五章 一話 落ちぶれた貴族の男
五章 一話 落ちぶれた貴族の男
「そういえばクロノは、アトン式を持っていないのか?」
道行く途中で、イブラムに訊ねられた。
「ルティンから貰ったものが二つ……だけですね」
「たしか攫われて来て、身分印もないんだろう? アトン式二つじゃあ、畑を耕すにも、商人をするにも苦労するような数字だぞ」
ましてやクエストを受けるとなれば、両手の指では新米のフリーターにも及ばないという。
「ザタンさんは、幾つくらいアトン式を持っているんですか?」
「ああ――今、幾つだろうな? けっこうくだらないものもあったりするんだ。鳥の鳴き声をマネするようなものもある」
「鳥の鳴き声? それは……わざわざ訓練をして手に入れたんですか?」
「訓練? 違うな。アトン式ってのは、基本的に買うものなんだ。買ったものを上手に使うための訓練はするが、手に入れるための訓練ってものはしない」
ちなみに鳥の鳴き声をマネするアトン式は、戦場で退屈だったために行商人から買ったらしい。一晩だけ仲間たちと盛り上がって、そのあとに出番はなくなったとイブラムは笑って語った。
「お金を出せば、誰でも好きなものが買えるんですね」
「そこは複雑なんだよな。基本的にアトン式を新しく作っているのは、その国々のアトン学を修めた貴族たちだ。貴族は新しく作った術式の権利を売って金にするが、役に立つアトン式は自分たちで独占したいという思いもある。法外な金銭を支払えば売ってはくれるが、コネが必要だ」
イブラムはそう言って狭い路地裏に入ると、唐突に誠司をとある家の窓に投げ入れた。
「あでぇっ! なんですか、ザタンさん!」
「わるいな、そこが客の入り口なんだ」
イブラムもすぐに窓から身を乗り入れて、誠司が立ち上がるのに手を差し伸べた。
「客の入り口って……。ここがなにかの店なんですか?」
日の入らない、昼間でも薄暗い屋内を見回した。
板張りの床に、家具の一つも置かれていない小ざっぱりとした部屋だった。外へ出るための扉がないので、本当に入って来た窓だけが出入り口の代わりなのかもしれない。
「裏の紹介所があれば、裏のアトン術式屋もあるってことだな」
イブラムは部屋の白い壁に両手をついて、体重を掛けて押し出した。
すると、わずかに壁に隙間が作られたあと、大きく斜めにずれ込んで、地下へと続く階段が現れた。
「ここを……降りるんですか?」
誠司はなにかの悪事に手を染めているような気分になってしまうが、
「店主が元々貴族の生まれなんだ。この地下道は、領主が万一に城外へ逃げるためのもので、決して怪しいもんじゃない。まあ……勝手に使っていることには変わりないけどな!」
イブラムが先に下りて行ってしまう。引き返すわけにもいかなくなった。
「扉は閉めておいてくれよ!」
イブラムに頼まれて、誠司は斜めに開いた壁を押し戻した。
灯りもない、季節にはそぐわないひんやりとした空気が通る石段を下っていた。
大人の男が二人分ほどの高さを下りた先で、ようやく明かりの差す通路に顔を出した。通路は時折十字路を経たり、丁字路にぶつかったりして複雑な造りになっているようである。
しかし、通路に均等に配置されている硝子灯のなかには、灯る明かりが限られていた。それを誘導灯のようにして、イブラムは道を進んでいく。
「こんなところに人が住んでいるんですか?」
地下道は丁寧な石造りの通路で、雨風は通さずに頑丈そうではあるが、とても人が住むような場所ではなさそうだった。
「別に住んじゃいないさ。出入り口も一つじゃない。俺は迷っちまうから、あそこの入り口からしか入らないけど、今から会う男はこの複雑な地下道をすべて把握しているんだ」
「え……、全部ですか? ここってたぶん、相当広いですよね?」
「広いだろうな。ただ、ちょっと変わり者なやつでさ。その異常な記憶力と知能の高さで、子供の頃はずいぶんと将来を期待されたらしい」
子供の頃は――人の語り口にそういった前置きが付くときは、多くは期待が外れたことを示してしまう。
「そんなんだからってわけじゃないが、物の好き嫌いが激しい性格なんだが……」
クロノは気に入ってもらえると思う、とイブラムが自身あり気に言った。
