策を練る満月⑵
僕と満月との出会いが「運命の出会い」かどうかを訊かれれば、僕は少し悩んでから、「多分」と答えるだろう。
本来別々の世界線にいたはずの2人が、たまたま同じ時間に同じ場所に居合わせたという意味では、それは「運命の出会い」にほかならないのである。
もっとも、その場所はどこかといえば、警察署なのである。
ロマンチックとはあまりにも縁遠い場所。
だから、「運命」という表現には若干抵抗がある。
ただ、「偶然の出会い」であったことは間違いない。
「あのぉ、お兄さん、すみません。隣空いてますか?」
「……空いてますよ。どうぞ」
これが満月と僕が交わしたはじめての会話である。
これがたとえば地元のバーだったり、コンサート会場だったりすれば、ありきたりな「運命の出会い」なのだろうが、残念ながら、ここは警察署であり、2人が並んで腰掛けたのは受付の前に置かれた待機用ベンチなのだ。
綺麗な女性がいきなり僕の隣に座ってきたということで、当時の僕は浮き出しだったかといえば、そうではない。
なぜなら、僕は仕事中だったからである。
弁護士先生から頼まれ、警察署に告訴状を提出しに来ていたのだ。
これは法律事務所の仕事の中ではなかなか珍しい部類に入る。告訴自体がそう多くないということもあるが、告訴状は郵送でも提出できるため、わざわざ警察に赴くことはない。ただ、このときは、弁護士先生に直接警察署に提出しに行くように命じられたのだ。たしか告訴期限がギリギリだったとかそういった事情だった覚えがある。
浮き足立ちこそしなかったが、すごく美人だな、とは思った。
手足がスラリと長かったので、もしかしたらファッションモデルか何かかな、いや、警察署に来てるということは水商売関係の可能性の方が高いかな、とかそんなことを僕は頭の中で考えていた。
とはいえ、警察署というのは、大変デリケートな場所である。探られたくない事情を持った人が来る場所である。
だから、隣に座った女性に、「何しに警察署に来たんですか?」などと訊くことなどできるはずがなかった。
「何しに警察署に来たんですか?」
「……え?」
訊くことができるはずのないことを、満月は平気で僕に訊いてきた。
この、良い意味での無神経さが、ライターの武器なのだと今ならば納得できるが、当時の僕は満月の職業など知るはずもなく、ただただ驚愕した。
「えーっと、告訴状を提出しに」
「へえ。誰を訴えるんですか?」
「……分かりません。僕は代理で提出しに来ただけなので」
「代理?」
「僕、法律事務所の事務員なんです。なので、僕の告訴状ではなく、あくまで依頼者の告訴状を代わりに持ってきてるだけで」
「法律事務所で働いてるんですね! それは興味深いです!」
この「興味深いです!」というのも、満月がライターであることを知っていれば納得ができたのかもしれないが、当時の僕は、この子はかなり変な子だなという印象を抱いた。
一旦会話が途切れたので、思い切って、僕の方からも満月に質問してみた。
「あなたの方はどうして警察署に来られたのですか?」
「そうそう。聞いてくださいよ」
満月が、待ってました、と言わんばかりの反応を見せる。
「私、今日、置き引き被害に遭ったんですよ!」
「置き引き……ですか」
満月は、自分が遭った被害について、初対面の僕に、明け透けに話した。
要約すると、お昼休みにコンビニでお弁当を買い、それを近くの公園のベンチで食べ、公園から離れたときに、ベンチの上に貴重品の入ったポシェットを忘れてしまった。そのことに気付いた満月が公園に戻ったものの、ベンチの上には何も置いてなかった、という話だった。
「ポシェットを忘れたのに気付いたのはいつなんですか?」
「公園を離れた2時間後くらいです」
「2時間もですか!?」
それは置き引きされて当然である。
「ご飯食べたら眠くなっちゃって、漫画喫茶で仮眠をとってたんです。財布はポケットの中にあったので……」
なんとも満月らしいエピソードだな、と今ならば思う。
警察署の平均待ち時間がどれくらいなのかということはよく分からないが、少なくともこの日は僕も満月もなかなかに長時間待たされた。
僕が担当の警察官に呼ばれるまでに30分近く時間があった。その間、僕はずっと満月と雑談をしていた。
話は尽きなかった。
話が合うな、とも思ったし、純粋に楽しかった。
このときに僕はすでに満月に好意を抱いていたと思う。
ただ、それは、たとえばテレビを見ていて、「この女優さん可愛くて好きだな」と思うのと性質は変わらないものであって、交際を意識したものではなかったし、行動が伴うものではなかった。
とはいえ、満月と名刺交換はした。
決して下心があったわけではない。
もしも満月の置き引きの犯人が見つかった場合などに、弁護士が必要となる可能性があるかもしれないと思ったからだ。
いわば営業である。
