見上げる満月
「大島さん、そろそろ時間ですよ」
「はい!」
スーツを着た男性に名前を呼ばれた満月は、強張った声で返事をすると、起立をした。
「緊張してますか?」
「……分かります?」
「まあ」
満月は、スーツの男性にエスコートされるまま、控え室を出ると、慣れないヒールをカツカツ鳴らしながら、廊下を歩いた。
ドレスの裾を踏みそうになった満月が、つんのめる。
「大島さん、大丈夫ですか?」
「……多分」
「そりゃ、緊張しますよね。心の準備が要りますよね。一世一代の晴れ舞台ですもんね」
「メイクだけはバッチリなんですけどね」
今日の満月は、プロのメイクアーティストにメイクをしてもらっていた。
普段はあまり化粧っ気がないので、メイク後に鏡を見た満月は、「別人みたい」と声を漏らした。
目的の会場は、ホテルの長い廊下の果てにあった。
開いたドアから、部屋の様子が見える。
決して、狭い部屋ではないのだが、並べられたすべての椅子に漏れなく人が座っている。その様子を見て、満月は目を丸くする。
「たくさん人がいますね」
「そりゃそうですよ。大島さんは、世間の注目の的なんですから。……あ、大島さん、入り口はそっちじゃないです」
さらに会場へと歩を進めようとする満月に、スーツの男性が呼びかける。
「受賞者は、舞台袖から入ることになってます」
「……はあ、なるほど」
「こっちです」
心ここに在らず、といった様子の満月は、カルガモの子どものように、スーツの男性の背中を追った。
「ここで司会の人に名前が呼ばれるのを待ってください」
舞台袖まで満月を連れてきたスーツの男性は、そう言い残すと、満月の前から一旦姿を消した。
満月は、保護者に置いてきぼりにされた子どものように、不安げな顔をして突っ立っている。
ステージには、それ自体がすでに高級感のある白い幕をさらに覆い隠すように、金屏風が張られていた。
舞台袖からステージの様子を確認した満月は、脚をガクガクと震わせた。
ただ、記者席の中に、ある人物を発見した満月は、少しだけ落ち着きを取り戻した。
その人物は、律である。
関係者としてもっともステージから近い椅子を用意されていた律は、綺麗に背筋を伸ばして座っていた。
律はもう小学5年生である。少しだらしのない満月を反面教師にしたのか、律はしっかりした性格で、大人びていると周りから言われることも多かった。
舞台袖から満月が律に手を振る。
しかし、律は「ちゃんと集中しろ」と母親を叱るように眉間にしわを寄せただけだった。
それに対し、満月は小さく舌を出す。
「それでは、第170回芥川賞の受賞会見を行います」
女性の綺麗な発声が会場に響き渡る。
この声の主が、スーツの男性が言っていた「司会」に違いない。
「早速、受賞者をお呼びしたいと思います。『ストロベリームーン』で第170回芥川賞を受賞した大島まりんさんです」
名前を呼ばれた満月は、「はい!」と会場の誰にも聞こえないような小さな声で返事をする。
いつの間にやら先ほどのスーツの男性が満月のすぐ隣にいて、満月をステージの中央にある背の低いテーブルへと誘導してくれた。
そのテーブルの端には、満月が書いた小説である「ストロベリームーン」の単行本が、客席に表紙が見えるように立て掛けられている。
白い背もたれの椅子に腰掛けた満月に、司会から質問が飛んでくる。
「大島まりんさん、デビュー作で受賞が決まった率直な感想をお聞かせください」
「大島まりん」というのは、安永満月のペンネームである。
そこまで特徴的なペンネームではないため、由来を聞かれることはほとんどないが、ハワイ島の通称である「Big Island」が名字の由来であり、まりんというのも、ハワイ島の海をイメージしている。
新婚旅行で夫婦でシュノーケリングをした碧い海である。
「受賞が決まった感想ですか?……正直驚いています。私なんかが受賞して本当にいいんですかね?」
「私に訊かないでください」
満月と司会とのやりとりに、会場から笑いが起きる。
おそらくワイドショーではこのシーンが繰り返し流されることだろう。
「大島さんは、元々はライターで、取材に基づいた、いわばノンフィクションを書いてきたわけですけど、今回のようにフィクション作品を書こうと思ったきっかけはなんですか?」
「ないです」
「え? きっかけはないんですか?」
「この話はノンフィクションですから」
「え?」
戸惑う司会の様子に、今度は満月の方がうふふと笑う。
満月の小説である「ストロベリームーン」は、主人公の女性が、婚約者から突然婚約破棄を伝えられるシーンから始まる。
そして、主人公が料理を猛特訓して、婚約者から認められることによって、婚約破棄を撤回させるわけだが、そこで婚約者は主人公の女性に対して、不思議な告白をする。
実は、すでに自分は死んでいて、自分は人生をやり直すために2年後からやってきたんだ、と婚約者は告白するのである。
そこから始まる特殊な2年間の結婚生活を緻密かつ流暢な文章で描いたのが、この「ストロベリームーン」なのである。
なお、タイトルの「ストロベリームーン」は、6月の満月を指す俗称である。
ジューンブライドからの連想なのか、はたまた「ストロベリー」という言葉のイメージからなのか、ストロベリームーンには「恋を叶えてくれる月」との異名があり、好きな人と一緒に見ると結ばれると言われている。
満月の言うとおり、この小説のほとんどは満月が直接経験した事実に基づいて書かれたノンフィクションなのである。
ただし、結婚した時期だけは、実際とは違い、タイトルに合わせて6月となっている。
司会から一通りの質問が終わると、今度は記者席から質問が投げかけられた。
控え室や舞台袖での緊張が嘘のように、満月は、その質問の1つ1つに、楽しみながら的確に回答していった。
そして、その質問は、最後に挙手をした記者から投げかけられた。
「大島さん、今回受賞をした喜びを、誰に一番伝えたいですか?」
満月は、関係者席の律と目を合わせる。
すると、律は、首を横に振った。
「俺じゃないだろ」と合図するために。
大きく息を吸い込むと、満月は言った。
「いつも私を見守ってくれている夫に伝えたいです」
記者席が騒つく。
手元に配布されている資料には、大島まりんがシングルマザーであることが明記されているからである。
そんなざわめきなど意に介さず、満月は、ホテルの天井を見上げる。
満月の視線の先には、「穴」から満月を見守る僕がいた。
「桔平、いつもありがとう。全部桔平のおかげだよ」
僕に向かって満面の笑みを浮かべる満月に対し、僕は、決して満月に届くことのない言葉を送る。
「満月、おめでとう。満月は僕の自慢の妻だよ」
(了)
本作を最後までお読みいただきありがとうございます。
不慣れなジャンルの小説でしたので,作者は苦しみながら,途中何度もエタリそうになりながら書きました。
それでも投げ出さずに最後まで書けたのは,ブックマークや評価を下さった読者の皆様のおかげです。心からそう思います。
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