまま、店主とお手紙セットを交互に見つめることを繰り返した。
冗談でやっているなら、早くお終いにして電話を持ってきてくれ。
しばらくそう目で訴えかけていたが、店主は遠慮するなと手紙を勧めるばかりだった。
やっぱり時間の無駄だった。
誠司はあくまでにこやかに、店主にお礼を言って店を出ることにした。
だが店の扉を境にして、感情のスイッチた切り替わったように言葉を吐き捨てる。
「アホか! こっちは本気で困ってるっていうのに!」
無駄にした時間を取り戻すように、誠司は走り出した。
もう土地勘がないだとか、言葉がわからないなどという甘えた思考は捨てることにした。
目に入った人間には積極的に話しかけて、目についた場所には飛び込もうと考えた。
そうして色々なところを駆け回り――居並ぶ商店から酒場から、ときには町の外に足を延ばしてみたり、やがて声をかけた人数が十人ほどだったのはものの数分、日が沈む頃には三桁を優に超えたであろう誠司の営業活動は、まったくの徒労に終わって夜を迎えてしまった。
もう声も枯れて、頭は変になりそうで、誰かに話しかける気力すら尽きかけていた。
せめて誰かひとりでもいいから、自分の母国に思い当たる節がある人間に出会いたかった。いいや、“日本なんて知らないと”言ってくれてかまわない。
ただ――ただそれを、誰も彼もが真面目な顔をして、日本語で返してこないで欲しかった。
皆が皆、ヌン語ヌン語と謎の言語を誠司に押し付けてくる。
だから誠司だって夕方の辺りになると、
「ヌホンって国、知ってます? ヌホン語でもいいです」などと、もはや情けなく相手に擦り寄ってみたものの、
「ヌホン語ってなんだよ? ヌン語だろ?」
と、訊くたびにしっかりと訂正されてしまうので、
「はい……すみません。ヌン語でした」
「ははっ、そうだろ? ヌホン語って、どこの訛りだよ。北のほうから来たのか?」
「ハハッ……北なんでしょうか、南なんでしょうか。たぶん遠いことには違いないと思います。ハハハハハハッ!」
虚ろな目をして、ついには我ながら笑ってしまっていた。
ちなみに日本はもちろん、電話を知っている人間も皆無である。
「この町はイカれてるんだな!」
だったら俺もイカれてやると、誠司は大地をベッドにして寝転がってやった。
それが偶然にも、町中を走り回った結果最初に訪れた店の前に寝そべっていることに気がついたのは、店の扉から店主が迷惑そうに顔を出したからである。
「お前……俺に恨みでもあるのか?」
誠司は純粋に驚いていたが、朝には頭を下げる余裕があった胸中も、夜にはそっぽを向いて返していた。
「恨みはない! ただ俺には、寝床もない! 今日はここで寝る!」
「ここで寝るって……お前なぁ! 野宿にしろ、いくらでも場所はあるだろう?」
あまりに型破りな誠司の行動に、店主は両手で顔を覆ってしまう。
「なんだ……新手の脅しか? 見ての通り、うちは宿屋じゃないんだぞ?」
店主は店前の看板を指差して注意するが、誠司は見向きもしなかった。
「俺にはその文字が読めない! あんたが何屋なのかなんて知らねえ!」
「なっ……! だったら教えてやる! ここは紹介所だ! お前みたいに文字も読めないような人間にも仕事を案内する場所だ! ただし店の前での営業はやってねえ!」
店主は不必要なほどの大声でがなり立てたが、誠司は一向に動く気配がなかった。もはや店主に対しても、実力行使しかないと思わせるには充分な態度であったが、
「あくまでどかないつもりか! だったら俺だって……ん?」
黙ったままの誠司の代わりに、“ぐぅ~”というカエルの鳴き声のような音が弱々しく響いた。
店主はその音が誠司の腹から聞こえたのを知ると、誠司の背中を小突くように蹴飛ばした。
「その腹膨らましてやるから、とっととそこから動いて店に入って来い」
一足先に店の中に戻ると、テーブルの上にパンがいくつか入ったバスケット、薄切りのハムとチーズが乗せられた皿に、アルコールの匂いが漂う肌色の飲み物を木製のコップに注いで置いた。
誠司は店主に遅れて遠慮がちに店の扉を開くと、テーブルの上に用意された食事に驚きながら、店主に問いかける。
「別に俺は……たかるつもりはないんですけど」
「フフッ、なぁに言ってやがる。朝も夜も店の前でうろうろされちゃ迷惑ってもんだ」