名刺の本来の用法であるともいえる。
その名刺に書かれた住所を見て、僕の勤務する法律事務所を、満月が訪れたのは、なんと警察署で会った翌日であった。
裁判所に行ったり、打ち合わせをしたりと弁護士先生にはその日その日によって違うスケジュールで動いている。そのため、法律事務所というのは、通常はアポなしで突然訪れてはいけない場所である。突然来られても、弁護士の予定が空いているか分からないし、そもそも事務所にいるかどうかも分からない。
受付で対応した僕は、満月にそのように伝えると、満月は驚くべきことに、
「私、弁護士に用があるわけじゃないんです。あなたに用があるんです」
と言い放った。
一体何事かと思い話を聞くと、満月はライターとして、僕を取材したいとのことだった。
「僕なんて取材しても意味ないですよ。ただの事務員ですから。業務はすべて裏方業務です。僕は弁護士先生の黒子ですから。取材するなら弁護士先生がいいですよ」
「弁護士の記事なんて世の中に山ほどあります。私は、事務員を取材したいんです」
たしかに、少なくとも僕は、法律事務所の事務員が取材を受けた記事というものを過去に見たことがない。
もっとも、それは需要がないことの証左でしかない。
他のお客さんもいる手前、受付で押し問答を続けるのは良くないので、僕は、事務所にもう1人いる事務員に受付を代わってもらい、普段は弁護士先生が使う相談ブースに移動した。
満月もなかなか譲らなかったが、僕も断固として譲らなかった。
すると、満月の主張はどんどん和らいでいき、
「たしかに需要はないが、私が面白く書く」
というところから、
「記事にはしなくても今後の参考になる」
となり、果てには、
「あなたとお茶がしたい」
となった。
「近くの喫茶店で小一時間お話しませんか?」
「あの……僕、今、業務中なんですけど」
「そんなに長い時間じゃなくていいです」
満月には気があったので、内心は喜んでいたが、とはいえ、さすがにタイミングというものがある。
「すみません。どんなに短い時間だったとしても、勤務時間中に外出することは許されないんです」
ここでも僕が譲らずにいると、満月はついに諦めた。
肩を落とし、トボトボと事務所を出て行く様子を後ろから見送った僕は、思わず呼び止めてしまいそうになったが、それだと公私混同になると思い、踏み止まった。
正直、僕は、満月が何を考えているのか、よく分からなかった。
僕を強引にお茶に誘い出そうとしたことからすると、もしかすると満月は僕に気があるのかもしれない。取材を口実に、僕に近づきたかったのかもしれない。
しかし、当初言っていた目的のとおりで、単に僕を取材したいだけで、僕をおびき出す「エサ」として、あたかも僕に気があるフリをしているだけの可能性もある。
満月からもらった名刺には、満月の携帯電話の番号が書かれている。仕事が終わったら、この番号に電話をしてみて、感触を確かめてみようか。
——いや、待て。
もし、満月が僕に一切気がないとすれば、僕が連絡を取ることは問題ではないか。女性記者に対するセクハラは、この国の社会問題の一つではないか。取材を口実に、満月に近づきたがってるのは僕の方なのではないか。
そんなことを考えて、やはり僕から満月に連絡をすることは止めておこう、と僕は決意した。
その数十秒後、決意は変わらなかったが、事情が変わった。
先ほどまで僕と満月が言い合っていた相談ブースの机の上に、満月が、スマホを置き忘れていたのを見つけたのである。
今ならまだ間に合う、と思った。
満月が事務所を出てからまだ1分程度しか経っていない。
満月はまだ事務所の近くにいるはずだ。
僕は、満月のスマホを拾い上げると、事務所を飛び出した。
満月の後ろ姿はすぐに見つかった。
最寄駅の方に向かって、やはりトボトボと歩いていたのだ。
僕は駆け寄り、肩を叩く。
満月は、突然肩を叩かれたことと、振り返った先にいたのが僕であったことに驚き、目をパチクリさせていた——ように、少なくとも僕には見えた。
僕がスマホを突き出すと、満月は、少し間を置いてから、
「わざとですよ」
と言った。
満月の言葉の意味が分からず、戸惑う僕に対し、満月はさらに続ける。
「さっき、勤務中は外に出ることができない、って言ってましたよね?」
「はい」
「でも、今、外にいますよね?」
「……はい」
「じゃあ、ちょっとくらい大丈夫ですよね?」
「……はい?」
満月が通り沿いの建物をちらりと一瞥する。
偶然——だと僕は思っているのであるが、僕が満月を呼び止めた場所は、チェーンの喫茶店の目の前だった。
「この喫茶店で小一時間お話ししましょう! きっと、これも何かの縁ですよ!」
手作りもつ鍋で食あたりを起こした関係で更新が滞り申し訳ありませんでした。
今後はもつ鍋はお店で食べるなどし、再発防止に努めますので、今後とも何卒よろしくお願いします。