店主のざっくりとした人物像を聞いたところで、地下道のなかに扉が一つ見えてくる。元から存在していたというよりも、後から地下道に合わせて素人が作ったようだった。
安っぽい木材に、釘や継ぎ目が目立つ扉をイブラムが叩く。
「明かりがついているってことは、いるんだろう?」
しばらく返事がなかったので、誠司は留守なのではないかと思いかけたが、
「……ザタンか。最近よく来るな。俺の話せる情報はもうないぞ」
「情報じゃない。あんたの本業についてだ。入るぞ……?」
イブラムは扉を開けて、誠司を中に招いた。
誠司は部屋とも言えない、地下道を区切っただけのはずの空間に目を忙しく散らせる。
天井近くまで高く積まれた本に、投げ捨てられたメモ書きや、丸められた紙屑が幾つも落ちていた。男が椅子に座って肘を掛けるテーブルの上にも、読みかけの本が重ねられて、食べかけのパンが直に置いてあり、おまけにアトン鉱らしきものが雑に小さな山となっていた。
お世辞にも綺麗な部屋とは言えないが、誠司の視線は最後に部屋の中央の床に向けられる。
そこだけは、塵一つも許さないように片付けられていた。不気味なのは、血のような赤い文字が大きな円を描いて、その中にびっしりと文字を敷き詰めていることである。
「また、こんな甘ったるいパンばっかり食べているのか? 病気になるぜ」
「余計なお世話だ。俺が昔から偏食なのは知っているだろう?」
イブラムは驚くこともなく男に近づくと、テーブルの上のパンを勝手に齧っておいて、いかにも不味そうな顔を浮かべた。
男は黒髪の坊主頭に、黒い瞳を持っていた。容姿だけなら、日本人にも見える。
誠司は扉を半開きに、身体半分を部屋に入れて男に声をかけられた。
「お前さんがザタンの客人か……。言っておくが、俺は気に入らない人間相手には商売をしない。どういった要件でアトン式が欲しいんだ?」
誠司を見定めるような男の顔は、まるで常に困っているかのような垂れた眉をしていたが、双眸は非常な現実を射るような厳しい瞳である。
「こいつ、身分印がないんだよ。おまけにこの年齢でアトン式も二つだけだ。強くしてやってくれ」
イブラムが怖気づく誠司に代わって、男に事情を伝えた。
だが、男の視線は誠司を捉えたままに狙いを定めて、質問を投げかける。
「俺はこんなところで仕事をしているが、別に厄介事を持ち込みたいわけじゃない。むしろ逆だ。裏で仕事をする人間ほど、余計なリスクは負いたくない。アトン式の数なんてどうでもいい。なんで身分印がないんだ? どこで生まれ育ったらそうなるんだ」
「それは……」
誠司は言葉を濁したが、イブラムがにこやかに目配せしてきたので、正直に話すべき合図なのだろうと受け取った。
「そんなものがない国から、俺がやって来たからです。本当はアトン式というものも持っていませんでしたが、ルティンという男に攫われて、偶然にも手に入れました」
「ルティン? フェン……いや、フェミマールのことか?」
男は目を見開くと、イブラムを睨みつけた。
イブラムが薄笑いを浮かべたまま深く頷いたので、男は立ち上がって誠司に近づくと、左腕をつかんで引き寄せた。
「あなたもルティンを知っているんですか?」
「俺を唯一認めてくれた男であり、俺が唯一アトン式の構築技術で認めた男だ」
いつかのように、男は誠司の左腕からアトン式を展開させて宙に赤い文字を躍らせた。
小さな部屋が宙に漂う赤い文字で埋め尽くされて、男がそれを目で追いながら会話を進める。
「たしかにこれは、ルティンのものだな……」
「わかるんですか? ハドリアさんもそう言ってました」
「ハドリア? 誰だそれは」
「ハドリアさんは知らないんですか? ルティンの幼馴染です」
「知らないな。俺はフェミマールとは数回会っただけだ」
「アトン……学術所、でしたっけ? 二人でそこに通っていたみたいですけど」
誠司はどちらかといえばハドリアに好感を持っていたので、彼の昔の話を振ってみたが、壁に寄り掛かって腕を組んでいたイブラムが声を上げて笑った。
「クロノ、学術所の話は禁句だぜ!」
「別に禁句じゃない。ただ単純に昔、卒業できなかっただけの話だ」