「いや、すみません……。そんなつもりはなくて。どこか別の場所で――」
誠司は素直に謝罪すると、自棄になって迷惑を掛けた分際で、こんな情けを受ける立場ではないはずだと店を出ようとしたが、
「いいんだ、いいんだ! 今日はもう店じまいだから。誘拐だかなんだか知らないけど、訳ありなんだろう? これでも食いながら、少しばかり話をしようじゃないか」
店主は自分の分のコップにも肌色の酒を注いで、向かい合って話を振った。
「俺の名前はオッドだ。シエドの国、このシチーの町で紹介所を営んでいる者だな。それで……お前さんは? 誘拐されたと言っても、故郷はあるだろう?」
誠司はパンを口に含みながら、誠実なオッドに正直に応えようと思った。
「俺は黒野っていいます。出身は日本の……神奈川……って言っても、わかりませんよね?」
オッドは首を横に振って、それでも話を続けようと誠司にさらに質問をぶつける。
「まあ、俺だってヌン大陸のすべてを知っているわけじゃない。むしろ知らないほうだ。ただ、基本的に……ヌン大陸の人間ってのは、右腕に身分証明が刻まれてる。それは知っているだろう?」
「えっ……右腕に?」
それは誠司にとって唐突に突き付けられた初耳の情報であり、まるで外国に来てパスポートを持っていない人間のようにおろおろしてしまった。
「おい……冗談だろう? 右腕に身分印がないってことは、お前はどこかの孤児か、狼にでも育てられた人間だってことだ。まさか知られるとマズいことでも抱えてるのか?」
オッドの目つきが訝しいものを見る目に変わりつつあった。
誠司にはその右腕の印というものが、どれほど人を見るうえで重要なものかわからなかったが、オッドは少し考える風に首を捻って、
「だが、逆に不思議だな……。悪いことをするにしても、成りすますほうが楽ってもんだ。わざわざ自分をいかにも不審な人物に仕立て上げるメリットはない」
泥棒が唐草模様の頬かむりをしていないのと同じで、詐欺師こそ立派なスーツに身を纏い、悪人こそ善人の身なりを整えるというものである。
オッドは席を立つと誠司の右腕をつかんで、なにかを確かめるように腕を撫でまわした。
「本当に……身分印がないんだな」
自分の服の袖を捲ってみせて、その逞しい右腕を見せつけるように誠司に突き出した。
少し色白であったが、その腕はごつごつとした男の綺麗な腕である。印などどこにもない。
誠司は突き出された腕の意味が、一瞬わからなかったが、
「うわっ……なんですかそれ?」
租借していたパンが口から零れ落ちそうになった。
わずかに間を空けて、オッドの右腕に段々と赤い模様が浮かび上がってくる。やがて一分も掛からないうちに、その模様は腕の半分を埋め尽くしてしまった。
「これが身分印ってもんだ。普通は生まれたときに刻むもので、自分の出身と身分を入れる。俺は平民だから腕の半分だが、貴族となれば腕のすべてに家柄までの情報が刻まれている」
ただし、とオッドは一呼吸置いて、
「お前さんは、この身分印がないどころかまるで驚いた様子だ。となると、少なくともこのヌン大陸の人間ではないってことだ」
「ヌン大陸……すみません。俺も聞いたことがありません」
「そうだろうな。ただ幸運なことに言葉は通じるみたいだが、文字は読めない。一層不可解だ」
「俺も……自分でも、そう思います」
誠司は項垂れながら、ここでは自分の存在こそがイレギュラーなのだと思い始めた。
オッドも困ったように店の壁に寄り掛かっていると、店の扉が激しくノックされた。
「おう、なんだい! 今日はもう店は閉じちまったよ」
店のなかに人がいることを確認して、扉を叩いていた人物が店のなかに入ってきた。
誠司はその人物を見てぎょっとした。その出立ちは、鎧武具に包まれた兵士に見えた。兵士は大量の紙の束をオッドの胸に押し付けて、双眸を鋭くさせている。
オッドは兵士の尋常じゃない様子を感じて、慌てて紙束の中の一枚に目を通した。
「こいつは……特級のフリークエストか? あんたのような兵士が直接配って回っているところを見ると、大きな事件が起きたみたいだな?」
兵士はゆっくりと深く頷いて、重々しく口を開いた。
「依頼主は……、カイトラの現国王、アルバー・アレクサンデル・レリベロ王だ」
「アレクサンデル国王だって!?」
