笑顔の満月
「安永桔平君、申し訳なかった」
僕は、神様が当然に偉い存在で、天使を侍らせているところから見ても、おそらくこの「天国」においてもっとも偉い存在なのだと考えていたのから、その神様が、僕の顔を見るやいなや土下座をしてきたことに驚きが隠せなかった。
「本当にすまなかった。このとおりだ」
天使と同様に、見た目は人間そのものである神様が、僕に対し、何度も何度も深々と頭を下げる。
僕は、こんなことを言うのも偉そうだなとは感じつつ、思わず、「顔を上げてください」と神様に言った。
神様は土下座をやめてもなお、しおらしい表情で僕の顔を見ていた。
「どうして神様が僕に謝るんですか? 僕、何か悪いことされましたか?」
神様が頷く。
そして、神様がまた土下座をしようと膝を折ったので、僕はそれを制止した。
「何ですか? 一体僕は何をされたんですか?」
「君を生み出す際に、設計をミスしてしまった」
設計? それは一体何のことだろうか?
ポカンと口を開けてる僕を見て、神様は丁寧に説明をしてくれた。
「わしは『この世』の万物を創生する神様で、人間を含むすべての生物は、私の設計に基づいてこの世に生を受けるんじゃ。とはいえ、わしのフリーハンドかというと、決してそうじゃない。設計には一定の法則がある。その最たるものが『遺伝』じゃ」
そういえば、遺伝についてつい数日前に母と口論になったな、と僕はぼんやりと思い出す。
「わしは一定の遺伝的なルールにしたがって、遺伝的なルールの枠内で、生物を設計しなければならないのじゃ。たとえば、人間について、血液型がA型の親とO型の親との間の子どもは、B型やAB型となってはいかんのじゃ」
僕は、学生の頃に習った「メンデルの法則」を思い出す。黄色と緑色のエンドウ豆を掛け合わせるやつだ。実はそれは科学的な理論ではなく、神様が生物を設計するときのルールだったということなのか。
「たとえば、病気もそうじゃ。親の病気は一定の確率で子に遺伝させるように設計しなければならん。その逆も然りで、親が持っていない遺伝的な病気を、子に遺伝させるように設計してはならんのじゃ」
——待てよ。
それってもしかして——
「神様、もしかして、僕に対して親が持っていない心臓の病気を、誤って設計してしまったということですか?」
神様は少し間を置いてから、俯き加減で、「左様じゃ」と答えた。
「当時はちょうど掻き入れどきでな。同時に設計していた他の子と入れ違ってしまったみたいなんじゃ。その病気を親から遺伝するはずじゃったのは、安永君じゃない別の子のはずじゃった」
——そんなのあんまりじゃないか。
「……じゃあ、つまり、僕が心臓発作で突然死してしまったのは、神様の設計ミスのせい、ということなんですね……?」
神様は答える代わりに、再度土下座をした。
「……ということはつまり、本来ならば僕は心臓発作で死ぬことなどなくて、満月と律と、これから先も一緒に暮らせたということなんですね……?」
「すまなかった。本当にすまなかった」
神様がどれだけ偉い人かは知らないが、いくら頭を下げられたところで、許す気には一切ならなかった。
神様のミスさえなければ、僕は満月と律をいつまでも守ることができたのだ。
満月が無理やり心中を図るようなこともなかったのである。
「……神様、そんなの酷過ぎます。僕には、愛する妻と幼子がいるんです。どうして僕が死ななきゃいけないんですか? どうして僕なんですか?」
目頭が熱くなるのを感じる。
悔しい。
悔し過ぎる。
あまりにも理不尽じゃないか。
どうして下らない「設計ミス」なんかのせいで、僕と満月と律の人生が全て壊されないといけないのだ。
神様は額をピッタリと地面に付ける。
「このとおりだ」
「いくら頭を下げられたって、許せることと許せないことがありますよ!! どう責任取ってくれるんですか!? 僕の人生を返してください!! 僕ら家族の人生を返してください!!」