男は不機嫌そうにイブラムに言うと、いちいち気を遣われるほうが癇に障るのか、自ら他人に禁句といわれる出来事を語ってくれた。
「俺はとある貴族の長男として生まれたんだ。物の覚えもよく学術所に入学したはいいが、アトン式の構築はできても、ほとんど使うことができなかった。完璧に組んだはずの術式も上手く効力が発揮されず、次第に周囲からは親父と血が繋がっていないとまで噂された」
男は誠司に椅子に座るように促すと、足元に転がっていた木箱から針の取り付けられたガラス管を取り出して、誠司の腕に刺そうとする。
「なっ、なにをする気ですか!?」
「血を取るんだよ。アトン式を身体に埋め込むには、自分の血で作った術式でないと拒否反応が出てしまうことがある」
「血を取って……どうするんですか?」
「どうするだと? 強くなりたいんだろう? 俺が術式を埋め込んでやるっていうんだよ。礼などいらん。久しぶりにフェミマールの術式を見て勉強させてもらった」
「礼などって……。俺はまだ、何も聞いていなければ了承もしていないのに……」
「……なんだ、俺が信用できないというのか?」
男は分かりやすく気色ばむと、机に拳を叩きつけて叫んだ。
「俺はフェミマールを除いて、この国で自分よりも術式の構築ができる人間を見たことがない! たとえ落ちぶれようとも、この血はたしかに偉大なる親父を引き継いだものなのだ! 立派な通りに店を構えたバカな貴族共を信頼するくらいなら、安心して俺に身体を任せておけ! いつまでもこんな地下道に引き籠り、自らがアトン式を使えない理由を探るような女々しい男だが、若い頃はアトン術式の将来を担うと言われたこともあったのだ」
そんなこと言われても――という感想は置いておいた。
だが、たしかに強くなりたいと口にしたのは自分である。リスクを取れないのならば、今の自分に差し出せるものはないのかもしれない。
誠司は目を瞑って黙り込んだ。
冷静に考えれば、知らない世界でなにを血迷っているのかとも思える。とにかく家へと帰る道を探し出し、余計な回り道など必要などないのかもしれない。
ただ誠司は、ここで人々に触れ、ここで少しばかり愉快な時を過ごし、ここで大きな挫折を味わってしまった。
一度張ったギャンブルを途中で降りられる人間は賢い。誠司は賢くない。それだけである。
誠司は覚悟を決めて、机の上に腕を捧げるように差し出した。
男は感情が昂ったまま、手先だけは繊細に誠司の腕に採血の針を打ち込む。
「覚悟は、できているな……」
すぐに誠司から採った血を大きなフラスコの中に注ぎ変え、そこに山積みになっていたアトン鉱を雑に放り込んだ。
男は床に這うように膝をつくと、そのフラスコを左手に、右手の指を床に滑らせる。
床に描かれていた赤文字がその指に連動する。丸い囲いの中で、文字は縦横無尽に動き、時に消えたり現れたりを繰り返しながら、やがて男は指を止めた。
すると今度はフラスコを傾けて、床に誠司の血をぶちまけた。
誠司が半ば驚きを通り越して、恐怖でその顛末を眺めているなか、誠司の身体を流れていた血液だったものは赤い文字に重なるように床に止まった。
「そういえば自己紹介がまだだったな……」
最後に男は準備が整ったという風に、床に人差し指を突き立てると、
「俺の名前は、ルベダ・コルドー。カイトラ三騎の正統後継者であり、金の御旗を持つ者だ」
床の赤い文字が蛇のようになって、うねりながら誠司を目指して動き始めた。
一本の長い列を成して、赤い蛇は誠司を食らうように左手に吸い込まれていく。
「うわあぁ! なんだよこれ!」
誠司は思わず手で払おうとしたが、赤い文字は遠慮なく身体へと取り込まれていく。
「身体の造りが変わるんだ。ちょっとしんどいけど我慢してくれ」
男の言葉の一つ一つを考える間もなく、誠司は自分のことで精一杯になっていた。
身体の隅々で神経が危険な信号を訴えている。発汗から、痛みから、激しい動悸まで、様々な悲鳴が一時に起こって、誠司は意識がぼんやりとしてきた。
「ザタンさん……これっ……やばそうなんですけど」
「大丈夫さ。寝て起きたら、お前は新しい自分に生まれ変わってるはずだ」
椅子から転げ落ちて見上げた天井が、真っ暗な世界に塗り替わっていった。