オッドはあまりに衝撃だったのか、紙の束を落としてしまい、自分で拾っていた。
兵士もオッドと一緒に紙束を拾ってやりながら、続けざまに事情を話す。
「数人の貴族が国外に逃げ出した。問題は主犯が持ち出した機密事項だ。こいつが貴族たちにとって洒落にならない……」
兵士の焦燥を駆り立てる口調に、オッドは見当がついたようだった。
「まさか……術式を国外に持ち出したのか? 魔術の?」
兵士は紙を拾い集めていた手を止めて、深い溜息と共に近くの椅子に腰かけた。店主の飲んでいた酒を勝手に手に取り、飲み干してしまう。
「……フゥ~。勘がいいんだな……」
「おいおい! 笑いごとじゃないだろう!? そいつは戦争でも起こすつもりなのか?」
「笑っちゃいないさ……。そもそも笑えないだろう? 狙いはおそらくだが、アレクサンドル現国王の退位だろうな。革命でも起こすつもりさ」
「魔術を使ってか!? 誰がそいつに味方するっていうんだよ?」
「そいつは火種を作るだけだろう? 現国王が亡くなれば、カイトラは内乱になる。味方は知らない振りをして、国内でそのときを待っているんだろうよ」
「バカな……。国王を退位させるなら、他にいくらでも方法は……」
方法はある。だがそれが困難であることを、現在のカイトラの情勢からオッドは知っていた。
オッドは紙束を拾い集め終わると、兵士の隣に座って核心的な疑問を口にする。
「本当に……本当にこいつが、その主犯格なのか? もし捕まえれば、勲章ものだろうな」
オッドは拾い集めた紙にもう一度目を落として、兵士は頷きながらその名前を口にした。
「今や大罪人だが、平民上がりで元アトン学術所のエリート、フェミマール・ルティン……」
「平民上がりの、フェミマール・ルティン……」
オッドと兵士の深刻な会話に、誠司が食べ物を噴き出して反応した。
「ルティンって言ったのか!? フェミマール・ルティン!」
誠司は机を叩いて、追及するように二人を問い質した。この瞬間までは、自分には無関係だろうと蚊帳の外に身を置いていたが、記憶にあるその名前を聞いてしまったら話は別である。
「なんだ、クロノといったか? お前、この男を知っているのか?」
オッドが紙束のうちの一枚を誠司に差し出した。
その紙につらつらと書き記されている文章を誠司は読むことができなかったが、大きく真ん中に描かれた人物の顔だけで、二人の会話からその意味を察することはできる。
「そういえば……こいつは誰なんだ? もう営業は終わっているんだろう?」
兵士はたった今気がついたように、誠司に関心を示した。
「それがわからないんだ。困ったことに、身分印もないんだよ。誘拐されて帰る宛もわからないというから、ひとまずうちで飯でも食わせようかと……」
「身分印もない……? お前、よくそんな怪しい人間の世話をしようと思ったな? まあ、ここは俺の管轄じゃないから目くじらは立てないが、ルティンについて知っているというなら詳しく事情を訊かないわけにはいかない。お前……ルティンと会ったことがあるのか?」
兵士が尋問のような口ぶりになって、目つきが鋭くなった。
しかし誠司はそんなことを気にせずに、渡された一枚の紙を握りつぶさんばかりに手のうちで皺を寄せる。
「こいつだ……!」
「こいつとは、ルティンのことか? 身分もわからないお前が、いつ頃、どこで会った?」
「今日の朝だ! 今日の朝、気がついたら俺の目の前にはこいつがいて、自分の住んでいたところからこの町に連れ去られていたんだ!」
「なんだって!?」
兵士はオッドと顔を見合わせると、一筋の汗を垂らしながら詰め寄った。
「お前は以前から、この男と顔見知りだったのか?」
「そんなわけあるか! ただ……そうだ!」
誠司は朝の不意に起きた出来事を、記憶の糸を手繰るように思い出しながら、
「召喚がどうとか……術式がどうとか言って、俺を呼び出したと言っていた……。どこかの王様の命を……絶って欲しくて、俺を呼び出したとか、なんとか」
細かい名前や名称までは思い出せなかったが、大筋は間違っていないはずである。
そして兵士にとっては、その大筋が何よりも大事な鍵であった。たまたま手配書を配るために立ち寄った店に、大きな鍵となる人物が転がっていたのだ。
「おいおい……マジか……」
