悪びれる満月⑵
「それから、帰ってきたら手洗いうがいもしてよね」
「分かったよ」
洗面台へと向う満月の背中を見送りながら、僕は一度深呼吸をする。
——さて、どうやって別れを切り出そうか。
実際に満月に会ったことにより、早くも僕の心は揺らぎかけていた。
せめてあと20日間は満月との関係を楽しめないかなどと考え出している。
——いや、それは絶対にダメだ。
今切り出さなければ、どんどん切り出しにくくなるに決まっている。
今満月に別れを告げないと、僕は満月にまたとんでもない迷惑を掛けることになりかねない。
洗面所から戻ってきた満月は、僕の深刻な表情を見て、何かを悟ったようだった。
キョトンとするではなく、これから僕が言うであろうことを覚悟しているような顔をしていた。
——よし。今がチャンスだ。
満月に別れを告げるんだ。
理由なんて後付けで何とでも言えばいい。
別れるということが何より重要なのだ。
とにかくまず言えばいい。
「ごめん。別れよう」と。
その後の言葉は何だっていいのだ。
「ごめん」
「……え?」
先に「ごめん」と謝ってきたのは、なんと満月の方だった。
「桔平、ごめんね。私いつもワガママばっかりで桔平を困らせて」
僕は事態が全く飲み込めなかった。
まさか満月は僕の心を読んでいて、先回りして謝っているというでもいうのか。
「そりゃあ、いくら桔平だって怒るよね。私、本当に何もできない女だし」
「そんなことないよ」
反射的に言葉が出ていた。
「満月はいつも僕に元気をくれるし、いつも僕のことを考えてくれてる。僕に対して、満月は何でもしてくれてる。満月は最高の妻だよ」
「……妻? 気が早くない?」
「いや、ごめん。彼女。まだ彼女だったね。とにかく、満月は僕が出会った中で最高の女性なんだ。だから、そんな、何もできないとか言わないでよ。満月はそんなダメな女じゃないから」
「じゃあ、桔平、許してくれるの?」
「許す? 何を?」
「ワンちゃんのこと」
ワンちゃん? そういえば、さっき玄関でも、ワンちゃんがどうとか言っていた気がする。
「ごめん。満月、何の話だっけ?」
「私が勝手にワンちゃんを引き取ってきた話」
「ああ!」
完全に思い出した。
たしかに2年前、そんなことがあった。
満月が保護犬について特集していたテレビ番組に感銘を受け、僕の知らないうちに動物愛護センターに連絡を取り、突然、保護犬(しかも大型犬)を引き取ってきたのである。
満月が面倒を見れないことは明らかだったし、第一、僕らが住んでいるアパートはペット禁止である。
そこで、僕は、満月に、犬を動物愛護センターに返してくるように強く言ったのだ。
今日はまさにその日だったのである。
満月が家を不在にしていたのは、犬を動物愛護センターに返しに行っていたからなのだ。
「そんなの全然気にしてないよ。満月、遠くまでお疲れ様」
たしか動物愛護センターがあったのは、隣接する他県だった記憶がある。
「本当に気にしてない?」
「うん。全然」
「じゃあ、またワンちゃんを引き取ってきていい?」
「それはダメ」
「小型犬でも?」
「ダメ」
「やっぱり怒ってるじゃん」
えーん、えーんとわざとらしい泣き真似をしながら、満月は、僕の胸に飛び込んできた。
僕は満月の華奢な身体をぎゅっと抱き締める。
満月の鼓動が僕に届くたびに、僕は満月に絡めた腕を解きがたくなってくる。
結局、僕は1分間近く満月を抱きしめていた。
満月の体温が僕の心を完全に溶かしきってしまったようで、今日の僕はもう満月に別れを切り出せるような状態ではなかった。
今日のところは満月に完敗である。
僕の腕をすり抜けた満月は、いつの間にやら机の上に置かれていた袋から、透明なパッケージを取り出した。
「じゃーん」
「何それ?」
「DVDだよ。お笑いの。桔平がまだ怒ってると思って、借りてきちゃった」
「怒ってても、お笑いのDVDを見れば笑顔になるだろうってこと?」
「そういうこと!」
パッケージを確認すると、たしかに2年前も満月と見た作品だった。
大爆笑とまではいかなかったが、それなりに笑った覚えがある。
満月がゲーム機を使ってDVDを再生する。
机の上に目を遣ると、コンビニで買ってきたと思われるショートケーキが2つと、紙パックに入ったレモンティーが置かれている。
仲直りのための貢物としては、なかなか悪くない。
満月とソファで並んで座ってお笑いのDVDを見ながら、僕は、2年前の今日について思い出していた。
満月が引き取ってきた犬は、たしか生まれつき片足がないレトリバー犬で、特別な世話が必要であり、保護センターでもなかなか引き取り手が見つからない犬だった。
そのレトリバー犬を突然家に連れてきて、「私が全部面倒見るから!」と言い放ったのである。
満月が何もできないとは思わないが、満月が自分の身の回りのことも満足にできていないことは否めない。だから、僕は満月に厳しく言ったのだ。
「そんな犬引き取っても責任取れないでしょ!」と。
——全く、他人のことを言えないな。
僕は心の中で苦笑いをする。
結局、責任を取れなかったのは僕の方なのである。
僕は満月の人生の大事な4年間を奪った挙句、満月に何も残してあげられないまま、突然この世を去ったのである。
そして、蘇った今の僕だって、満月のことを捨てようとしているのだ。
どんな言葉を弄したって、別れを告げる以上は、満月は悲しむし、傷付くだろう。
それが一番マシな選択肢だとはいえ、満月にとっては決してプラスではない。
やっぱり一番は、僕がちゃんと長生きして、お互いシワシワになるまで満月と一緒に暮らすことなのだ。
どうして僕にはその程度のこともできないのだろうか。
何もできないのは僕の方じゃないか。
「ねえ、桔平、どうしたの? どうしてお笑いを見てるのに泣いてるの?」
気付かないうちに、僕の目からは涙が流れていたらしい。
僕はトレーナーの袖で目のあたりを拭うと、「今のネタがあまりに面白くて、笑いすぎて涙が出ちゃった」とごまかした。
満月は、「だよね。私も今のツボだった」と言って、小さく削ったショートケーキを口を運ぶ。
「最近のコンビニスイーツは侮れないね。なかなか良いクリーム使ってるじゃん」
「満月、なんでそんなに上から目線なの?」
「たしかに。なんでだろ?」
僕らはお互いの顔を見て笑い合う。
満月と過ごすこの「当たり前の幸せ」を、僕は果たして、僕自身の手によって終わらせることができるのだろうか。
それは想像していたよりもはるかに難しいことに違いなかった。