「そのことなんじゃが……」
神様が恐る恐る口を挟む。
「今回は、特別に、君の人生の『やり直し』を認めようと思う」
「『やり直し』?」
「そうじゃ。時間を巻き戻して、君の人生をやり直しさせてあげよう」
夢のような提案に、ドン底まで沈んでいた僕の心が、一気に弾み出す。
「ということは、僕は、心臓発作で死なずに、満月と律とこれから先もずっと暮らせるということですか!?」
「それは無理じゃ」
突然与えられた期待は、突然裏切られた。
「どうして!? どうして無理なんですか!?」
「君の心臓疾患は、『先天的』なものじゃから、いくら時間を戻したところで無くなることはないんじゃ。『やり直し』をしたとしても、君は結局、同じ日に心臓発作を起こして死ぬ」
「そんな……」
『やり直し』をしたところで、僕と満月との未来は返ってこないのだ。律の成長を近くで見守ることもできない。それでは一切意味がないではないか。
「神様の『設計ミス』だとしたら、そのミスを取り除くことはできないんですか? 僕はただもう少し長生きできればそれでいいんです」
「わしがミスした手前で大変申し訳ないが、わしにはそれはできん。わしの力には限界があるんじゃ。わしができるのは、君の時間を巻き戻すだけ。しかも最長で2年間だけな」
——時間を2年間巻き戻す。
今からちょうど2年前というと、僕と満月が結婚する直前くらいだろう。僕は2回目の結婚記念日を迎える直前に、心臓発作で倒れたのだ。
「もしも君が『やり直し』に意味がないと考えるならば、無理強いはしない。ただ、『やり直し』が君や君の家族のために少しでも役に立つのであれば、私は君にそのチャンスを与えたい」
今から2年前、満月とフィアンセの状態に戻ったとして、僕に何かできることはあるだろうか。
2年後に僕は死ぬ。
それでも、満月が律と一緒に心中を図らず、幸せに生活する方法が何かあるだろうか。
——ふと、あるアイデアが頭に浮かんだ。
それはとても残酷なアイデアであったが、この状況を変えられる唯一の選択肢に違いなかった。
「わしのミスでこんなことに巻き込んでしまって恐縮なんじゃが、わしもなかなか忙しくてのう。いつまでも待ってられないんじゃ。君には今ここで『やり直し』をするかしないか判断して欲しい」
僕は、ガス管を切断し、震えながら律を抱きしめる満月を思い出す。
それは最悪の光景だった。
満月は、本来誰よりも明るくて、誰よりもキラキラした子なのだ。
なぜそんな満月が無理心中なんかしなければいけなかったのか。
——すべて僕が死んだせいである。
それが神様のミスによるものだとしても、僕は、満月に、満月らしく、笑顔が絶えない生活を送らせる「責任」があるのである。
僕は、満月と結婚するとき、そのことを誓ったはずなのだ。
だから、僕は、満月のために、僕の人生にとって「一番大切な2年間」を犠牲にしなければならないだろう。迷う余地なんてどこにもない。
「早く選んでくれ。安永君、どうするんじゃ?」
「……『やり直し』を希望します。2年前に戻してください」
「了解した。じゃあ、目を閉じてくれ。すぐに2年前に戻してやる」
目を閉じると、満月との幸せだった結婚生活の思い出が蘇ってくる。
新婚旅行、そして律の出産。思い出の中の満月はいつも笑顔だった。
2年前に戻った僕は、この思い出をすべて「なかった」ことにするのだ。
2年前に戻り、僕は、満月と婚約破棄をする。
そして、満月の元から離れる。
満月には、僕とは無関係な人生を歩んでもらう。
そうすれば、2年後、僕の死によって満月の人生がメチャクチャになることはなくなる。
満月は可愛いから、きっとすぐに新しい相手が見つかって、僕の与り知らないところで、幸せな結婚生活を送ることができるだろう。
それこそが、僕が満月にできる最大限のことであり、僕が満月にできる唯一の恩返しなのだ。