オッドは苦笑いを浮かべて、兵士に意味深な視線を送る。
オッドにしてみれば気まぐれな親切で拾った子犬が、世界でただ一匹の宝石を嗅ぎつける嗅覚を持った特別な犬に等しかった。
兵士を差し置いて、ついついオッドが質問を投げかけてしまう。
「本当にルティンという男は、クロノを召喚したと言っていたのか?」
「ああ、たぶんだけど……そんな風なことを言っていたよ」
「場所はわかるか? その場所から歩いて、この町に来たんだろう?」
「わかる……と、思う。この町からそう遠くない小さい山の中だったから」
「よし、案内してくれ。クロノが誘拐された手掛かりもそこにあるはずだ」
――オッドは店の奥から引っ張り出した手提げの灯りを手に、夜の町を先導し始めた。
兵士も一緒に連れて、誠司が朝に辿ってきた山林の中を引き返すことになった。
町はずれから見える、そう遠くない小山の中である。山道を道なりに案内は容易であったが、オッドと兵士は今日にでもルティンの尻尾つかみたい様子であった。
誠司は道の途中、オッドに事態の深刻さを訊ねてみた。
「どうしてそんなに慌てているんですか? 明日じゃあだめなんですか?」
「……そうか。クロノには、事の重大さがわからないんだな?」
「ルティンという男が、なにかの罪を犯したのはわかります」
オッドの提げた灯りが、彼の心境を映す鏡のように忙しく揺れていた。
「さっきクロノに見せた紙は、フリークエストの依頼書だ。簡単に説明すると、誰でもいいから要求を満たしてくれた者に、報酬を与えるという内容だな。そして書かれた内容が、ルティンという男を生け捕りで捕らえること。報酬は一億セリエ。もし死んでしまった場合には、その十分の一という話だった」
「えっと……つまりルティンという男に、多額の賞金が懸けられている状況ということですね」
オッドが頷いて、兵士が横から口を挟むように付け加えた。
「一億セリエってのは、ただの依頼に出せる額じゃない。一生遊んで暮らせるような大金が、その男一人に懸けられたんだ。しかも国王からの命令な上に、フリークエスト。普通国王から受けるクエストというものは、名を馳せた信頼の置ける職人だけが受けることのできる“指名クエスト”だ。にも拘らず、今回はフリークエスト。国王の焦りが目に見えるようだろう? 誰でもいいから、ルティンを捕まえて連れてこいという激昂に近い手配書が国内外に緊急でバラまかれている」
「ルティンという男が、それほどのことをやってしまったということですね」
「そうだ。戦争の引き金に指を掛けたまま、行方を暗ましている。このままではカイトラはおろか周辺の国々も安心して眠れないだろうさ」
兵士が不安げに呟いた。誠司も不安であった。
そんな大犯罪人だけが、誠司の唯一ともいえるこの見知らぬ土地での接点だからである。
ルティンの指に掛かった引き金は、すでに誠司という男を弾丸にして発射してしまっているのではないかと根拠もなく思えてしまうのだった。
しばらく三人は早足に歩いて、やがて見覚えのある小屋を誠司が指差した。
「あれだ! あの小屋から俺は出てきたんです」
山中にぽつりと寂しく建っている小屋の前に、三人はやって来た。
窓が一つあるだけの粗末な木造の小屋で、人が長く住むようには造られていないようである。
オッドは恐る恐るただ一つの窓から内部を覗くと、人気のないことを確認して兵士に合図を送っていた。兵士も慎重な面持ちで腰に掛けた剣の柄を握りながら、ゆっくりと正面の扉を開く。
「……人の気配はなさそうだが、誰かがいたような雰囲気はあるな」
オッドは兵士の身体を盾にするように、その背後から部屋を照らした。
兵士も天井に下がっていた明かりを灯して、部屋の中を昼間のように照らす。
「クロノ……ルティンはお前と話したあと、どうしたんだ?」
オッドが床に目を落としながら、誠司に訊ねた。
床にはなにかの落書きが雑に拭き延ばしたような跡が残っている。
「話は、ほとんどしていない。俺の名前を聞いて、逃げていきました」
「名前……? クロノという名前を聞いて、逃げていったのか?」
「はい、正確には……黒野誠司ですけど……」
「時の(クロノ)……魔術師!?」
オッドが目を見開いて声を上げ、兵士が捜索の手を止めた。
二人の誠司を見る目が、瞬く間に悪寒のようなものに変わってしまう。
あのときのルティンと同じような反応であった。いよいよ誠司は自分の名前に問題があるのだと突き付けられた気がした。
「どうしたんです? ルティンたちも同じように、びっくりしてましたよ。どこにでもあるとまでは言わないけど、一般的な名前じゃないですか」
「ハハッ……、一般的なもんか」
兵士が乾いた笑いと共に、誠司に返した。
「クロノ……ってのは置いといて、この世界で生きていくのに魔術師なんて言葉を軽々しく口にするのは命取りだ」
「セージ、って言葉が禁句ってことですか?」
誠司の問いに、オッドが床の落書き跡を足で擦るようにしながら言った。
「セージ。つまり遥か昔に、魔術を扱った者を指す言葉だな。現代では各国で選ばれた極少数の貴族だけが、万一魔術師が現れたときの対抗手段として研究を許されている禁術だ。それは国境を越えて制定された、大陸法としても定められている。魔術を使えば死刑は免れない」
死刑は免れない――誠司にはその言葉の重さよりも、さっきから頻繁に飛び交う“魔術”という単語が気掛かりだった。
「そもそも魔術なんてもの、誰も使えやしないでしょう? おとぎ話の世界だ」
誠司は至って真面目にそう言ったが、兵士は愉快気に履き違えた解釈をした。
「がっはっは! そりゃあ、俺たち平民にとってはな! なんせ貴族も脅かす軍事力であり、智慧であり、夢なんだ」
高らかに笑う兵士を諫めるように、オッドが真剣な顔つきをする。
「だけどルティンにとっては、そうじゃない。ルティンはアトン学術所のエリートだ。恐らく秘匿事項だが、ルティンが魔術を研究する一員だったんだろうな」
これを見てくれ――と、オッドが先程から注意深く探っていた足元に注目を集めた。
「何かが描かれて、そのあと慌てて消されたような跡が残っている。ルティンは逃げたとクロノは言ったが、あとからここに戻って来て大急ぎで証拠を消したんだろう」
「ルティン自身も……魔術の危険性は理解しているだろうからな」
オッドと兵士は意見を一致させると、それから部屋の隅々までを調べて、今日のところは町に引き返すということになった。
三人でまた町にまで戻ると、オッドと兵士は店の前での別れ際に、二人で口裏を合わせるように会話していた。
「クロノのことは、伏せておいてくれ。見たところ、魔術が使えるようには思えない。それよりもルティンを捕らえる鍵になるかもしれん。一億セリエだ……いいよな?」
「ああ、クロノはそっちで上手く隠してくれ。ルティンの情報も、似たような人物の目撃情報がシチーの町の近くであったというくらいにしておくよ。特級のフリークエストだ。それくらいの情報なら、明日の朝には溢れ返っているだろう」
兵士は子供のような笑みでオッドの胸を拳で小突くと、誠司にも話しかけた。
「すまねえ。別れ際だが、自己紹介が遅れたな。俺の名前は、ザタン・イブラム。今はカイトラの一領主に世話になっている傭兵の一人だ。オッドとは顔見知り程度だが、商売人と傭兵だ。でかい儲け話には乗らせてもらおう。よろしく頼むよ」
イブラムは誠司と握手して別れを告げると、真夜中の暗闇に消えていった。
「明日から忙しくなりそうだ」
オッドは自分の店の扉に手を掛けながら、誠司に声をかける。
「泊まるところ、ないんだろう? もしお前が協力してくれるなら、俺もその間は飯と寝床の協力をしてやろう。どうだ、しばらく俺と組まないか?」
オッドの魅力的な提案であったが、誠司も二つ返事とはいかなかった。
「俺は……。別に急いじゃいないけど、迷子の身だからなぁ。もとの家に帰れる目途が立ったら、いつ帰るかもわからないですよ。それでもいいなら、少しの間くらいなら協力してもいいけど……」
「もちろん、そっちのほうも協力しよう。詳しい話は明日だな」
オッドに迎えられて、誠司は店の二階にあるオッドが暮らしている部屋に上がった。
「男二人だと狭っ苦しいが、野宿よりはマシなはずさ」
ほとんど床に直で雑魚寝の状態であったが、たしかに草木を枕にするよりは快適だろう。
親切なオッドと出会えたのは、不幸中の幸いだったかもしれない。
誠司は横になって、そっと目を閉じた。別に急いで帰ったところで、幸せな生活が待っているわけでもない。そういう意味では、悠長になれる気がした――。